長崎雲仙岳が噴火して火砕流に巻き込まれて大勢の犠牲者を出してから昨日で22年が経過した。その翌年現地を訪れ、土砂に埋まった家屋を目の当たりにして自然の怖さを知った。
さて、今日6月4日は戦時中日本中を唸らせた加藤建夫・戦隊長指揮する「第5飛行師団・飛行第64戦隊(通称‘加藤隼戦闘隊’)」戦隊会(六四会)開催の日だった。誇り高き「加藤部隊」の戦友がまだ多く存命していた時代には、毎年全国から数多くの戦友と遺族が靖国神社に参集され昇殿参拝をしつつ散華された仲間の霊を慰め、偲ぶ慰霊祭を行った所縁の日でもある。
今から10年前までは、私も毎年六四会からお声をかけていただき、6月4日は必ず靖国神社に参拝したものである。今ではほとんどの戦友の方々は黄泉の国へ旅立たれた。かつての戦場へ何度ともなくお供して亡き御霊のご冥福をお祈りしたものである。何とも言えず懐かしい。あれから40年以上が過ぎて、思えば切なく寂しい気持ちがしてならない。
戦友会の方々と出かけた海外の戦跡地のお参りが、仕事に対する私の気持ちを大きく変えてくれた。信念と確信を持って仕事に没入することができるようになったのも、長年戦友会慰霊団に携わったお蔭である。そして、そのきっかけとなったのが、1972年1月ビルマへ向かった飛行第64戦隊最初の慰霊団である。加藤部隊と縁のあるビルマ政府高官に、慰霊団全員が迎賓館に招かれ、それが翌朝の新聞やラジオで全ビルマに報道され、大きな話題を呼んだ。それ以後私も毎年6月4日になると靖国神社へ参拝した。その意味でも6月4日は私にとっては忘れられない日となった。
ところで、外国では今日はどんな日だろうかと考えてみたら、自由と民主主義にとって大事な、決してかき消すことのできない一日であることを思い出した。1989年の今日、あの北京の天安門事件が勃発したのだ。東西冷戦が氷解したのもこの天安門事件が大きなきっかけとなった。同年11月ベルリンの壁が崩壊した。その意味では、歴史上社会主義社会、共産国家から自由主義社会へ舵を切る役割を果たしたのが、天安門事件であると言えると思う。
ところが、これほどの歴史上稀有な事件が本家本元の中国では今や忘れられているらしい。否、忘れさせられているようだ。これは今朝の日経紙「春秋」で報じているが、中国の学生がこの事件をほとんど知らないという驚くべき事実がある。歴史教育や報道の自由については中国国内で相当厳しい締め付けがあり、それらに関しては大学の授業でも取り上げることができない。共産党政権にとって都合の悪いことは、すべて忘却の彼方へ投げ捨てられているのだ。最近ではまた新たな締め付けが始まったらしい。世界的な自由獲得のための闘争を、ただ党の路線発展のためには邪魔だと分れば直ちに隠蔽し、排除しようとする弾圧の構図である。
実際今日この事件を伝えたNHKニュースが中国国内で放映されるや、瞬間的に画面から消されるほど中国当局も神経をとがらせていた。このまま言論を抑圧して果たして中国の人たちに民主主義が訪れるだろうか。
こんな日経紙の皮肉なコメント「共産党政権の高官が『日本は歴史と向き合っていない』などと声高に話すのを耳にすると、つい苦笑したくなる」が皮肉に思えず俄然現実味を帯びてくる。
夜になって久しぶりに最高のニュースが生まれた。サッカー・ワールドカップ予選で日本がオーストラリアと引き分けた結果、日本は来年のワールド・カップへ連続5回目の出場を決めたのである。メデタシ!メデタシ!