3397.2016年8月31日(水) キューバ最後の1日

 今日は明日の帰国に備えてサンチアゴ・デ・クーバからハバナへ移動した。早朝6時に空港へ向けて出発したのでホテルでは朝食は取れず、サンドウィッチ弁当を携帯することになったが、私は朝食をお粥と缶詰、そして緑茶で自炊することにした。幸い携帯湯沸かし器も新式を用意してきたので、さして問題はない。

 予定通り1時間15分のフライトでハバナ国内線空港に着いた。キューバへ足を踏んでから感じるのだが、とにかく緑が多いことで空港から市内へ向かう道すがら左右は緑で溢れている。道路の中央分離帯が緑で覆われている都市は多いが、それはほとんど芝生である。だが、ここキューバでは大木まで生えていて風当たりが実に爽やかである。

 それは降雨量が多いことが大いに与っている。午後にはキューバ全体に降雨があり、そのせいで土が更地となっている場所は極めて少ない。これらを含めて今回の旅行でキューバの気象が強く印象に残っている。

 さて、ハバナの中心地へ戻って来て港沿いのサンホセ民芸品市場へショッピングに出かけた。これほど1か所にまとまって屋内に屋台式でお店が立ち並んだ広大な場所は他に知らない。どこも同じような民芸品を売っているが、とにかく安い。また、ゲバラやカストロ関係のTシャツや帽子が販売されているのもこの国の特徴だろう。私も安さにつられていくつかのお買い物をする。

 昼食がそこから歩いて近くのビア・ガーデンだが、ビールの醸造所の屋内にある。中央部の舞台ではラテン・ミュージックのショーを6人のグループがやっていた。中々リズミカルで歌手が中々愛嬌たっぷりに腰をくねらせながら美声を披露していた。珍しいビア・ガーデンのランチとともに楽しいものだった。珍しかったのは、テーブルに持ってこられた生ビール給器の形だった。自分でひねるとビールがグラスに注がれるがその給器の筒のような縦長の器には初めてお目にかかった。

 その後は旧市内を池上さんの案内で散策に出た。キューバ最古のカテドラル、サンフランシスコ修道院、砦跡、などを回り、ヘミングウェイ所縁のバーや定宿だったHOTEL AMBOS MUNDOSなどを興味深く見学した。いずれもヘミングウェイの写真とサインが掲げられてあった。古い路地裏のような住宅街は、世界遺産として登録された旧ハバナ市内の特徴を如実に伺わせてくれる。最期の晩餐は、キューバ国内で33階建ての最も高いビルの展望レストランで通り今や通り相場となった伊勢海老を食しながら楽しい思い出話に楽しい時を過ごした。高層階から眺望するハバナの市街にも取りとめのない感慨に耽った。いよいよ明日は帰国となったが、5時にホテルを出発ということで10時前にはベッドに入る。

2016年8月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3396.2016年8月30日(火) 世界遺産とカストロの生家を尋ねる。

 世界自然遺産に登録されているアレハンドロ・デ・フンボルト国立公園には、ホテルからほんの1時間もかからずに到着した。とにかく広い公園でグアンタナモ州の中でもかなりの面積を占める。この世界遺産の最大の売り物は、世界で最も美しいと言われるカタツムリ「トリニダー」と世界で一番小さいカエル「エレウテロ・・・イベリア」が生息していると言われていることで、公園のガイドで16年間もその道で研究している女性が公園まで案内し、その途中でバスを停めさせ、いずれも世界一の生き物を捕まえて見せてくれた。後者のカエルはほんの1㎝もない小さな動物で神秘的な点に感嘆したところである。その名の通り公園のネーミングはドイツ人生物学者フンボルト博士が惚れ込んで、ここで調査し、新種の生き物を探し、発見し、絶滅の危機から救おうとしていた地道な功績に因んだものだという。今ドイツが相当な費用を拠出してキューバの研究者とともに自然保護の見地と絶滅奇種の恐れのある生物の保護に力を入れている。ここキューバで嫌われているアメリカは、科学分野の領域であるにも拘らず、手をこまねいて指を銜えて黙って見ているしかない。

 午後は長い移動のため車内弁当を済ませてビランへ向かい、革命の盟主・フィデル・カストロ前国家評議会議長と弟のラウロ・カストロ現国家評議会議長の生まれ育った実家で、今ではカストロ博物館と呼ばれている聖地を訪れた。父親がかなりの資産家であったために行き着く前のトウモロコシやサトウキビ畑はカストロ家の土地だったと聞いていたが、とにかく広大な敷地である。そこはカストロ家の固定資産ばかりでなく、周囲にはホテル、バー、郵便局、闘鶏場などもあり、緑の多い環境から豊かだったフィデル・カストロの幼児期が偲ばれる。

 生家と言ってもカストロが葉巻の不始末から焼失し、その後現在のオリジナル風に再建されたようだ。カストロ青年は恵まれた家庭環境の中で、愛情深い両親や兄弟姉妹に囲まれて幸せな青年時代を送っていたことが想像できる。ハバナ大学で法学を学び弁護士になって何不自由なく、まったく不満が湧くような環境ではない生活を送りながら、世界中の度肝を抜くようなキューバ革命を成功させるまでひたすら革命闘争に拘り、自由で恵まれた生活を捨ててまでも初志貫徹を実行した強い精神力とひたむきな意思はどこから生まれたのだろうか。人格的にも卓越し、物欲に捉われることなく、多くの人々、就中貧しい人々や同志たちからも信頼された。それが世界史的にも稀なキューバ革命を最終的にやり遂げた原因だろう。

 やはり今日のキューバでは、革命なしには何も語れない。革命が成功したキューバが艱難辛苦を乗り越えて国民のためにどんな国造りを成し遂げるのだろう。まだまだ道は遠いようだ。

2016年8月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3395.2016年8月29日(月) グアンタナモ米軍基地は訪問できなかった。

 期待していたグアンタナモ米軍基地近くへの立ち寄りはならなかった。キューバ最東端州のグアンタナモへ行き、市内では時間を過ごすことができたが、残念ながら基地には近寄れず、基地を見張らせる展望台があると聞いて行ってみたが、完全に期待は裏切られた。丘の上の展望台は櫓が組まれていて、そこから望めば遠望ではあるが、米軍基地が見えるかと思ったが、半島の影になっていて見ることができなかった。展望台ではそこのガイドがアルバムを見せながら基地について説明してくれたが、こんな展望台ではいくら展望台と称していても本来の目的が果たせないので、精一杯熱心に説明してくれたところで納得できるものではない。

 話によると基地内はひとつの街が形成されていて中には刑務所まである。イラク戦争中にはイラク政府軍の捕虜をこの中に押し込んで虐待して、その画像が世界中に流されショックを与えた所である。これによってアメリカ軍兵士らの手荒い行動が表沙汰になり問題になった刑務所がある場所だ。ここに住む軍人、及び軍属、並びに家族はここから一歩も外へ出ないという。これなら沖縄駐留米軍人が沖縄で度々起こすような不祥事は起こらない。日本政府もひとつ沖縄米軍人に対して同じような行動を求めてはいかがであろうか。いずれにせよ、グアンタナモ米軍基地はアメリカとキューバの間に棘のように刺さった施設である。何とか見てみたいとは思っていたが、やはり昨日知らされたように駄目だった。

 さて、その後は今日の宿泊地、コロンブスが上陸し、最初の首都だったバラコラへ向かって途中ジャングルの中のレストランで昼食をいただいたが、実に開放的で素朴な感じの場所で、食事自体もキューバの地元料理をいただいた。何となく一度訪れたことがあるボルネオのコタキナバルのオラン・ウータン園に似た雰囲気で、どこかで猿が我々を観察しているのではないかと思ったくらいである。

 このところハード・スケジュールにやや疲れ気味で、私の場合腰を痛めてしまったこともある。今朝もベッドから起き上がる際に痛みと闘って漸く普通に歩けるようになった。何とかグループに付いているが、旅行中の疲れはきつい。今日のホテルは「ポルト・サント」といってコテージ風の建物に分かれたリゾート・ホテルである。しかし、バスタブがなく、ウォッシュ・タオルの備えがなく、写真で見るプール付きの洒落た外観とは距離がある。それでも3つ星である。海岸まで降りてみる。狭いビーチなので、これではリゾート・ビーチ・ホテルというには看板に偽りありとなる。これではビーチより利用者はプールに気持ちが行ってしまうのではないか。

2016年8月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3394.2016年8月28日(日) 迂闊にもバスタブで転倒し、頭と腰を痛める。

 えらいヘマをやってしまった。バスタブでこけてしまい頭から外のタイル張りの床に落ちてしまったのだ。後頭部には大きな瘤ができて痛くてしょうがない。

 実は今朝1時ごろ風呂に浸かってゆっくり休もうとバスタブにお湯を入れようとしたところストッパーがなく、止むを得ずシャワーに切り替えたがそのシャンプー中にバスタブ内で転倒してしまったのだ。バランスを崩して咄嗟にカーテンを掴んだがそのまま洗面所の床に後頭部を強くぶつけてしまった。大きなこぶができ、痛みが激しく、しばらく唸っていたがその後寝てしまった。ところが、朝起きてみると頭の痛みが小さくなるに従い、腰の周辺が痛んで思うようにベッドから起き上がれない。ゆっくり時間をかけて少しずつ体調を整えて漸く歩くことができるようになったが、ちょっと尋常ではない。取り敢えず、屋上のレストランまで上り朝食を済ませてこの様子を池上さんと偶々グループに同行している医師の荻野先生、看護師をされておられる娘さんにお話をし、今日の予定はこのまま様子を見るためにも出かけることにした。少しずつ痛みは解放に向かっていた。

 ところが、午前の観光を終えてホテルに戻り3時間ほどベッドで休憩を取り夕食のためベッドから立ち上がろうとしたところ、今朝と同じ現象にすんなり起き上がれず身体が痛むばかりである。時間をかけて少しは痛みが引いたのを見計らって夕食に出かけた。

 ところが突然降り出した雨のため、今夜の屋外ショーは中止となった。別のオプショナル・ツアーを企画してくれたが、真夜中の12時に開演ということだったので、身体のことも考えて諦めて不参加にした。年齢を重ねて来ると自分が意識しなくとも、不意に想定外のことが起きる。こういうアクシデントにどう対応するか少し考えた方が良いと思っている。

 さて、今日の観光でキューバ人が何かにつけお祈りに出かける丘の上の‘Santuario Yaturived de la Virgen del Cobre’という教会を最初に訪れた。カトリック系の教会で日曜日午前中というせいもあり、ミサを行っていた。その後革命の発端となった「モンカド兵営」を訪れた。そこでは兵営のガイドさんの説明で1953年7月26日にフィデル・カストロらが兵営を襲撃し、政権側に捕えられ失敗に終わった革命の聖地を見学することができた。何と言っても生々しい現実を写真や関係資料によって説明を受けた。キューバや革命について思うところはいっぱいある。少々現実離れしているようだが、これこそキューバ革命が起きた現場なのだ。その後世界文化遺産にも登録されている「モロ要塞」を訪れた。写真が貴重なフランス語と英語の革命に関する書物を2冊買いこんだ。

 革命に関する聖地を訪れ、これまで読み込んだ書籍と合せてカストロ、ゲバラ革命の形が少しずつイメージできるようになった。明日はまたアメリカ空軍の基地のあるグアンタナモ基地を訪れる予定だったが、どうなるのか。池上さんのお話しでは、アメリカとの話し合いの中で外国人観光客に見せる、見せないのトラブルが持ち上がっているという。折角見学に来たのだから、何とか見せて欲しいと願っている。

2016年8月28日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3393.2016年8月27日(土) 改めてチェ・ゲバラに尊敬の念を深める。

 昨晩ホテルにチェックインしたのが遅かった。遅れた最大の理由は外貨の両替だった。キューバが通常の国と異なるのはUS$を簡単に両替できないことと、一級のホテルでさえUS$の両替を扱ってくれないことである。空港の両替所事務員がひとりでてんやわんやの末に、やっと補助員がアシストに駆けつける有様である。憧れのキューバだったが、最初に降りたハバナ国際空港のイメージは良くない。

 宿泊のアルマドレス・デ・サンタンデルへチェックインしたのが今日の1時過ぎだった。取り急ぎ床に入ったのが2時だった。空港からホテルへの真っ暗になった道すがら感じたのは、革命は成功したが、社会資本の遅れが目につく。通りや首都の公園でありながら街灯は数少なく、薄暗くなっており、ガイドのエライネ・パラシオスさんが暗い路地を一人歩きは慎むよう注意があったが、とてもひとりで夜間外出はできそうもない。

 ちょっと気になったのは、空港を出て暗い中で道路が濡れているような気がしたので、エライネさんに尋ねてみると雨が降ったといい、この時期のキューバは気象が変わりやすいとあまり旅行には有難くない話だった。それが今日の午後現実となった。

 ところで、このホテルは1875年に開業したという。ハバナ市内に大小取り交ぜて似たようなビルがたくさんあるが、このホテルも昔風のロココ建築風で天井が高く内部は重々しい。帰国前日の宿泊を別にすると昨晩1日だけの宿泊だったが、単刀直入に言って使い勝手が必ずしも良いとは言えない。だが、ダイニングルームを含めて館内に高級感がたっぷりと漂っており、昨今の東京や世界の大都市の近代的ホテル・ラッシュの中では貴重な滞在経験とも言える。

 さて、キューバ滞在第1日目は、ハバナ市内の観光とサンチャゴ・デ・クーバへの移動で終わった。ハバナと言えば話題になる半世紀以上も昔のアメ車を5台チャーターし、市内を巡った。現在工事中の国会議事堂前を通り過ぎ、名高い革命広場へ向かった。キューバの英雄であるホセ・マルティ像、郵政省ビル、壁にチェ・ゲバラの肖像がある内務省ビル、劇場、防衛省ビルに囲まれた広場には多くの観光客が訪れていた。この後モロ要塞、カバーニャ要塞を訪れてチェ・ゲバラ第1邸宅を外観だけ見て、ゲバラ第2邸宅を見学した。ここはいまではチェ・ゲバラ研究所と名付けられチェ・ゲバラについて多くの展示物が飾ってあった。

 旅行前に書物やDVDでチェ・ゲバラについて知った彼の人間性とひたむきな革命への強い意思を、展示された私物や写真を通して改めて知ることができた。広島を訪問した時の写真を見て、改めてチェ・ゲバラに対する尊敬の念を深めることになった。

 ハバナからサンチャゴ・デ・クーバへのキューバ航空国内線のチェックイン・カウンターの対応の悪さを実感した。予告もなく搭乗機は2時間近く遅れ、加えて出発直前に雷雲が発生し、ロシア製アントノフ158機は揺れっ放しのまま雨のサンチャゴデ・クーバ空港へ到着し、ホテルで手早くチェックインを済ませて夕食のためレストランへ徒歩で向かった。ここで食べた伊勢海老が量も豊富で味もよく、今日1日の印象が一転して良くなった。

 明日以降が楽しみになった。

2016年8月27日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3392.2016年8月26日(金) カストロの故郷・革命の地キューバへ向けて

 久しぶりに羽田空港国際線ターミナルへ妻に車で送ってもらったが、新国際線ターミナルビルが完成してから利用したことがなかったので、その必要はなかったが、カーナビを使用して大失敗してしまった。わがカーナビは10年前の旧式で複雑化した道路の新規要望に応えられないのか意思とは別の方向へばかり案内しようとするので、面倒になって空港近くでoffにしてしまった。空港までは迷うことなくやって来たが、空港敷地内に入ってから以前韓国に行った時利用した掘っ立て小屋風の建物はすでになく、新しい国際線ターミナルビルへは思うように車で行けず、第2ターミナルビルから巡回バスのお世話になってしまった。

 一応案内によるとキューバ行きの人は世話役のキューバ観光情報局の池上和徳さんと神谷嘉一さん以下私を含めて14名だった。この池上さんと仰る方は、戦時中父親が同盟通信ベルリン特派員だった人で、キューバ革命後カストロ前議長からアジアでただひとり会合に招待された方だそうである。

 普通の団体とは違い、すでにエア・カナダ航空の予約を始め、座席まで確保されているので、個人的にチェックインして機内へ乗り込む。今キューバとアメリカとの間には直行便が運航されていないため、カナダのトロント経由でキューバへ向かう。そのためカナダ入国用にeTAという手続きを済ませてある。これも今年になって施行されたものだ。他にもキューバ入国用にはビザに該当するツーリスト・カードの取得と海外旅行保険証書が必要というから少々面倒臭い。

 さて、トロントまで12時間余はいくら直行とは言えちょっと長い。機内は満席の状態である。トロントでは普通ならトランジットとして待合室で目的地のフライトを待つだけの筈が、ここでは一応入国手続きと手荷物のチェックを行う。何の問題もない。ここからいよいよ目的地のキューバの首都ハバナへ向かう。ハバナへ着いたのは22時30分を過ぎていた。市街へ向かう途中で垣間見た街の感じは貧しいなということと、遅い時間とは関係なく町中が暗いという印象だった。

2016年8月26日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3391.2016年8月25日(木) イタリアとビルマで大地震発生

 昨日イタリアの中部都市ペルージャ近郊の山間地帯アマトリーチェでM6.2の地震があり今日までに約250名の死者を生んだ。まだ崩壊した建物に押しつぶされた人が大勢いるようだから、犠牲者はまだまだ増えそうだ。

 それから少し遅れてビルマ中部のパガン周辺でM6.8の地震が起きてパガン名物のパゴダ・仏塔が多数倒壊した。今のところ犠牲者はイタリアほど多くは報告されていないが、今後状況がはっきりするに連れてその数も増えてくるだろう。これまでに24回ほどビルマを訪れているが、パガンも度々訪れた。このパガン平原一帯に建ち並ぶ、仏塔が空気の澄んだ広い地域に広がっている風景ほど心を打たれる印象的な情景はない。12世紀前後に栄えたパガン王朝時代に建立された仏教遺跡が素晴らしい。なんでも今度の地震で2,500基以上あるパゴダの内170基が倒壊したそうだ。残念でならない。ビルマでは漸くユネスコ世界委員会に加入して、一昨年初めて国内で「ピュー古代遺跡群」が世界遺産に登録されたが、残念ながら本命視されていたパガンは認められなかった。いずれ数年内には世界遺産として登録されるようになるだろう。それだけに事前に傷がつくのが惜しくてならない。

 パガンの特に素晴らしいのは、朝日の昇る時間帯と夕暮れ時のポエティックな光景は思わず息を呑むほどである。

 どうにも自然現象によって破壊される貴重な伝統文化や遺跡は、現状では救いようがない。だが、これらの貴重な遺産を無駄な戦争とか、人種・民族の対立によってむざむざ破壊してしまうのは罪悪である。すでにタリバンによってアフガニスタンのバーミヤン渓谷の巨大な仏像が人為的に破壊されたり、シリア国内にある人類の宝である古代遺跡がISなどのテロリストによって意図的に破壊されたが、これらの悪行こそ許容し難い。

 北朝鮮による恫喝の膨張も益々勢い付いている。昨日北朝鮮が今日の先軍節に先立ち、潜水艦から核兵器搭載が想定される弾道ミサイル(SLBM)1発を発射した。海中から打ち上げたミサイルは約500㎞離れた日本の防空識別圏内に落下した。北朝鮮にもこれまでと同様に言い分はあるが、すべて身勝手なものである。今度も米韓合同訓練と韓国に配備される中朝を射程内に睨んだTHAADシステムに強く反対するとしている。こうして北朝鮮の解決策のない軍事増強政策はめくら道に入り込んでいく。

 さて、作家・真継伸彦氏が亡くなられた。84歳である。最近の作家活動はほとんど伝えられなかったので、詳しく知らなかった。だが、真継氏からは若い頃随分刺激を受けた。まだ新米サラリーマンだった半世紀前、当時時代の寵児だった高橋和己のヒット作品「憂鬱なる党派」、そして「新しき長城」を読んだその勢いで真継氏の「光る声」を読んだ。あの頃は私も何事にも一直線だった。あれから随分時間が経った。今では私も年齢を重ねて多少妥協するようになったのではないかと思っている。

 真継氏のご冥福を心よりお祈り致したい。

2016年8月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3390.2016年8月24日(水) 孫とアニメ映画を鑑賞する。

 横浜に住む二男から今日1日だけ5歳になる男児の孫の面倒を見て欲しいとかねてから頼まれていたので、妻とともに二男の自宅へ孫を引き取りに出かけ、打ち合わせ通り桜木町の「みなとみらい」界隈の映画街へ連れ出した。映画は幼児用アニメなので、昨日からシアターへ電話して聞いてみたり、ネットで調べた結果気が付いたことがある。

 まず問い合わせの電話はほとんど録音音声で心の籠った会話にはならない。だから聞きたいことが思うように質問できない。そして映画自体で一番気をつけなければならないのは、アメリカ製映画なので画面に字幕が表示されるのはわが孫のように文字が読めない幼稚園児には理解不能な話で、吹き替え版でないと絶対にいけないと、吹き替え版の上映時間に合わせたことである。他にも孫らしき子を連れた何人かのお年寄りを見かけたので、彼らもその点は考えてやってきたのだろう。映画が終わってから帰ろうと思っても孫には折角の機会と思っているのか、どこかへ行きたいと駄々をこねる。その挙句横浜港の大観覧車に初めて乗って港周辺を空から眺めることになった。そしてゲームセンターにまでつき合わされほとほと疲れて帰還することになった。

 さて、オリンピックも終わり日本選手がリオから続々と帰って来た。今日羽田空港に着いたチャーター機では、五輪旗を振りかざしながら小池都知事がタラップを降りて来たが、これから2020年東京オリンピックまでの4年間にクリアしなければならない課題が山積している。最大の課題は、大ぶろしきを広げてオリンピックを成功させるためにできる限りのことをやりたいと言っていた当事者たちも、開催費用が雪だるま式に膨れ上がり、当初予算の4倍になるという試算もある現状をどう解決していくのか。先般行われた都知事選中小池知事は、東京都はオリンピック予算を無駄のないよう極力削減すると公言していたが、その後も度々予算削減について触れている。後から後からたくさんの課題が出されて果たして知事が望むように東京都の予算を削ることができるだろうか。

 他にも予算上の問題がある。過去最大のメダルを獲得したリオ大会を上回るメダルを目指す以上、強化策にもかなりの投資が必要であろう。4年間かけて無駄なく資金を投入して実績を上げてほしいというのは国民の願いであろうが、国と東京都はこれらの問題をどうクリアしていくのだろうか。小池知事にとっても試金石である。

2016年8月24日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3389.2016年8月23日(火) DVDを観てキューバ革命を考える。

 キューバ旅行を前にしてこのところキューバについて「勉強」している。すでに3冊ばかり革命関連書を読んだが、昨日と今日、アマゾンを通して過日購入したフィデル・カストロの革命同志、チェ・ゲバラに関するDVD2巻を観た。「チェ」と題したダブルパックのセット商品で、1巻は「チェ・28歳の革命」、もう1巻は「チェ・39歳別れの手紙」である。いずれも革命についてその茨の道を強く打ち出したもので、1巻ではキューバ革命を成し遂げるまでのゲバラの半生を描いている。2巻はゲバラがカストロに宛てた別れの手紙に記した通り、革命を成功させてキューバを去ったゲバラがボリビア山中でゲリラを指導しながら新たな革命を目指したが、最後に農民の密告によりボリビア軍に追われて捕まり処刑される39歳までの生涯を追ったものである。

 愛も恋も演じられない革命一辺倒の作品で、革命か、キューバ革命にでも関心がなければ多分退屈するのではないだろうか。だが、中々の力作であることは間違いない。実際2008年カンヌ国際映画祭で、チェ・ゲバラを演じた俳優が男優主演賞を受賞している。何といっても一口に「革命」というが、これこそ所変われば品変わると言われるように、革命と称される革命はそれぞれに個性的でひとつひとつ大分異なる。特に、革命というと社会主義、或いは共産主義と同一線上にあるものと考えられがちであるが、よく調べてみるとカストロ主義、キューバ革命は当時のソ連や東欧諸国が主導する社会主義とは明らかに異なる。ソ連の援助を受けたから両国は蜜月関係にあると誤解されがちだが、それはキューバがアメリカから経済封鎖を受け苦境に陥った時にソ連が援助の手を差し伸べたことから、背に腹は変えられずキューバはソ連に頼ったのであり、決してソ連主義や共産主義に傾倒したわけではない。それは革命を成し遂げたカストロ兄弟やゲバラが目指した革命の理念や意識が、その発想ややり方においてロシア革命や他国の社会主義へ至った経緯とはまったく違うからである。

 DVDを観た限りでもまだキューバ革命については分からない点も多く、またキューバ革命は奥が深いとも思っている。キューバ革命については、現地で充分見聞しあらゆる角度から見て自分なりにキューバ革命とは何かと考えてみたいと思っている。

2016年8月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3388.2016年8月22日(月) リオ・オリンピック閉会

 今朝テレビではリオからオリンピック閉会式の実況中継を伝えていた。17日間開かれた南米初のお祭りも今日で幕となった。会場のマラカナン・スタジアムはラテン系の陽気なお国柄らしく賑やかにサンバで盛り上がっていた。オリンピック旗をパエス・リオ市長からバッハIOC会長を介して和服姿の小池百合子・東京都知事へ手渡され、小池知事は左右に大きく振っていた。前任者の舛添前知事はこれをやりたかったのだが、身から出た錆でそのやってみたいことを自ら捨ててしまった。尤も武骨な男より着物姿の日本女性の方がよほど引き立つし、絵になると感じた次第である。小池知事はまだ業務上の実績は挙げていないが、取り敢えずお召し物とその存在感で先取点を取ったと言える。

 セレモニーではいろいろ趣向が凝らされていたが、グランド中央部に次回開催国日本の日の丸が投影され、東京から地球を突き抜けて土管を通って舞台へ飛び出して来たのが、何とスーパーマリオならぬ安倍首相だった。

 それにしてもちょっと残念だったのは、これだけ盛りだくさんの閉会式のスタンドが意外に空席が目立ったことである。それはグランド内の選手席でも同じだった。開会前から入場券の横流しが問題になっていたが、こんなところが原因かも知れない。次回東京大会ではこういうことのないよう気をつけてもらいたいものである。

 今度のオリンピックで日本は、金12、銀8、銅21、計41個のメダルを獲得した。メダル数では過去最多となった。目立ったのは、柔道、レスリング、バドミントンなどで見られたように逆転勝ちが多く、今までの日本選手のイメージが変わったことと、失礼ながら絶対上位入賞の望みはないと思っていた男子陸上400mリレーで短距離王国のアメリカ、カナダなどに勝ち、銀メダルを獲得したことである。選手たちは東京大会では更に良い成績を挙げたいと語っていたが、本当にこれら若者が頼もしく思えた。

 さて、安倍首相のオバマ大統領の核に関する発言について首相のコメントがいろいろ取り沙汰されているが、その前にバイデン副大統領の共和党大統領候補トランプ氏に対して、「日本が核保有国になり得ないとうたった日本の憲法はわれわれが書いた。こんなことをトランプ氏は知らないのか」と必ずしも正確ではないことを言って非難していたが、この副大統領が失言の極めて多い人であることは知る人ぞ知るだったそうである。

 とにかくよく考えずに口からぽろっと喋るからボロが出る。バイデン氏はまもなくオバマ大統領の退任と同時に終わるが、安倍政権はまだまだ継続される。1強多弱になった現状では、周囲に更に長期政権を作り上げるために現在の「3年・2期」の総裁任期を延長しようと考える人たちがいる。現在の自民党則では、安倍首相は2018年に任期を終える。これでは2020年開催の東京オリンピック時に自民党総裁、イコール首相に在任できない。早くも仕掛けられたのか、最近党幹事長に就任した二階俊博・幹事長が言い出して党内には一部反対論が起きている。

 みんな欲得感情で動いているから始末に負えない。

 昨日からの台風9号の影響で北海道から関東まで大荒れである。そんな中で昨日「信念の人」ジャーナリスト・むのたけじ氏が101歳で亡くなった。戦時中従軍記者としてアジアに派遣されたが、国民を裏切ったとして終戦の日に朝日新聞記者を辞め、その後生涯を通してずっと戦争絶滅を訴え続けてきた。以前竹内謙元鎌倉市長から朝日の大先輩だったむのさんの話を聞いたことがある。竹内くんは2年前に他界したが、今ごろは久しぶりに一献傾けているかも知れない。憲法改正論議が喧しい中でまだ活躍して欲しい人が亡くなった。今の朝日にはもういない信念を曲げない正義感の強いタイプの記者だった。実に惜しい。

2016年8月22日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com