2224.2013年6月15日(土) 孫のお宮参り

 夕べは「ホテルホークラ新潟」に初めて宿泊した。過去2回はいずれも「ホテル日航新潟」に宿泊したが、偶には別のホテルも良いのではないかと妻と相談し、信濃川に架かる万代橋際の同ホテルに予約した。今日は父の日に当ったおかげで、息子から2冊の立派なアルバムをプレゼントしてもらったことも嬉しいことである。先日のトラック島旅行の写真を整理するうえからもタイミングの良い贈り物で有難く思っている。

 5人目の孫「花」のお宮参りを白山神社で行い、立派な昇殿で神主さんから祝詞をあげてもらい孫の健やかな成長と幸せを祈願する。その後時間があったので、息子家族と嫁の両親とともに「日本海タワー」と称する小高い丘の上の展望台を訪れた。新潟市内はもちろん、天候さえ良ければ佐渡も一望できる回転式の展望台である。近年は市内にももっと高いタワーができたせいで、見学者も減りやや落ち目の観光スポットとなってしまったようだ。だが、かつてのヒーローは中々味のある存在で、一応この上に昇れば市内の鳥瞰図が分る。

 しかし、そこへアクセスする道路が狭いために観光バスで来ることが難しいせいか、土曜日なのに見学者が少ない様に思えた。ちょっともったいない存在だと感じた。全国にこういうもったいない施設が他にもたくさんあるのではないかと思う。

 さて、日本とスペインが今年交流400周年を迎えたことを記念して今日本の皇太子がスペインを訪れておられる。特に皇太子が日本でもあまり知られていないセビリア市郊外コリア・デル・リオに滞在し、日本を意味する「ハポン」さんを名乗る人たちと交流したという珍しいニュースが報道されている。  

 400年前に支倉常長らが慶長遣欧使節団としてスペインを訪れた当時の使節団の内、7人前後が日本へ帰国しなかったと言われている。「ハポンさん」たちの中には、蒙古班のある人もいて、彼らは使節団の子孫ではないかとも言われている。彼らが日本人の名に誇りを持っているということも日本人にとっては嬉しいことである。

 先週訪れた旧南洋群島のトラック島にも戦前から多くの日本人が居留して、現在も日系人の数が多く、立志伝中の人物、森小弁の血を引いた島民の数は数え上げることができないくらいである。そう言えば、かつてメキシコのアカプルコ海岸を訪れた時支倉使節団上陸の標識を見て何となく誇らしい気になったことを思い出した。使節団はヨーロッパを経てメキシコを回り帰国の途へ就いたのである。

 ラテン系のスペインとメキシコ、いずれも親日的な国であるが、その原因にこうした支倉常長慶長遣欧使節団の影響があったというのも面白いと思っている。

2013年6月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2223.2013年6月14日(金) どんどん伸びる世界の寿命

 明日二男の長女、私にとっては5人目の孫のお宮参りをするために新潟へ来た。先月誕生の折に来ているので、上の2歳の男の子もまだ顔を覚えてくれている。2人の孫が元気の良いのが何より嬉しい。

 さて、国連の人口統計が今日発表されたが、2100年には世界の平均寿命は81.8歳となり、日本は世界最高齢94.2歳、最年少がシェラレオネの69.4歳である。国際的にも随分寿命が延びたものである。そのこと自体は決して問題視するわけではない。問題は年寄りが増えるに連れて、高齢者に関わる経費の割合が社会保障費の中で年々増えていることであり、それを歪んだ側面から考えようとする一部の見方である。

 今の安倍政権は財政健全化を考える中で、この高齢者にかかる経費を一刀両断に削減しようとすることに不安を持つ人は多い。今日までわが国の経済発展を支えてきた高齢者を、経費の割合が多いという一面からだけでその経費をばっさり切ることには抵抗がある。特に、国家強靭化計画という名の下に道路建設や道路工事になら巨額の投資を厭わないことなどは、公平性から見ていかがなものかと思わざるを得ない。

 どうしてもっと社会福祉的な観点からの分析を検討しないのか、あまりにも経済的な側面からの経費削減を優先することに不審感がしてならない。

2013年6月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2222.2013年6月13日(木) お粗末!加藤プロ野球コミッショナーの対応

 たかが野球と言う勿れ。昨日明らかにされた、プロ野球公式戦で使われる公認ボールが前年より飛ぶように調整されていた事件ほど非常識で、主役である選手たちを愚弄する行為はない。しかもこれほど日本野球機構の隠蔽体質を思わせるお粗末な事件もない。

 この不祥事が分ったのは、昨年に比べて今シーズンのペナント・レースでホームランの数が約1.5倍に急増したことから、今年のホームラン数は少し多すぎるとの外野の声があったことからである。だが、問題はプレイする選手やチーム、審判ら当事者がまったく与り知らないところで秘密裏にことが決められ、ゲームが行われていた隠蔽行為である。プロ野球界にとっては「黒い霧」事件以来の大不祥事件だと思う。

 昨夕開かれた野球機構の記者会見で、加藤良三コミッショナーは恥ずかしげもなくこの事実をまったく知らなかったと述べた。最高責任者がこういう発言をしたからと言って、この不祥事が許されるわけではない。しかもコミッショナーはこれだけ世間を騒がせておきながら、これを不祥事とは思っておらず、職を辞する考えはまったくないとまで言い切っている。

 加藤氏は特別野球界に愛着を抱いて、これまで野球界のために貢献してきたという人ではない。外交官として駐米大使という地位も名誉も最高のものを得た一方で、偶々野球好きの生来の性格からアメリカでも評価が高く名誉欲を縦にできるプロ野球コミッショナーというポジションに就いた。だが、この人は今日まで果たして野球界の権威を守り、プロ野球人のためにどれほどの仕事をしただろうか。

 昨年はすったもんだの末に、漸く選手会と和解してプロ選手たちは今年3月WBCに参加した。その際外交官上がりの加藤氏は、率先してWBC事務局との外交交渉に乗り出すわけでもなく、選手会が苦難に陥っても手を差し伸べることもしなかった。一貫して責任感の希薄な態度に終始した。

 結局加藤氏は自ら手を汚すことはせず、成り行き任せのまま、代りの人物がことを処するケースが多い。当事者能力にも欠け、組織の長としての資格に欠ける。こういう人物をリーダーとして選んだことは、プロ野球界の悲劇だったと言えよう。

 どうもぱっとしない事件で、ひたすら懸命にプレイする選手たちが気の毒に思えてくる。2度とこんなお粗末な事件を繰り返すことがないことを願っている。また一切の責任を取ろうとの気持ちもなく、事務局に責任をおっかぶせるような年棒2400万円のコミッショナーにはとっとと辞めてもらいたいものである。

2013年6月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2221.2013年6月12日(火) トラック島関係者に取材報告

 今日はトラック島取材に関係ある方々へ電話で帰朝報告を済ませた。森喜朗元首相事務所の長谷川秘書には、昨朝になって今日のアポをキャンセルしたいとの連絡をいただいたので、確認をした。次のアポは1週間後辺りをメドに調整してくれることになった。

 藤沢市の相澤土地㈱相澤社長には、藤沢市から寄贈された消防車が保管されていたことをお話し、併せて相澤本家を継承している方に何とかお会いできるよう仲介をお願いした。ミクロネシア大使館草柳大使秘書にも、ナンシーさんにお世話になったことを伝えた。佐々木信也さんには、近々元ユニオンズのマネージャーだった方を交えて食事をすることを了解していただいた。

 現地のナンシーさん、末永さんにはお礼のメールを送り、偶々知り合ったダイバーで歯科医の熊谷さんには写真使用のお願いのメールを送信した。私が撮った写真もまずまず良く写っていたので、ほっとしているところである。

 明日から少しずつ今回の旅行で得た情報を組み入れて執筆していきたいものである。

 さて、今朝の朝日「プロメテウスの罠」の「テロ大丈夫か」と原発の安全性に疑問を投げかけている記事で、アメリカの非政府組織「核脅威削減イニシアチブ」が2012年1月に発表した安全度ランキングでは、日本は32か国中23位、「核管理が杜撰」という評価を受けていることが分った。とにかく日本の原発ではテロに遭ったらひとたまりもないということのようである。最高点がオーストラリアであるのは理解できるが、2位がハンガリーというのも不思議な気がする。それに比べて23位の日本の下にはロシアや、とかくの問題児北朝鮮がランクされている。昨年来日本に対してはいくつかの問題点が指摘されている。日本は核管理の後進性が評判を落としている。

 日本の専門家とされる内藤香・核物質管理センター理事長の核管理見解にあ対する各国の専門家の目は厳しい。特に、アメリカの専門家からは、アメリカ並みの対テロ訓練をすべきだと強く批判されている。これに対して内藤氏は、「日本は日本の脅威に応じて考えればいい。アメリカと違いがあってもいい」と応えたが、こんな安全神話的な理解では他国の専門家を納得させることは難しい。内藤氏の安全を追い求めていけばコストがかかるとのあまりにも自己本位の考えに対して、安全対策にコストがかかるのは仕方がない。それが嫌なら原発を止めるしかないのではないかとも言われた。その通りだと思う。日本の専門家は、日本の原発は安全だと自信を持っているようだが、安全に対する認識という点ではまったくゼロではないかと思う。こうなると原発が危険である以上、安全対策に万全を期すことができないなら、誰が考えても原発は辞めるのが当然だと思うが・・・。

2013年6月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2220.2013年6月11日(火) 予定通りトラック島から帰国、明日からまた頑張るぞ!

 ホテル・ロビーでチェックアウトを待っていたら、末永さんがトラック島の現状と歴史、特に戦時中の様子についてもっと詳しくお話したいとわざわざ早めにホテルへやって来てくれた。ナンシーさんの話だけでは、父親と親戚関係の話ばかりになって、戦争を知らない世代のナンシーさんはあまり空爆された戦争の事実関係を知らないのではないかと心配されたからである。レストランでコーヒーを飲みながら末永さんから貴重な戦時中の話を伺った。

 水曜島のアイザワ家の話から海軍基地、飛行場、戦跡、慰霊巡拝、山本五十六司令長官の話まで随分参考になる話を聞かせてもらった。重要情報提供者としてトラック島で35年に亘って活躍されている方として拙著にぜひご紹介したいと考え、空港まで送っていただいたご夫婦の写真を撮らせていただいた。

 チューク空港は国際空港とは言え、空港玄関前に何人ものお年寄りが座り込んで物売りをしている、いかにも南洋の島らしいのんびりした光景である。今や世界でも数少なくなった空港風景である。飛行機は予定通りチュークからグアム経由でほぼ定刻に成田へ帰ってきた。滑走路へ着陸してから空港ビルまで延々20もかけてゆっくり辿り着くとは、成田空港の特殊性とは申しながらスピード時代に随分のんびりしたものだ。

 今回の旅行は30数年ぶりのミクロネシア連邦訪問だったので、多くの新しい情報を得ることができた。ススム酋長の生まれ故郷の島・水曜島(トール島)を訪れ、酋長の奥さんにお会いできたことも良かった。また、冒険ダン吉の曾孫・リンダさんにも会えた。しかし、山本長官らの司令本部跡や、旧夏島に残る海軍戦跡を訪れることができなかったのは残念だった。昨日聞いた話では、消防車の引渡し式が11月に決まったようなことを言っていたので、或いはそれへの出席も兼ねてもう一度訪れることも検討する必要があるかも知れない。明日以降じっくり考えてみたい。とにかくナンシーさんや末永さんを始め、幸いにして多くの方々と出会えて貴重な情報を入手することができた。174枚もの写真も撮ることができた。いよいよ明日以降にエネルギッシュに執筆しよう。

 取り敢えず、少し体調は崩したが無事に帰れて良かった。今成田エクスプレス車内でこのブログを書きながら自宅へ向かっている。

 さて、帰宅したら妻が今朝森喜朗事務所の長谷川秘書から電話があり、明日のアポを延期して欲しいと伝えてこられたそうだが、私にとっても写真のコピーなどを考えると、反ってその方が好都合である。しかし、できるだけ早く旅行のご報告をしたいと思っている。

 さあ~て、明日からまた頑張るぞ!

2013年6月11日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2219.2013年6月10日(月) トラック島最後の1日

 昨夜半突然部屋の周囲でざわざわと煩い音と大きな会話の声が耳に入り、ついに目が覚めてしまった。国際定期便昼の週3便の他に、日曜の夜便があると聞いていたが、その乗客らがチェックインして荷物を引き摺りながら階段を昇り、わいわい話ながら部屋の前を通って行ったからだ。いつまで経っても静かになる気配がないので、ついに堪りかねてドアを開け「静かにしろ!今何時だと思っているんだ。眠れやしない」と英語で叫んだ。ドアの傍にホテル係員がいて恐縮しながら謝り、若干静かになったが、しばらくするとまた物音と話し声が煩い。ミクロネシア系と白人の男女らが時間帯を気にもかけず、声高にわが者顔におしゃべりしながら通り過ぎて行く。もう苦情を言うのは諦めた。

 昨晩のでき事について今朝ホテルのフロントにクレームをつけたら、知っていたのか平謝りだった。夜便に乗る宿泊客のチェックアウトと、到着したチェックイン客で迷惑をかけたと謝り、当たり前であるが平身低頭だった。過ぎたことはもう仕方がないにしろ、ホテルマンの言い分がふるっている。この次来られたらもっと静かな部屋を提供するというものだった。サービス業の典型であるホテル・ビジネスというものの本質がまったく分っていない。やはり南洋の島らしく、サービス業も漁師も同じようにのんびりしている。

 因みにノンビリズムはまだまだある。朝食の際オーダーしてから食事が出されるまで約40分もかかり、テーブル上には前の客が食べ残した料理が残ったままだった。チューク州で最高のホテルと呼ばれるこのトラック・ブルー・ラグーンホテルにしてこの体たらくである。エアコン、電話が故障中でいくら修理を依頼してもまだ直らない。こんな手抜きばかりやって大丈夫かなぁとホテルの将来性が心配になってくる。

 さて、前々からススム酋長が開拓し拡張した‘SUSUMU’S STORE’と藤沢市が寄贈した消防車を見たいとお願いしていたが、いずれも今日その願いを叶えることができた。‘SUSUMU’S STORE’は以前に比べてさらに立派な施設になっていた。全体の敷地面積なら建物と駐車場を加えて優に5百坪は超えているだろう。スーパーの隣に独立した小さな事務所があり、部屋内に酋長が羽田孜・元首相を訪れた時の写真が飾られていた。扉の入り口に‘SUSUMU’S ENTERPRISES’と書かれていた。父親の後を継いで今やナンシーさんはここの社長である。

 その後に消防車が保管されている港の倉庫に行って、錠を外してもらって内部に入れてもらい「藤沢市消防本部」と「寄贈ふじさわ湘南ロータリークラブ平成25年3月」と書かれた消防車を見せてもらった。他にもオーストラリアから寄贈されたもっと大きな消防車と日本から贈られたタンクローリーが保管されていた。

 アイザワ家の家系も大分分ってきた。明日トラック島を去るが、有意義な資料と多くの話を聞けて良かった。今晩はお世話になったナンシーさんのご家族6人、そしてモーターボートや車を運転してもらったアイザワ家と親しい2人を夕食にお招きして、感謝の気持ちを込めて晩餐会を行いお別れを告げた。収穫の多い取材旅行だったと思っている。ご期待に応えて何とか読み応えのあるドキュメントに仕上げたいものである。

2013年6月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2218.2013年6月9日(日) 故森正隆さんの娘さんにお会いする。

 今日はナンシーさんの夫であり、「冒険ダン吉」のモデルともされた森小弁の曾孫でもあるエリクソンさんが車で案内してくれた。

 とにかくチューク島はインフラの中でもとりわけ道路が劣悪である。街の中心街へ向かうメインストリートが穴ぼこだらけで、そこへスコールのせいで水が溜まっているのでゆっくりと、しかも泥水の中を運転するのだから車は傾くし、揺れるし、車も痛む。話によれば前田建設が請け負って道路整備計画を推進しているようだが、まだところどころしか完成していない。これで予定通り今年中にでき上がるのだろうか少々気になる。

 今日一番驚いたのは、敷地内に遺骨収集と戦没者の記念碑がある森正隆さんのお店へ立ち寄った際、店の前でひとりの女性が話しかけてきた。森さんには遺骨収集の際随分お世話になった。その女性が森さんの娘のリンダ・モリ・ハートマンさんだったのだ。森さんには生前2度お会いしているが、温厚でアイザワ酋長とは大分タイプの異なる方だった。リンダさんはエリクソンさんとは従兄弟同士で、森小弁の曾孫にして現在52歳、しかもマニュエル・モリ現ミクロネシア連邦大統領の実妹でもある。父親の森さんには2度お会いしていると話したらびっくりしておられた。今回の訪問の主旨をお話してメール・アドレスを交換したので、これからも交流していきたいと考えている。

 アイザワ酋長が通学していた学校を調べているが、何せ戦前から戦中にかけての波乱の時代で当時を証言してくれる人が見つからず、少々往生している。戦時中「国民学校」と呼ばれて現在も古い小学校として残っている建物の写真を撮りまくっているが決定的なものではない。況してやや好い加減な一面のあるトラック島の空気を考えると、ある程度の推察を加えて状況証拠で話をまとめるしかないのかも知れない。

 アイザワ家も日本流に考えると中々複雑で、ナンシーさんの兄弟姉妹にはスミオ、スミレの2人を含めて最低2人はいると聞いていたが、どうやら酋長と母エンキエーナさんとの間の子はナンシーさん一人きりで、後の兄弟姉妹というのは酋長と○号さん、○○号さん等々との間にできた兄弟姉妹のようで、彼女がハーフ・ブラザース&ドシスターズは大勢いると言っていたのは、その辺りのことを指しているらしい。あまり立ち入って聞き難い問題である。酋長は佐々木信也さんには俺には子どもが23人いると豪語していたらしいが、この問題をドキュメントとしてどう取り扱い、どうやって表現するか、やや悩み、また頭の痛いところでもある

 明日は藤沢市が寄贈した消防車を見せてもらい、アイザワ酋長が手広く経営していた「ススムズ・ストアー」を見学してみたいと思っている。

2013年6月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2217.2013年6月8日(土) 不意にススム・アイザワ大酋長のお墓参り

 朝ホテルの船着場にナンシーさんが、13歳の長男と3歳の末っ子息子を連れてスピード・ボートでやって来た。そのまま白波を蹴立ててトール島(水曜島)へ向かった。ひとつ気になっていたことは、森喜朗・元首相の父茂喜氏の戦時中の功績と元首相自身への感謝を込めて森家に贈ったとされ、元首相自身も誇りに思っておられる「森島」の存在をナンシーさんが知らないことで、島の人に聞いてもらったが、思い当たる人がいない。森さんからはウエノ島(春島)から水曜島(トール島)へ向かう小さな島と聞いていたので、小さな島々のシャッターを押し続けていたが、どうなることやら帰国後森さんへの話し方が難しくなってきた。夕食に末永さん夫妻をお招きして訪ねてみたが、アイザワ酋長の森さんへどんな表現で言ったのか分らないので、島は残念ながら見つからなかったとでもお話するより仕方がないと思っている。

 50分近くかかってトール島へ着き、やはり親戚が副村長を務めているマッカーサさんとアリンサさん家族を紹介される。大酋長が生まれたのはこの近くだそうだが、今では密林になっていて行き難いという。

 ススム・アイザワが育ったのはそこから海沿いにしばらく進んだ辺りだった。マングローブの生い茂る水路を数分進んだ地点でボートを降りた。小高い平地まで登ると目の前の芝生に綺麗な平屋があり、それがススムが子どものころから育ち、ナンシーさんも成長過程を送った家屋だった。近くには他に家々がなく、ちょっと寂しいような気がした。広いリビングルームの周囲には、ススムの写真や父親、そして家族の写真が飾られていた。これらの写真を大分複写させてもらったので、これも拙稿に利用できる。

 家屋の手前に小さな建物があった。覗いて見たら、ススム・アイザワ酋長のお墓である。ナンシーさんにお墓参りは明日のススムの誕生日ではなかったのかと聞いてみたら、明日は日曜日なので一日繰り上げ変更したとあまり気にしている様子はない。それなら出発前に9日にお墓参りを行うという連絡ではなく、繰り上げて8日に行うと言ってくれればそのように準備したのにと、意外な急展開にちょっと驚いた。そんな事情で折角持参したお線香とマッチ、それに数珠をホテルに置いてきてしまった。

 アイザワ家は全員クリスチャンで、墓石にも十字架が彫られている。遺体は土葬されこの墓石の下に眠っている。私も懐かしいアイザワ酋長を偲んで手を合わせた。額づいてふと横を見ると森喜朗・元首相の日英語の名刺がそれぞれ置かれていた。森さんは亡くなってから2度墓参りをしてくれたと親戚の方々は有難がっていた。

 ボートで再びウエノ島へ戻る途中の飛沫は物凄かった。波が荒くなりボートが縦揺れして身体中びしょ濡れである。ポケットに入れていた書類や手帳まで濡れてしまった。久しぶりにかつてペリリュー島からアンガウル島へ渡った時の大揺れを思い出した。幸いだったのは、空模様があまりぱっとしない中でスコールに襲われなかったことである。

 末永さんから面白い話を伺った。トラックで使われている言葉の中で日本語に近い言葉は、日本人が島へやってきて初めて見られた現象の日本語がそのまま現地語として使われているということだった。例えば、トイレがなかったので便所ができて「ビンジョ」、学校がなかったので「ガッコウ」「センセイ」「セイト」、食器を使用していなかったので「ショッキ」、初めて日本製自動車が入ってきたので「ジドウシャ」等々だそうである。単純なものである。

 われわれが考えてみて一番困るのはインフラとライフラインの未整備ではないかと思う。電気、上水道が行き渡らず、道路も舗装された箇所はほんの僅かである。税制も整備されておらず、結局はアメリカ政府の支援によって国が成り立っているということである。多くの課題を抱えた発展途上国である。アイザワ酋長は草葉の陰から、この島の現状をどう思っているだろうか。

2013年6月8日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2216.2013年6月7日(金) 酋長の娘、ナンシーさんに会う。

 トラック島、現在のチューク島とグアムの間には定期便が週4便しかない。そのうち、3便は朝便で1便が夜である。その朝便8:20発のホノルル行ユナイテッド航空172便に搭乗するため朝5時のモーニングコールで起こされた。昨日に続いて2日連続の早起きである。

 今朝ホテルで迎えの車を待っている間に腹立たしいことがあった。私の他に同じフライトに乗る若い男女の6人組みの内5人が、時間になっても一向にロビーに集まらない。とっくに出発時間は過ぎている。私は先に車で待っていたが、ガイドが待ちきれずに呼びに行った。漸く遅れた6人組みはやって来たが、待たせたことに対して「すみません」とか、「お待たせしました」の言葉や挨拶もなく、シャーシャーとして車に乗り込む無礼にむかっときた。こんな若造に文句を言っても始まらないので、知らぬ顔をしていたが、腸は煮えくり返っていた。「すみません」の一言がなぜ言えないのか。好青年もそこそこいるが、これが今様の若者風情である。

 綺麗な海岸のチューク国際空港に着陸した時に、あまりにも小さく素朴な空港ビルを見て以前は感じなかった「置いて行かれた国」とのイメージが浮かんできた。今では日本の地方空港でも見られないようなこじんまりした建物である。ホテルまで未舗装の悪路や貧しそうな家々を見て、これではいつか森喜朗・元首相がいずれ日本から直行便が飛ぶことを願っていると言っておられたが、現状は中々難しいのではないかと感じた。最近の島の様子がまだよく分らないが、島の発展の基盤を支えるビビッドな経済活動が見られないような気がする。現状を見ているとこのまま経済支援被援助国のイメージがつきまとってしまうのではないかという気がしてならない。今アフリカが資源産出国として国際社会から脚光を浴びているが、この中部太平洋諸島からは自然エネルギー資源が産出されないのが悔しいところだ。

 空港で入国手続きがのんびり進められていたが、スローですねと隣の外国人観光客に話しかけたらあまり気にならないとの応えに、「郷に入っては郷に従え」を痛感した。最後部に並んでいたが、トイレが我慢できず、トイレ探しに1人で別の建物へ向かっていた時係官から呼び止められ、トイレを探していると答えたところパスポートをチェックして親切にもトイレへ案内してくれた。愉快なのは、トイレを出たらスコールがやって来たが、係官がすぐに傘を貸してくれたことである。こういうところはのんびりしているが、島の人々のアトホームで優しいところだろう。残念ながらこれが経済発展にはつながらないことである。

 空港では、末永卓幸さんと仰るチュークの旅行業者として長年活躍しておられる方が奥様とともに出迎えてくれた。戦没者遺骨収集や慰霊団でもお手伝いをしておられるという。

 空港から懐かしい「トラック・ブルー・ラグーンホテル」へ泥んこ道を走りながらやってきた。以前泊まった時のイメージは確かに残っている。末永さんに聞いてみるとバンガローの壁色は変えたが、他は昔のままだという。ここでナンシーさんにアポ通り会うことができた。

 話してすぐナンシーさんの言葉の端々に父親のススム・アイザワ大酋長への思慕と愛情が感じられた。手帳に酋長と二人して金閣寺で撮った写真を大切に持っていて、見せてくれたことでもその親愛の情は分る。訪問の主旨はすでに伝えていたので、知る限りいろいろ話してくれた。しかし、酋長の学校通学歴がよく分らない。娘の言うことが一番正確だとは思うが、必ずしもすべてを知っているということでもない。まだ充分話を聞いたわけではないが、有難いことに私が父親のドキュメントを書くということに関しては極めて好意的で協力的であることである。その分益々責任を感じる。午後になってまた凄いスコールがやって来た。ホテルのベランダから海を見ていると激しい雨粒がたたきつけられている。これこそ南洋のシンボルである。

 さて、夕食の折のことである。実はホテル・レストランのパスタが美味くなかった。仕方なしにビールを飲みながら辺りを見回していたところ、お隣のテーブルでご夫婦がIpadを観ながら食事をされていた。見るとはなしにちらっと画面を覗いたところ、海底に沈んだ旧日本海軍船の残骸の稀に見るほどクリアで素晴らしい写真が後から後からアップされた。思わずお声をかけた。拝借できるものならぜひとも今取り掛かっているドキュメンタリーの紙面に使用したい作品である。お話ではわが家に極く近い三宿にお住まいの熊谷光剛さんと仰る歯科医ご夫婦で、ご夫婦で海底に一緒に潜って写真を撮っておられるという。私の希望をお伝えしたところ大変好意的に受け止めてくれ、写真提供にご協力いただけるとご返事をいただいた。これは大変助かる。

 明日は酋長の実家がある、トール島(水曜島)を案内していただけることになっている。

2013年6月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2215.2013年6月6日(木) グアムには昔の面影がない。

 今朝4時半に起きた。こんなに早く起きたのは久方ぶりである。妻に車で東急自由が丘駅まで送ってもらい、東急大井町線で大井町へ出てJRで大分早めに成田空港へ着いた。

 5月29日のブログに書き込んだように、グアム空港ではESTA承認により入国手続きは順調の筈だったが、何が原因か分らないまま入国管理官が3回も私の指紋と顔写真を撮ってじろじろ見ている。指紋は左右の親指と他の4本の指をまとめた写しを取った。最後には手間を取らせたことに恐縮していたが、何が原因かは結局分らず仕舞いだった。

 パッケージ・ツアーで手配を頼んだので、他のお客と一緒にバスでホテルまで案内してもらったが、南洋人特有の暢気さでガイドは同じ説明を何度も繰り返すし、ドライバーは左手に携帯を持ち、立ち寄るホテルの順番を間違えそうになったり、いわゆる南洋の風潮だなぁと不安になりながらもほのぼのとした感慨に耽る。ほぼ30年ぶりのグアム空港の雰囲気は以前に比べてまるで違っていた。ドライバーに聞いてみると5年前に新築されたそうだ。かつては空港の滑走路沿いに椰子の木が風に揺れていかにも南洋の情緒があったものだが、それも今は昔となってしまった。度々宿泊した「フジタ・タモン・ビーチホテル」は跡形もなく、近くの海岸へも出てみたが、当時を偲ぶよすがはあまり感じられなかった。

 ドライバーと雑談をしてみたところ、意外なことにサイパンでガイドをしていたことがあると知った。戦没者遺骨収集団のことをよく憶えていて、われわれもお世話になったベナベンテ・サイパン警察署長のことを知っていたのでお互いに顔を見合わせてびっくりである。今年はグアムでもサイパンでも日本人観光客の数は随分減ったと話してくれた。私が宿泊したグアム・プラザホテルで名残惜しくも別れたが、チャモロ族特有の人懐っこさと何となく好い加減な性格を思い出させてくれた。

 さて、明日お世話になるトラックの人々はどんな性格だったろうか、詳しくは思い出せないが、やはり南方特有の大雑把な人柄が何となく瞼に浮かんでくる。

 ちょっと懸念していたが、宿泊ホテルの部屋にはインターネットのサービスがなく、残念ながらこのブログを送信し、更新することができない。明日以降は多分大丈夫だろう。そう期待したい。

2013年6月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com