充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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5770.2023年6月8日(木) 戦時歌謡、軍歌の良いところ
今日梅雨入りしたようだ。先日の台風2号に続いて今フィリピン東方に台風3号が発生しているらしい。これから1週間ほど悩まされそうだ。
今取り掛かっているドキュメント作品の中で戦時中に流行った軍歌について若干頁を割いているので、YouTubeなどで調べてみると軍歌についていろいろなことが分かって興味深い。初めてビルマ(現ミヤンマー)やインドネシアを訪れた時、随分現地の人々が日本の軍歌を愛し唄っているのに驚いたものだ。軍歌についてはすでに上梓した拙著にも書いているが、軍部従属、戦意高揚に手を貸したとして、戦後まもなくマッカーサーの連合国司令部によって禁止された。しかし、その後徐々に緩和され今ではどこでも歌えるのだが、 歌詞が忠君愛国の軍国調のため、また再軍備に利用されるとの懸念からあまり大っぴらには流行ってはいない。
ただ、「愛国行進曲」が、戦時中流行って第2の国歌とも言われたとは知らなかった。フランスの国家「ラ・マルセイエーズ」は、フランス革命に因んで作られた「ライン軍軍歌」というのがオリジナルだそうで、他にも戦争や革命を機に作られた国歌はかなりあるようだ。案外東南アジアの人たちにとって日本の軍歌はメロディーが馴染みやすいようで、かつてジャカルタ郊外の集落で知り合った警察署長さん宅の近くで随分日本軍歌を聞かされたものだ。それ以前にスカルノ大統領が来日してテレビ出演した際には、大統領が「愛国の花」を日本語で唄われたのを観て現地では大統領にまで唄われていたのかと感銘を受けたことがある。また、フィリピンのマルコス大統領イメルダ夫人は、大統領とともに皇居を訪れた際、前記の「愛国行進曲」を香淳皇后とともに合唱したとの話もある。それほど戦前の軍歌は、東南アジアでは受け入れられていた。とにかく言葉がはっきりしていることと、元気の良さを感じさせるところが良い。
この他に「空の神兵」が、藤山一郎をはじめ多くの歌手によってレコード化され、戦後も国内では唄われているようだ。加藤隼戦闘隊がインドネシアの石油基地パレンバンを攻撃し、空挺団が奇襲的に落下傘降下したことを唄ったこの軍歌は、今では習志野自衛隊空挺部隊の隊歌とも言われ、各種行事の折には、その開会に当たり必ず音楽隊が演奏する。確かに兵士を元気づける歌詞になっていたり、神国日本をカモフラージュするようなとても今日受け入れがたい点はあると思う。難しいことではあるが、歌詞の内容は別にして良いメロディーをこのまま放っておくのは惜しいような気がする。
個人的には「加藤隼戦闘隊戦隊歌」と「ラバウル海軍航空隊」が勇ましくて好きだが、特に前者は、長年旧陸軍戦友会慰霊団を計画、添乗や、太平洋戦争戦没者遺骨収集事業などに関わりよく戦友会の人たちと唄う機会があった。この戦隊歌の作詞者や、加藤戦隊長未亡人らをも存じ上げていたので、思い込みも人一倍強い。一般に軍歌を単に戦争を賛美する歌と思わず、良い点をもっと理解して欲しいと思っている。東南アジアの人々と同じように・・・。
5769.2023年6月7日(水) 日ごろの健康管理について思うこと
元々健康優良児だった。小学校から高校までの12年間1日も学校を休んだことがないことを自慢していたくらいである。だが、加齢とともに何かしら健康面で異変を感じる時があり、最近では健康管理のためにいくつか心掛けるようになった。普段はウォーキングを日課として、大体1日6千歩前後を歩いているが、サラリーマン現役時代には計ったことはなかったが、営業部門が長かったので、連日1万歩から2万歩はクリアしていたと思う。しかし、今では1日1万歩は遠い目標になってしまった。去る3日には吉祥寺方面へ出かけたので、久しぶりに1万歩を超えたが、何とそれが2月以来4か月ぶりに小さな壁・1万歩を超えたのだ。医師は今のペースで無理しないよう仰っているので、あまり無理せずこれからも6千歩程度を目標にしていこうと思っている。
現在やや困惑気味なのは、高齢者特有と言われる変形性関節症による両手指の硬直化である。東京医療センターの専門医からは、治る可能性はほとんどないと冷酷な通告があったが、通いつけの整形外科医はそれでも両手のリハビリは続ければ、硬直化の進行は防止出来ると言っていただいているので、毎日気が付いた時に両手のリハビリを続けている。些か気になるのは、両手が時間と場所を選ばず、急に痛むことであり、その箇所も時間によって変わるからややこしい。少々面倒だと思いながら、痛みを感じる都度そこへ小さく切り取った湿布を貼っている。
全体的な健康法としては、毎年8月に慶応病院で人間ドックを受診することをベースに、そこで指示されたことは実行するようにしている。この他に内科、整形外科、糖尿病は通いつけの医師がいるので、定期的に診てもらっている。この他に自分自身で1日に2度体温と血圧、脈拍を、そして体重を1度測り、それを一覧表にして医師に報告している。
卑近な例としては、昨日内科で診てもらい、今年に入ってからずっと続けていた黒子のような出来物を塗り薬で治療していたが、それもほぼ消えたので、医師からしばらく止めましょうとアドバイスされたので、昨日から塗り薬は止めている。
全般的には格別心配するようなことはなさそうなので、今まで通りやや神経質に受け取られがちだが、このまま続けていきたいと思っている。
さて、相変わらず戦闘状態が続いているウクライナのロシア占領地域のひとつであるヘルソン州ドニプロ川のカホウカ水力発電所のダムが決壊し、1万6千人ほどの住民が危険にさらされ避難を進めている。ウクライナのゼレンスキー大統領がロシア占領軍はここ十数年で最大の生態系破壊の罪を犯したと強く非難した。これに対してロシアは、ウクライナの命令で実行されたもので、クリミアから水を奪うためだと反論した。今日の国連でも両国が相手国非難の応酬である。このダムは、クリミアに水を供給している外に、ロシアが占拠しているザポリージャ原子力発電所にも冷却水を供給している。幸い国際原子力機関(IAEA)は、現時点では原発の安全への影響はないと見ている。ただ、ウクライナの水力発電公社は、発電所の施設は破壊され、ダムの貯水池から大量の水が流失し、今後4日間は給水出来るが、冷却水の供給を受けているザポリージャ原発は危険な状態になると警戒している。
立地的にこの地域には原発があり、一旦ことが起きると極めて危険な状態が予想される。それだけに両国の良識以外に危険を避ける手立てはない。いつまでロシアはこんな馬鹿げた無謀な戦いを楽しんでいるのだ。
ロシアについてはごく最近こんな話があった。ロシア国内には、元々無類の酒好きの人たちが多いが、西部地域の数か所で違法のアルコールを飲んで大量中毒死者を生んだ。30人もの中毒死を引き起こしたメタノールが含まれたアルコールは、30mlで致死量に達するという。ロシアは、戦争で自らの健康管理が出来ない若者を無駄に死地に追いやるのではなく、アルコール漬けにして死へ追いやっている。もう少し普段の生活を常識的なものにしてアルコール管理を厳しくした方が良いのではないか。
5768.2023年6月6日(火) Googleよりブログ等HP上の検索結果報告
毎月GoogleからHPの検索パフォーマンスとして前月のアクセスの内訳を知らせてくれ、大変有難く思っている。
5月の最多アクセス上位3点は、すべてブログだった。1位は2022年8月16日に書いた「つまらない新聞小説」だった。実は、この日のブログは今年1月に2位、昨年11月にも2位に入っている。余程関心を持たれたのか、納得されたのかは不明だが、私のコメントが少々きつかったので、反って興味本位に読まれたのかも知れない。その「つまらない新聞小説」とは、昨年2月から8月まで朝日新聞朝刊に連載された多和田葉子著「白鶴亮翅(はっかくりょうし)」で、タイトルもよく分からず、読んでいて内容もあまり分からず、重箱の隅をつついているような狭い舞台の内容で、率直に言ってつまらない小説だった。ほんの半年で朝日は連載を打ち切った。著者は著名な作家であり、父娘ともどもドイツの専門家であり長らくドイツに居住しながら広くドイツを紹介していることで知られている。朝日もそこに目をつけたのだろう。申し訳なく思っているが、私のブログ内容が批判的であり過ぎたのか、どういうわけか、多くの方々から「いいね!」を押してもらったようだ。ともかくこの多和田作品は落胆させられた連載小説だった。
この他に少々気になったのは、大分昔の2010年にある親しいジャーナリストの娘さんのご主人が急逝されたことについて書いたブログが、アクセス数3位に入っていたことである。私もその娘さんは良く存じ上げている。実は、このブログは前月4月にも3位入りし、昨年12月にも2位に入っていたのである。どうして最近になってそのような古いブログがベスト3入りするのか不思議に思っている。実は、その事実を知ったのは、同年6月にその著名なジャーナリストからいただいたメールで亡くなられた事実を知らされたからである。多くの方々からブログに興味を抱かれたのは、義父として現地へ飛び葬儀に出席されたが、多分娘婿が韓国籍の人だったことに関係があるかもしれない。式次第は韓国様式で準備万端執り行われたと伺った。娘さんはもちろん夫の故郷へ行かれたが、若くもあり悲しみも深いだろうし、今後を考えると随分気になっていた。そういうプライバシーをブログに書いただけで、多くの方々がアクセスしてくれ、またかなり時間が経ってから唐突に目に入るようになったのはどういう経緯か知りたいくらいである。ある面でご迷惑をかけたのではないかと気にもなっている。
このGoogle情報は、多くのことを教えてくれ、大変有難いと思っている。これからも筋の通る内容で問題点を含んだ文章を綴るよう心掛けたいと思う。
ところで、今年2月24日はロシア軍がウクライナ侵攻を始めてからちょうど満1年となった。その日の朝日夕刊「素粒子」欄に、数字の語呂合わせのような興味深い「戦争開始日の数字合わせ」について掲載されていた。
それに依ると、第1次世界大戦の開戦日は、1914年7月28日で、年月日の1桁か2桁の数字を足すと19+14+7+28=68となる。第2次世界大戦の開戦日も、1939年9月1日で19+39+9+1=68となる。そしてウクライナ侵攻は、2022年2月24日であるから同様に計算すると、20+22+2+24=68となる。
一体これはどういうめぐり合わせであろうか。不思議でならない。これでは「68」の数字合わせは戦争の開始を意味するようなものである。これからは、「68」となる年月日をよくよくマークしなければなるまい。悪賢い「戦争男」は、「68」の日を狙って戦争を仕掛けてくるかも知れない。
5767.2023年6月5日(月) 懐かしの故郷もトリプル無投票の町に
中国や北朝鮮のような覇権国家では、前時代的で非人道的な指導者が独裁的権力を揮い、国民に民主主義の基本である立法、行政、司法の3権を認めず、選挙で国民の声を聞く気持ちもない。民主化抑圧を行っているのが実態である。
言うまでもなく民主国家では、大なり小なり選挙によって住民の気持ちを汲み取るのが、自治体のリーダーとして基本的に欠かせないことである。ところが、それについて今春の統一地方選では、驚くべきことに選挙が行われない無投票の自治体が大分あったのである。法律的に、また自治体の選挙管理委員会としても実施する計画であったが、それが出来なかった自治体が相当数に上った。しかも、それは過去に比べても大分増えている。
特にショックだったのは、道県議選、市町村長選、市町村議選の3つの選挙が行われなかったトリプル無投票の町村が16もあったという現実である。実施されなかった理由は、単純に立候補者数が定数に満たなかったからである。それは全国的に拡散しているが、16町村の内7町村が北海道内の自治体である。
私にとって驚きだったのは、北海道以外の9町村の中に千葉県鋸南町が入っていたことである。鋸南町は、文字通り鋸山南部の東京湾沿いの勝山町と保田町が昭和34年に合併して誕生した、人口7千人弱の小さな町である。私たち一家は、昭和20年4月終戦直前に父が千葉市へ転勤という事情により藤沢市から旧勝山町へ転入し、私は戦時下に勝山国民学校初等科へ入学した。米軍の空襲が激しい中を近所の人たちと近くの岩山の防空壕へ逃げ込んだものだ。旧勝山町には4年半に亘って生活し自然に溢れた海山と友だちに恵まれ自由奔放に楽しい時を過ごしたが、町には勤め人はほとんどおらず、ほとんどが漁師と農家だった。そんなせいもありこの町を去ってから親しく付き合っていたのは、たったひとりである。学校でも優秀だったその友人は国立大学から大手商社に勤務し、彼のロンドン在任中に私の出張と偶然重なり現地で一度夕食を共にしたことがある。最近は体調があまり優れないようで、交流も途絶えがちだが、鋸南町との唯一の絆である。
終戦直後は町も豊かでなかった中で、威勢の良かったのは漁業だった。その網元が町長を務めていたが、今年は4月の町長選挙に誰も立候補者がいなかったという。千葉県議選の地区議員と町議会議員も定員に達しなかったというから、随分冷めた町に変貌してしまったようだ。毎年7月に行われていた町内の夏祭りや、相撲大会はどうなったのだろうか。3年ほど前の9月に大型台風が襲来してかなり家屋が損壊したシーンをテレビでしばしば放映していた。1度末弟と鋸南町をしばらくぶりに訪れてみようと約束したが、それもコロナ渦で実現出来なかった。久しぶりに知った現在の鋸南町は、選挙でトリプル無投票の町にリストアップされてしまった。でも今以て子どものころの思い出がいっぱい詰まっている鋸南町には、ノスタルジアを感じている。今年辺り行ってみようかと言う気持ちもある。
5766.2023年6月4日(日) 天安門事件から34年、中国益々非民主化国家へ
あれから34年である。世界を震撼させた天安門事件発生からである。1989年4月に改革派の胡耀邦元総書記が死去し、その死を追悼するために学生らを中心に北京市民が天安門広場に「自由」と「民主化」を求めて集まった。そこへ中国人民解放軍が無差別発砲を繰り返し、多くの犠牲者を生み、彼ら市民を武力で抑え込んだ。犠牲者の数は、当てにならない中国政府公表の「319人」を遥かに上回る、1万人以上(イギリス政府外交文書)と推定されている。習近平政権は、天安門事件の武力鎮圧を正当化している。遺族は、政府が事件の犠牲者遺族に謝罪し、人民に懺悔することを求め、その一方で政府が残酷な事実の記憶を消そうとしていると批判している。
この事件をきっかけに中国政府の中国人民に対する反民主化対策に拍車がかかった。1997年イギリスから中国へ香港が返還された後、中国は50年間1国2制度体制を保持すると約束したが、間もなくしてそれは中国の一方的な行動により破られた。2020年6月中国政府は、香港への統制を強める国家安全維持法を成立させ、中国政府が司法、行政、立法を直接支配することによって1国2制度は実質的に崩壊した。
コロナ渦対策でも中国帝国主義政府の人民弾圧は止まらず、昨年11月厳しいコロナ政策に対する市民の怒りが沸騰し、その怒りは珍しくも抗議デモとなって、それは中国全土に拡大した。意外だったのは、デモには市民の本音である習近平総書記に対する日ごろのうっ憤が示され、習近平支配を辞めさせることをアピールしたことだった。反抗のシンボルとして、デモ集団は白紙を掲げた。白紙が意味することは、「白い紙は、我々が何かを言いたくても言えないことを表している」とデモ参加者は述べている。これほど大っぴらな反習政権を行動で示したのは珍しい。ところが、それもつかの間で抗議行動は平和的に行われたが、それでも警察当局はこれを放っておかなかった。警察は通りを封鎖し、デモ参加者を逮捕した。結果的にデモ行動は、治安当局によって鎮圧されてしまった。毎度のことながら中国帝国主義政府の常道である。
今や中国には、習近平独裁政権に抵抗出来るものはなくなってしまったのである。民主主義的行為はすべて否定され、行動を起こせば直ちに逮捕され、その圧制はお隣の独裁国北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党総書記に似て、国民に平和で安心できる生活を保障するより、自らの権力志向を優先させ、それを邪魔するものがあれば、断固として個人と言わず組織であろうとすべてを弾圧する構えである。国際的にも国際法を犯し、自国領土の拡大を目論んで、他国との間に紛争の種をばらまいている。まったく共産主義者の対極にいながら、共産主義者を名乗り、恥ずかしげもなく共産主義思想を傷つけている。いつになったら中国は今の悪逆非道の政治を止めるのだろうか。