2219.2013年6月10日(月) トラック島最後の1日

 昨夜半突然部屋の周囲でざわざわと煩い音と大きな会話の声が耳に入り、ついに目が覚めてしまった。国際定期便昼の週3便の他に、日曜の夜便があると聞いていたが、その乗客らがチェックインして荷物を引き摺りながら階段を昇り、わいわい話ながら部屋の前を通って行ったからだ。いつまで経っても静かになる気配がないので、ついに堪りかねてドアを開け「静かにしろ!今何時だと思っているんだ。眠れやしない」と英語で叫んだ。ドアの傍にホテル係員がいて恐縮しながら謝り、若干静かになったが、しばらくするとまた物音と話し声が煩い。ミクロネシア系と白人の男女らが時間帯を気にもかけず、声高にわが者顔におしゃべりしながら通り過ぎて行く。もう苦情を言うのは諦めた。

 昨晩のでき事について今朝ホテルのフロントにクレームをつけたら、知っていたのか平謝りだった。夜便に乗る宿泊客のチェックアウトと、到着したチェックイン客で迷惑をかけたと謝り、当たり前であるが平身低頭だった。過ぎたことはもう仕方がないにしろ、ホテルマンの言い分がふるっている。この次来られたらもっと静かな部屋を提供するというものだった。サービス業の典型であるホテル・ビジネスというものの本質がまったく分っていない。やはり南洋の島らしく、サービス業も漁師も同じようにのんびりしている。

 因みにノンビリズムはまだまだある。朝食の際オーダーしてから食事が出されるまで約40分もかかり、テーブル上には前の客が食べ残した料理が残ったままだった。チューク州で最高のホテルと呼ばれるこのトラック・ブルー・ラグーンホテルにしてこの体たらくである。エアコン、電話が故障中でいくら修理を依頼してもまだ直らない。こんな手抜きばかりやって大丈夫かなぁとホテルの将来性が心配になってくる。

 さて、前々からススム酋長が開拓し拡張した‘SUSUMU’S STORE’と藤沢市が寄贈した消防車を見たいとお願いしていたが、いずれも今日その願いを叶えることができた。‘SUSUMU’S STORE’は以前に比べてさらに立派な施設になっていた。全体の敷地面積なら建物と駐車場を加えて優に5百坪は超えているだろう。スーパーの隣に独立した小さな事務所があり、部屋内に酋長が羽田孜・元首相を訪れた時の写真が飾られていた。扉の入り口に‘SUSUMU’S ENTERPRISES’と書かれていた。父親の後を継いで今やナンシーさんはここの社長である。

 その後に消防車が保管されている港の倉庫に行って、錠を外してもらって内部に入れてもらい「藤沢市消防本部」と「寄贈ふじさわ湘南ロータリークラブ平成25年3月」と書かれた消防車を見せてもらった。他にもオーストラリアから寄贈されたもっと大きな消防車と日本から贈られたタンクローリーが保管されていた。

 アイザワ家の家系も大分分ってきた。明日トラック島を去るが、有意義な資料と多くの話を聞けて良かった。今晩はお世話になったナンシーさんのご家族6人、そしてモーターボートや車を運転してもらったアイザワ家と親しい2人を夕食にお招きして、感謝の気持ちを込めて晩餐会を行いお別れを告げた。収穫の多い取材旅行だったと思っている。ご期待に応えて何とか読み応えのあるドキュメントに仕上げたいものである。

2013年6月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2218.2013年6月9日(日) 故森正隆さんの娘さんにお会いする。

 今日はナンシーさんの夫であり、「冒険ダン吉」のモデルともされた森小弁の曾孫でもあるエリクソンさんが車で案内してくれた。

 とにかくチューク島はインフラの中でもとりわけ道路が劣悪である。街の中心街へ向かうメインストリートが穴ぼこだらけで、そこへスコールのせいで水が溜まっているのでゆっくりと、しかも泥水の中を運転するのだから車は傾くし、揺れるし、車も痛む。話によれば前田建設が請け負って道路整備計画を推進しているようだが、まだところどころしか完成していない。これで予定通り今年中にでき上がるのだろうか少々気になる。

 今日一番驚いたのは、敷地内に遺骨収集と戦没者の記念碑がある森正隆さんのお店へ立ち寄った際、店の前でひとりの女性が話しかけてきた。森さんには遺骨収集の際随分お世話になった。その女性が森さんの娘のリンダ・モリ・ハートマンさんだったのだ。森さんには生前2度お会いしているが、温厚でアイザワ酋長とは大分タイプの異なる方だった。リンダさんはエリクソンさんとは従兄弟同士で、森小弁の曾孫にして現在52歳、しかもマニュエル・モリ現ミクロネシア連邦大統領の実妹でもある。父親の森さんには2度お会いしていると話したらびっくりしておられた。今回の訪問の主旨をお話してメール・アドレスを交換したので、これからも交流していきたいと考えている。

 アイザワ酋長が通学していた学校を調べているが、何せ戦前から戦中にかけての波乱の時代で当時を証言してくれる人が見つからず、少々往生している。戦時中「国民学校」と呼ばれて現在も古い小学校として残っている建物の写真を撮りまくっているが決定的なものではない。況してやや好い加減な一面のあるトラック島の空気を考えると、ある程度の推察を加えて状況証拠で話をまとめるしかないのかも知れない。

 アイザワ家も日本流に考えると中々複雑で、ナンシーさんの兄弟姉妹にはスミオ、スミレの2人を含めて最低2人はいると聞いていたが、どうやら酋長と母エンキエーナさんとの間の子はナンシーさん一人きりで、後の兄弟姉妹というのは酋長と○号さん、○○号さん等々との間にできた兄弟姉妹のようで、彼女がハーフ・ブラザース&ドシスターズは大勢いると言っていたのは、その辺りのことを指しているらしい。あまり立ち入って聞き難い問題である。酋長は佐々木信也さんには俺には子どもが23人いると豪語していたらしいが、この問題をドキュメントとしてどう取り扱い、どうやって表現するか、やや悩み、また頭の痛いところでもある

 明日は藤沢市が寄贈した消防車を見せてもらい、アイザワ酋長が手広く経営していた「ススムズ・ストアー」を見学してみたいと思っている。

2013年6月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2217.2013年6月8日(土) 不意にススム・アイザワ大酋長のお墓参り

 朝ホテルの船着場にナンシーさんが、13歳の長男と3歳の末っ子息子を連れてスピード・ボートでやって来た。そのまま白波を蹴立ててトール島(水曜島)へ向かった。ひとつ気になっていたことは、森喜朗・元首相の父茂喜氏の戦時中の功績と元首相自身への感謝を込めて森家に贈ったとされ、元首相自身も誇りに思っておられる「森島」の存在をナンシーさんが知らないことで、島の人に聞いてもらったが、思い当たる人がいない。森さんからはウエノ島(春島)から水曜島(トール島)へ向かう小さな島と聞いていたので、小さな島々のシャッターを押し続けていたが、どうなることやら帰国後森さんへの話し方が難しくなってきた。夕食に末永さん夫妻をお招きして訪ねてみたが、アイザワ酋長の森さんへどんな表現で言ったのか分らないので、島は残念ながら見つからなかったとでもお話するより仕方がないと思っている。

 50分近くかかってトール島へ着き、やはり親戚が副村長を務めているマッカーサさんとアリンサさん家族を紹介される。大酋長が生まれたのはこの近くだそうだが、今では密林になっていて行き難いという。

 ススム・アイザワが育ったのはそこから海沿いにしばらく進んだ辺りだった。マングローブの生い茂る水路を数分進んだ地点でボートを降りた。小高い平地まで登ると目の前の芝生に綺麗な平屋があり、それがススムが子どものころから育ち、ナンシーさんも成長過程を送った家屋だった。近くには他に家々がなく、ちょっと寂しいような気がした。広いリビングルームの周囲には、ススムの写真や父親、そして家族の写真が飾られていた。これらの写真を大分複写させてもらったので、これも拙稿に利用できる。

 家屋の手前に小さな建物があった。覗いて見たら、ススム・アイザワ酋長のお墓である。ナンシーさんにお墓参りは明日のススムの誕生日ではなかったのかと聞いてみたら、明日は日曜日なので一日繰り上げ変更したとあまり気にしている様子はない。それなら出発前に9日にお墓参りを行うという連絡ではなく、繰り上げて8日に行うと言ってくれればそのように準備したのにと、意外な急展開にちょっと驚いた。そんな事情で折角持参したお線香とマッチ、それに数珠をホテルに置いてきてしまった。

 アイザワ家は全員クリスチャンで、墓石にも十字架が彫られている。遺体は土葬されこの墓石の下に眠っている。私も懐かしいアイザワ酋長を偲んで手を合わせた。額づいてふと横を見ると森喜朗・元首相の日英語の名刺がそれぞれ置かれていた。森さんは亡くなってから2度墓参りをしてくれたと親戚の方々は有難がっていた。

 ボートで再びウエノ島へ戻る途中の飛沫は物凄かった。波が荒くなりボートが縦揺れして身体中びしょ濡れである。ポケットに入れていた書類や手帳まで濡れてしまった。久しぶりにかつてペリリュー島からアンガウル島へ渡った時の大揺れを思い出した。幸いだったのは、空模様があまりぱっとしない中でスコールに襲われなかったことである。

 末永さんから面白い話を伺った。トラックで使われている言葉の中で日本語に近い言葉は、日本人が島へやってきて初めて見られた現象の日本語がそのまま現地語として使われているということだった。例えば、トイレがなかったので便所ができて「ビンジョ」、学校がなかったので「ガッコウ」「センセイ」「セイト」、食器を使用していなかったので「ショッキ」、初めて日本製自動車が入ってきたので「ジドウシャ」等々だそうである。単純なものである。

 われわれが考えてみて一番困るのはインフラとライフラインの未整備ではないかと思う。電気、上水道が行き渡らず、道路も舗装された箇所はほんの僅かである。税制も整備されておらず、結局はアメリカ政府の支援によって国が成り立っているということである。多くの課題を抱えた発展途上国である。アイザワ酋長は草葉の陰から、この島の現状をどう思っているだろうか。

2013年6月8日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2216.2013年6月7日(金) 酋長の娘、ナンシーさんに会う。

 トラック島、現在のチューク島とグアムの間には定期便が週4便しかない。そのうち、3便は朝便で1便が夜である。その朝便8:20発のホノルル行ユナイテッド航空172便に搭乗するため朝5時のモーニングコールで起こされた。昨日に続いて2日連続の早起きである。

 今朝ホテルで迎えの車を待っている間に腹立たしいことがあった。私の他に同じフライトに乗る若い男女の6人組みの内5人が、時間になっても一向にロビーに集まらない。とっくに出発時間は過ぎている。私は先に車で待っていたが、ガイドが待ちきれずに呼びに行った。漸く遅れた6人組みはやって来たが、待たせたことに対して「すみません」とか、「お待たせしました」の言葉や挨拶もなく、シャーシャーとして車に乗り込む無礼にむかっときた。こんな若造に文句を言っても始まらないので、知らぬ顔をしていたが、腸は煮えくり返っていた。「すみません」の一言がなぜ言えないのか。好青年もそこそこいるが、これが今様の若者風情である。

 綺麗な海岸のチューク国際空港に着陸した時に、あまりにも小さく素朴な空港ビルを見て以前は感じなかった「置いて行かれた国」とのイメージが浮かんできた。今では日本の地方空港でも見られないようなこじんまりした建物である。ホテルまで未舗装の悪路や貧しそうな家々を見て、これではいつか森喜朗・元首相がいずれ日本から直行便が飛ぶことを願っていると言っておられたが、現状は中々難しいのではないかと感じた。最近の島の様子がまだよく分らないが、島の発展の基盤を支えるビビッドな経済活動が見られないような気がする。現状を見ているとこのまま経済支援被援助国のイメージがつきまとってしまうのではないかという気がしてならない。今アフリカが資源産出国として国際社会から脚光を浴びているが、この中部太平洋諸島からは自然エネルギー資源が産出されないのが悔しいところだ。

 空港で入国手続きがのんびり進められていたが、スローですねと隣の外国人観光客に話しかけたらあまり気にならないとの応えに、「郷に入っては郷に従え」を痛感した。最後部に並んでいたが、トイレが我慢できず、トイレ探しに1人で別の建物へ向かっていた時係官から呼び止められ、トイレを探していると答えたところパスポートをチェックして親切にもトイレへ案内してくれた。愉快なのは、トイレを出たらスコールがやって来たが、係官がすぐに傘を貸してくれたことである。こういうところはのんびりしているが、島の人々のアトホームで優しいところだろう。残念ながらこれが経済発展にはつながらないことである。

 空港では、末永卓幸さんと仰るチュークの旅行業者として長年活躍しておられる方が奥様とともに出迎えてくれた。戦没者遺骨収集や慰霊団でもお手伝いをしておられるという。

 空港から懐かしい「トラック・ブルー・ラグーンホテル」へ泥んこ道を走りながらやってきた。以前泊まった時のイメージは確かに残っている。末永さんに聞いてみるとバンガローの壁色は変えたが、他は昔のままだという。ここでナンシーさんにアポ通り会うことができた。

 話してすぐナンシーさんの言葉の端々に父親のススム・アイザワ大酋長への思慕と愛情が感じられた。手帳に酋長と二人して金閣寺で撮った写真を大切に持っていて、見せてくれたことでもその親愛の情は分る。訪問の主旨はすでに伝えていたので、知る限りいろいろ話してくれた。しかし、酋長の学校通学歴がよく分らない。娘の言うことが一番正確だとは思うが、必ずしもすべてを知っているということでもない。まだ充分話を聞いたわけではないが、有難いことに私が父親のドキュメントを書くということに関しては極めて好意的で協力的であることである。その分益々責任を感じる。午後になってまた凄いスコールがやって来た。ホテルのベランダから海を見ていると激しい雨粒がたたきつけられている。これこそ南洋のシンボルである。

 さて、夕食の折のことである。実はホテル・レストランのパスタが美味くなかった。仕方なしにビールを飲みながら辺りを見回していたところ、お隣のテーブルでご夫婦がIpadを観ながら食事をされていた。見るとはなしにちらっと画面を覗いたところ、海底に沈んだ旧日本海軍船の残骸の稀に見るほどクリアで素晴らしい写真が後から後からアップされた。思わずお声をかけた。拝借できるものならぜひとも今取り掛かっているドキュメンタリーの紙面に使用したい作品である。お話ではわが家に極く近い三宿にお住まいの熊谷光剛さんと仰る歯科医ご夫婦で、ご夫婦で海底に一緒に潜って写真を撮っておられるという。私の希望をお伝えしたところ大変好意的に受け止めてくれ、写真提供にご協力いただけるとご返事をいただいた。これは大変助かる。

 明日は酋長の実家がある、トール島(水曜島)を案内していただけることになっている。

2013年6月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2215.2013年6月6日(木) グアムには昔の面影がない。

 今朝4時半に起きた。こんなに早く起きたのは久方ぶりである。妻に車で東急自由が丘駅まで送ってもらい、東急大井町線で大井町へ出てJRで大分早めに成田空港へ着いた。

 5月29日のブログに書き込んだように、グアム空港ではESTA承認により入国手続きは順調の筈だったが、何が原因か分らないまま入国管理官が3回も私の指紋と顔写真を撮ってじろじろ見ている。指紋は左右の親指と他の4本の指をまとめた写しを取った。最後には手間を取らせたことに恐縮していたが、何が原因かは結局分らず仕舞いだった。

 パッケージ・ツアーで手配を頼んだので、他のお客と一緒にバスでホテルまで案内してもらったが、南洋人特有の暢気さでガイドは同じ説明を何度も繰り返すし、ドライバーは左手に携帯を持ち、立ち寄るホテルの順番を間違えそうになったり、いわゆる南洋の風潮だなぁと不安になりながらもほのぼのとした感慨に耽る。ほぼ30年ぶりのグアム空港の雰囲気は以前に比べてまるで違っていた。ドライバーに聞いてみると5年前に新築されたそうだ。かつては空港の滑走路沿いに椰子の木が風に揺れていかにも南洋の情緒があったものだが、それも今は昔となってしまった。度々宿泊した「フジタ・タモン・ビーチホテル」は跡形もなく、近くの海岸へも出てみたが、当時を偲ぶよすがはあまり感じられなかった。

 ドライバーと雑談をしてみたところ、意外なことにサイパンでガイドをしていたことがあると知った。戦没者遺骨収集団のことをよく憶えていて、われわれもお世話になったベナベンテ・サイパン警察署長のことを知っていたのでお互いに顔を見合わせてびっくりである。今年はグアムでもサイパンでも日本人観光客の数は随分減ったと話してくれた。私が宿泊したグアム・プラザホテルで名残惜しくも別れたが、チャモロ族特有の人懐っこさと何となく好い加減な性格を思い出させてくれた。

 さて、明日お世話になるトラックの人々はどんな性格だったろうか、詳しくは思い出せないが、やはり南方特有の大雑把な人柄が何となく瞼に浮かんでくる。

 ちょっと懸念していたが、宿泊ホテルの部屋にはインターネットのサービスがなく、残念ながらこのブログを送信し、更新することができない。明日以降は多分大丈夫だろう。そう期待したい。

2013年6月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2214.2013年6月5日(水) いよいよ明日ミクロネシア連邦トラック島へ

 昨晩このブログの更新ができなくなり困りきって、いつもお世話になっているITコンサルタントの小糸さんに連絡し、彼の指示に従って修正し、夜中の12時半になってやっと難問解決となった。どうも入力容量が増えすぎて加重負荷になっているようで、こちらの指示通り動かなくなっている。ブログをいくつかに分けるなり、他のアイテムへ散らすような方法を考えた方が良さそうだ。問題は明日からトラック島へ旅行するので、トラック島滞在中に同じようなトラブルが起きると困ることになるとは思っている。

 さて、そのトラックへの取材旅行について今日関係のある森喜朗元首相事務所、ミクロネシア連邦大使館、藤沢市の相澤土地㈱相澤社長、佐々木信也さんへ電話で旅程を説明した。森さんには出発前にお会いしてから出かけたいところだったが、森さんが多忙のため事前にお会いするのは難しくなってしまった。ただ、森さんもできるだけ早く最近のトラック情報をお聞きしたいということから森さんのご都合を調整したうえで、森事務所長谷川秘書から帰国翌日の午後5時にアポが取れたと連絡があった。

 佐々木さんには改めて旧高橋ユニオンズ当時のチームメイトとの会合を設営していただけるようお願いした。いよいよ私の責任も重くなってきた。できるだけ意義深い貴重な情報をナンシーさんたちから収集して良い読み物を書き上げたいと考えている。

 過去にトラック島へは2度訪れているが、前回訪れたのが1982年であるからすでに30年以上が経過して、その間にトラック諸島もそれまでの国連信託統治領からミクロネシア連邦へと独立したので、恐らく今浦島ではないかと思う。興味が湧いてくる。久しぶりに見るトラック島の現状はどんなだろうか大いに楽しみにしている。案内してくれるアイザワ酋長の娘さん、ナンシーさんに会って懐かしい酋長の話を伺えるのも楽しみである。

2013年6月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2213.2013年6月4日(火) 今日はどんな日か?

 長崎雲仙岳が噴火して火砕流に巻き込まれて大勢の犠牲者を出してから昨日で22年が経過した。その翌年現地を訪れ、土砂に埋まった家屋を目の当たりにして自然の怖さを知った。 

 さて、今日6月4日は戦時中日本中を唸らせた加藤建夫・戦隊長指揮する「第5飛行師団・飛行第64戦隊(通称‘加藤隼戦闘隊’)」戦隊会(六四会)開催の日だった。誇り高き「加藤部隊」の戦友がまだ多く存命していた時代には、毎年全国から数多くの戦友と遺族が靖国神社に参集され昇殿参拝をしつつ散華された仲間の霊を慰め、偲ぶ慰霊祭を行った所縁の日でもある。

 今から10年前までは、私も毎年六四会からお声をかけていただき、6月4日は必ず靖国神社に参拝したものである。今ではほとんどの戦友の方々は黄泉の国へ旅立たれた。かつての戦場へ何度ともなくお供して亡き御霊のご冥福をお祈りしたものである。何とも言えず懐かしい。あれから40年以上が過ぎて、思えば切なく寂しい気持ちがしてならない。

 戦友会の方々と出かけた海外の戦跡地のお参りが、仕事に対する私の気持ちを大きく変えてくれた。信念と確信を持って仕事に没入することができるようになったのも、長年戦友会慰霊団に携わったお蔭である。そして、そのきっかけとなったのが、1972年1月ビルマへ向かった飛行第64戦隊最初の慰霊団である。加藤部隊と縁のあるビルマ政府高官に、慰霊団全員が迎賓館に招かれ、それが翌朝の新聞やラジオで全ビルマに報道され、大きな話題を呼んだ。それ以後私も毎年6月4日になると靖国神社へ参拝した。その意味でも6月4日は私にとっては忘れられない日となった。

 ところで、外国では今日はどんな日だろうかと考えてみたら、自由と民主主義にとって大事な、決してかき消すことのできない一日であることを思い出した。1989年の今日、あの北京の天安門事件が勃発したのだ。東西冷戦が氷解したのもこの天安門事件が大きなきっかけとなった。同年11月ベルリンの壁が崩壊した。その意味では、歴史上社会主義社会、共産国家から自由主義社会へ舵を切る役割を果たしたのが、天安門事件であると言えると思う。

 ところが、これほどの歴史上稀有な事件が本家本元の中国では今や忘れられているらしい。否、忘れさせられているようだ。これは今朝の日経紙「春秋」で報じているが、中国の学生がこの事件をほとんど知らないという驚くべき事実がある。歴史教育や報道の自由については中国国内で相当厳しい締め付けがあり、それらに関しては大学の授業でも取り上げることができない。共産党政権にとって都合の悪いことは、すべて忘却の彼方へ投げ捨てられているのだ。最近ではまた新たな締め付けが始まったらしい。世界的な自由獲得のための闘争を、ただ党の路線発展のためには邪魔だと分れば直ちに隠蔽し、排除しようとする弾圧の構図である。

 実際今日この事件を伝えたNHKニュースが中国国内で放映されるや、瞬間的に画面から消されるほど中国当局も神経をとがらせていた。このまま言論を抑圧して果たして中国の人たちに民主主義が訪れるだろうか。

 こんな日経紙の皮肉なコメント「共産党政権の高官が『日本は歴史と向き合っていない』などと声高に話すのを耳にすると、つい苦笑したくなる」が皮肉に思えず俄然現実味を帯びてくる。

 夜になって久しぶりに最高のニュースが生まれた。サッカー・ワールドカップ予選で日本がオーストラリアと引き分けた結果、日本は来年のワールド・カップへ連続5回目の出場を決めたのである。メデタシ!メデタシ!

2013年6月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2212.2013年6月3日(月) 国は脱原発のフリをしながら原発推進を画策か?

 原発政策というのがどうにも分り難い。国民が原発について深く知り理解することが歓迎されないのだろうか。厳しく言えば政府の策略とでも呼ぶべきだろうか、政府の真意は原発再稼動だろう。それにしても国は国民を惑わすことばかり考えている。昨日朝日OB記者のセミナーで、世論と国の原発政策の間に乖離があると聞かされ、なるほどと思っていたが、この原因はその分り難いマジックに翻弄されているからだろうか。

 国民世論は、福島第一原発事故発生前には原発容認・賛成の声が50%を上回っていた。それが事故後の2011年12月には生々しい放射能汚染の実態を知った反対派の数が57%に上がり、それに対して賛成派が30%に減じて原発反対は賛成の2倍になった。ただ、ほとぼりが冷めると再び原発賛成の声が高まるのは、アメリカのスリーマイル島事故やチェルノブイリ事故のように外国事故の例を見るまでもなく、楽観は禁物である。

 わが国では福島事故の処理が未だ終了しておらず、いつすべての処理作業が完了するのか分らない時に、条件付きながら再稼動が叫ばれたり、昨年大飯原発が再稼動されたように、静かに原発再稼動へのレールが整備されつつある。

 先月末本ブログに、アベノミクスの成長戦略に原発を活用されることが組み込まれるようだと書き込んだが、政府はしたたかで国民の目が届かないところでは安全基準云々どころか原発再稼動が既定路線となっている。この動きをどうやって食い止められるかが今後の大きな課題である。

 さて、残念ながら原発を容認し、引き続いて国の政策として原発政策が推進されるものと思いきや、今朝の朝日社説に、一読して脱原発政策を思わせるような、昨日の元朝日記者が願っていた内容が掲載されていた。タイトルは「廃炉促進へ専門機関を」というものであるが、実は中身をよく読んでみてもこれが中々分り難い。「できるだけ早く、原発に頼らないエネルギー社会をつくる。福島の原発事故を経験して多くの人たちがその思いを強くした」とある。大体この主語が何なのか判然としない。主語が国民とするなら、正にその通りである。それなら何故このようなタイトルを敢えて取り上げたのか。よく分らないのは、これが政府主導の動きだからである。経産省が廃炉を促す環境づくりに乗り出したそうだ。経産省は反国民的な原発推進を謳っていたのではなかったか。

 突然社説のように、原発の廃炉について論じられてもこれを読んだ読者、国民はあまりぴんと来ないのではないだろうか。まず、社説が言うように、強く放射能汚染された構造物や使用済み核燃料の処分には時間と莫大な費用がかかる。それを手助けするために経産省が廃炉を促す環境づくりに乗り出すということからして素直には信じがたい。

 実際イギリスには「原子力廃止措置機関 (NDA)」という原子力関連施設の解体にともなう政策や監視体制を一元化した組織がある。わが国の処理は一体どうするのかと電力大手会社に問いかけまでしている。

 どうも分らない。一体全体わが国は原発稼動の道を歩むのか、或いは脱原発道を選ぶのか。政府、経産省、電力会社、大企業、関係機関等々が寄ってたかって国民を煙に巻いた隙に、原発稼動へ導くよう画策しているようにしか思えないが、穿った見方だろうか。

 さて、一昨日から横浜で開かれていた第5回アフリカ開発会議が今日横浜宣言を採択して閉幕した。会議の内容はともかく、中国にアフリカ市場を奪われた形になっている現状を何とか支援、投資を通して日本の存在感を訴えようとするものだ。驚いたのは、会議の後行われた共同記者会見出席者の中央に座しているのが安倍首相とエチオピア首相だったが、安倍首相の隣に見慣れた森喜朗元首相が席を占めていたことである。国会議員を辞めても中々元気に活躍しておられる。

 先週森事務所に尋ねた時、アフリカに行くので忙しいという話だった。それは私の思い違いで、森元首相はこのアフリカ会議で忙しかったのだ。3日後にトラック島へ出かけるので、その前にお会いすることはできないが、帰ったらできるだけ早い機会に森さんにお会いしてトラックの近況をご報告したいと思っている。

2013年6月3日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2211.2013年6月2日(日) 朝日新聞社会部記者OB会で質疑

 朝日新聞社会部OB十日会の市民講座の案内を幹事の川上湛永さんからいただき、楽しみに会場の亀戸カメリアプラザへ出かけた。この市民講座には以前にも2度ばかり参加したことがあるが、今日のテーマは「原発と新聞」と銘打ち、川上さんの司会の下に現役の上丸(じょうまる)洋一・編集委員、OB記者の谷久光・元企画報道室長、と柴田鉄治・元科学部長の3人がスピーチをされた。

 それぞれ朝日新聞社内で相当のポジションに就いた記者らで、それなりに頷けるところがあり、説得力もある。彼らなりに世論と国の政策の乖離に自分たちの力が充分伝わっていないと悩んでいるのが朝日記者らしいと感じた。メディアとしてその職責を果たしてきたか、世論を伝えるメディアがその世論と国の政策の間でもがいていること、記者クラブ制度の異常さ、メディアとしてしっかり原発事故の真実を伝えているか、等々について3人が口々に考えを述べた。

 スピーカーの中に前回も出席された柴田氏がおられたので、話を聴けることを楽しみにしていた。やはり、自身科学者であるだけに原子力開発の歴史、東日本大震災以後のメディアの対応についてロジカルに説明された。海外特派員時代にそのリポートをよく読んだ記憶のある方だ。

 柴田氏は「原子力報道失敗の歴史」として、5つの失敗の例を挙げたが、特に強調していたのは、福島第1原発の事故について、これだけの大事故を起こしていながら加害者が誰1人として責任を取っていないと厳しく批判されたことである。

 最後に質問時間を設けてくれたので、世論と政策の乖離について最初に質問をした。また取材現場と真実の情報との観点から、記者が現場を歩かずに報道する傾向があるのではないかと、私自身のリスキーだったヨルダン軍による身柄拘束事件や、カイバル峠を訪れて初めて感じたニューヨーク同時多発事件の予感やチベット騒乱事件発生の予感などの体験話を交えて疑問を呈したことに対して、朝刊の連載記事「原発とメディア」を執筆していた上丸編集委員は、質問に対して朝日も世界各地に多くの特派員を派遣しており、それは新聞にも書かれているので分ると思うし、自分たちは現場を歩いて取材していると応えられた。本当か? 私には必ずしもそうは感じられない。彼ら特派員の記事は確かに現地からの生の報道ではあるが、必ずしも嗅覚鋭い臨場感のある、そこにいるからこそニュースソースを探り臨場感のある記事をスクープできたと言えるものではない。上丸氏は何か大きな勘違いをされているように思えてならない。特派員が駐在都市から記事を書き送るのはむしろ当たり前で、それが現場を歩いているということにはならない。上丸氏の回答は私の意図する質問から大分的外れである。自分は臨場感のある記事を書いていると言わんばかりで、どうも上から目線的な発言だと感じた。私の質問の意図が充分に分っていただけないようで、よほど再質問しようかと考えたが、時間制限や、他に質問者もいたので食い下がるのは止めた。ちょっと残念だった。やはり朝日記者としてのプライドが邪魔して空気も質問の意図も読めないのではないかと思った。

 しかし、社内で事故後に、いろいろな悩みや葛藤の中で朝日として原発に反対する姿勢を貫き、その一部を今日3時間半以上に亘って開陳してくれたことには敬意を表したいと思う。読売、日経、産経などがどちらかと言えば原発賛成であるのに対して、朝日は毎日、東京とともに反原発の立場を主張することを誇らしげに話していたことが頼もしく感じられた。

2013年6月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2210.2013年6月1日(土) NPOで「世界遺産」の講師を務める。

 3年ぶりに「吉祥寺村立雑学大学」の講師を務めた。今日が多分4度目の講義に当るのではないかと思う。テーマは世界遺産を見学した体験から私なりの個人的な見方と体験談を「世界遺産166ヶ所の旅~意外な隠れ話~」と題して、5分間の休憩を挟んでちょうど2時間お話した。これだけゆったりと時間をいただけると有難い。一応自分の話したいことは話せたと思う。いつもながらにパワーポイントのスライドも要領良くまとめて作り上げることができたと思っている。約30人の聴講者は数人を除きほとんどが年配者だったが、嬉しいことに皆さん熱心に耳を傾けてくれた。

 世界遺産はガイドブックを見てただ憧れるというのではなく、実際現地を訪れて世界遺産の前に立ち世界遺産が醸しだす空気に触れてみることが大切だと強く訴えたつもりである。

 今日は時間一杯聴講者を飽きさせることなく気持ち良く話をすることができて、まずまず満足している。

 今日初めて名刺を交換した方の中には、朝比奈美地さん(芸名美地)、芳野健二氏、円充寺住職・市川妙英さん、北原邦雄氏がおられて、その後の食事などを含めて話し合うことができた。

 中でも朝比奈さんは歌手として今月4回もコンサートを企画している多忙な人で、明日のコンサートの準備もあり今日も休憩後に中座された。特に障碍者を対象にしたコンサートの機会を持っておられるようだ。今年10月にはベトナムで開催されるジャパン・フェスタに出演するので、ベトナムの話を聞かせて欲しいとの要望を承った。できるだけ協力して差し上げたい。

 芳野氏は昭和38年に京都大学を出て当時の富士製鉄へ入られたそうだが、かなり海外へ出かけられて氏独特の楽しい世界旅行地図を作成されているのを見せてもらい、その発想とアイディアにはつくづく感心した。私も訪れたことのないエクアドル、モロッコなども訪れている。大学で同じクラスに在籍し富士製鉄へ入社した野村定彦くんとは同期入社員としてよく知っていると話してくれた。残念ながらゴルフの達人で慶應高時代はいくつかのタイトルホールダーだったその野村くんは、気の毒にも10年以上前に病のため亡くなった。

 市川住職さんは、日蓮宗の末寺の住職として毎週お寺で法話を話されていると言っておられた。尼さんであるが、綺麗に剃髪され、その頭の形が良いと雑学大学顧問の三上卓治さんが話しておられた。だが、そう仰る三上さんの頭形も中々捨てたものではないと話してあげた。

 北原氏はわれわれが学生時代に経済学部助教授で切れ者と言われた北原勇先生の実兄と伺っていたが、われわれの13年先輩に当られるというから85歳くらいになるだろうか。中々如才のない方で、今年ブラジルに行ってみたいと仰っていたが、驚いたことには虫歯が1本もないということだった。失礼ながらよく見たら金歯が見えたので、80歳を超えて1本もないというのは本当だろうか?

 講義は別にしてその後食事をともにしながら当たり障りのない雑談をしたが、それが反って印象に残っている。

 今日は下腹部の痛みも大分治まって、気分的には大分すっきりしてきた。

2013年6月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com