3015.2015年8月15日(土) 太平洋戦争終戦から70年

 今日は70年目の終戦記念日である。終戦から25567日目である。過去、及び未来の戦争に関して年々国内外が姦しくなりつつある。アジア諸国にとって日本がアジアにおける英米植民地主義に反対して起こした大東亜戦争が侵略戦争となり、アジアの人々に多大の犠牲を強いたことが、とりわけ日本に対するアジアからの非難を強めているのだ。近年中国と韓国の日本を見る目が格別厳しい。

 他方国内でも昨年来集団的自衛権が論議を呼び、今でも安保関連法案の成立について反対の声が強く、戦争突入への不安となって落ち着いた空気が中々醸成されない。

 70年前は国民学校初等科へ入学したばかりで、敵機来襲の声で防空壕へ逃げ込んだり、米空軍機の走行列車へ向けた凄まじい機銃掃射を自宅の二階から前方の田畑の中に見たり、不充分な食事に空腹感を憶えたりたりしたが、戦争の怖さを生身に感じるところまでは行かなかった。そして、初めての夏休みを終え2学期に登校すると戦争は終わったことを先生から聞かされた。

 あれから70年が経ち、今日日本武道館では天皇・皇后両陛下のご臨席を戴き全国戦没者追悼式が行われた。正午の黙とうの声に合せて私もつい室内で起立黙祷した。

 もうひとつ国内的に不穏な空気が漂ってくるのを抑えることができないのは、九州電力川内原発の再稼働とそれに伴って昨日送配電が開始されたことである。国民の半数以上が再稼働に反対する中で、強引にゴーサインを出した政府、及び電力関係者には、果たして事故の再発に対する不安はないのだろうか。今年のような猛暑が続くと電力消費量が一気に増加する。だが、実際には各電力会社も安定した供給量を維持している。その最大の要因は、原発がなくても代替的に供給量を賄うことができるようになったことが効いている。そのひとつが、太陽光発電の導入量が大きく増えて、夏のピーク時にも対応できることになったからである。需要も震災前に比べて十数%ほど少ない。まったく安心できるというわけではないが、LED照明などへの切り替えによって節電の取り組みが一層進めば、展望が開けてくる。

 ところが、今日気象庁は鹿児島県桜島の噴火予知で警報を出した。噴火警戒レベルを「入山規制」の3から「避難準備」の4へ引き上げた。選りによって近くの川内原発が再稼働を始めたばかりである。以前から川内原発が桜島の警戒区域にあって噴火の場合が心配されていた。にも拘わらず原発は稼働した。近くの桜島の噴火の可能性が高まった。この危険な状態を人命重視の観点からどう逃れるのか、対策は練られているのだろうか。気がかりなことである。

2015年8月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3014.2015年8月14日(金) 心の通い合いと南方戦線の悲話、終戦70年首相談話発表

 明日の終戦記念日を控えて、メディアでも終戦特集番組を放映しているが、昨夕のNHK番組の中でしみじみ感じ入った番組と、戦争スペシャルの従軍看護婦をターゲットにした番組に心を打たれた。

 前者「にっぽん紀行」では、東日本大震災に大きな被害を蒙った岩手県野田村で、茅葺の民家で小規模ながら手作りの旅館業を営んでいる中年夫婦と宿泊客のほのぼのとした心の交流を描きだしていた。1晩に3組しか宿泊できないが、夫婦は宿泊客の気持ちを斟酌して自家栽培の野菜料理でもてなしつつ、お客と一緒に食事をしながらテレビもない中で語り合い心を繋ぎとめて満ち足りた毎日を送っている。特に心を惹かれたのは、電話もパソコンも使用せず、お客からの予約申し込みはすべて手紙、ハガキにより行われることである。普通伝えられないことも文章にして伝える。それは、帰ってからも手紙の交換となり、いつのまにかお客がリピーターとなり、旅館にチェックインする時「ただいま」と言ったり、自宅へ帰る時に「行って参ります」と言ったり、お互いに家族のような関係にまで発展する。奥さんが手紙を書いているが、手紙を書くことがいろいろなことを想像させてくれると言っていた。すべてがうまく行っているわけではないと思うが、実に羨ましいような経営者の思いやりとおもてなしだった。

 先日サンフランシスコへ一緒に行った孫には、手紙を書くことのメリットを大分話して、自分から思っていることを相手に伝えるためには、手紙で発信することが効果的だと話し何とか2通ばかり絵ハガキを書かせたところだ。

 後者の従軍看護婦の「女たちの太平洋戦争」については、日本赤十字病院からビルマ、フィリピンなどの兵站病院へ派遣された看護婦からひとりひとり話を伺うというスタイルで、80~90歳代の看護婦さん自身が涙ながらに悲惨な戦争体験を語っておられた。在職中慰霊団で各地へ巡拝したが、特にビルマでは従軍看護婦さんが参加され、実際に自分たちが働いていたモールメン兵站病院を訪れた時の茫然自失した姿を思い出し、看護婦さんたちの姿がテレビと重なって来る。本当に辛かったであろう体験談を何度も伺ったが、どうしてもその中心的な存在だった小倉の折田夫実子さんの姿が思い出されてならない。

 明日の70回目の終戦記念日を前に、今夕6時日本政府として安倍首相が総理大臣談話を発表した。先の戦争でアジアへ侵略し、多大な犠牲を強いたアジアの国々へ安倍首相は謙虚にお詫びと反省の言葉を率直に述べる必要がある。これには賛否両論があるが、多くの犠牲と被害を与えたのは戦前のわが国軍国主義であり、素直に謝罪すべきは謝罪しなければ、お互いの頑なな気持ちが融解して、次のステップへ進むことは難しいからである。

 首相談話には使用されるかどうか懸念されていた、キーワード「植民地支配」「侵略」「反省」「おわび」が間接的な表現ではあったが盛られていた。9時半現在、まだ、オーストラリア、インドネシア首脳の評価するとのコメント以外はない。いずれ明日になれば、最も手厳しいと予想される中国と韓国、そしてアメリカの正式声明が発表されるだろう。

 さて、一方で終戦直前になって日ソ不可侵条約を一方的に破り、わが国へ侵略して日本人に危害を加え、残虐行為を行った旧ソ連政府(現ロシア政府)に対しても言うべきことはきちんと主張すべきである。場合によってはその極悪非道な行為に対して謝罪や賠償を請求すべきだと考える。

 終戦前日の昭和20年の今日、満州でソ連軍が千人以上の日本人を虐殺した葛根廟事件と言われる隠れた残虐事件があった。その悪行についてロシアは知らんぷりを装っているだが、肝心の日本人がほとんどその実態を知らない。こと戦争については、特に賠償については、戦勝国の論理で語られ勝ちだが、敗戦国の悲劇も多数あり、仮に事実が分かるなら、それは闇に葬らずきちんと清算すべきではないだろうか。

 首相談話が片付いたら、日本人としてじっくり考えてみるべき問題ではないだろうか。

2015年8月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3013.2015年8月13日(木) 4選を果たした嘘つき、上田埼玉県知事

 サンフランシスコに旅行中行われていた埼玉県知事選で現職の嘘つき知事・上田清司氏が4度目の当選を果たした。自分自身が提案した多選自粛条例を恥ずかしげもなく自ら破って4度目の立候補をしたのである。こんな知事を推す民主党と維新の党もどうかしているが、その無節操ぶりにも呆れる。これほど人間として、また政治家として恥ずべき行為はない。選挙民もすっかり白けたのであろう、投票率は26.63%で知事選としては全国で過去3番目に低い投票率である。

 それにしてもこの嘘つき知事には呵責に耐えられないという良心がないのだろうか。選挙ではこんなことを言っていたようだ。「自らが作った多選自粛条例を守れなかったが、公のため、埼玉のためにしっかり頑張りたい」。条例を守れなかっただと?守らなかったのではないか。何が公のためだろうか、「自分自身だけのために頑張りたい」と言うべきであろう。あまりにも身勝手で虫が良すぎるのではないか。政治家は一度口に出したら、それを絶対守るのが責務である。投票率が低下するのは当然としても、投票者の6割を超えて支持を得たという事実も埼玉県民の良識に疑問を感じさせる。こうして嘘つきが大きな顔をして通りを歩き、世の秩序は破壊され、暗いデタラメな世の中になっていくことを考えるとぞっとする。それにしてもこの嘘つき知事が、果たして公のために何ができるのだろうか。嘘をついて公のために為すべきことがあるだろうか。県政は着実に成果を挙げているように見えるのは、目くらましであってその品性はお粗末の一語に尽きる。近年稀にみる悪知恵の呆れた知事である。

 さて、一昨日人民元の対ドル基準値を1.9$切り下げた中国が、昨日更に1.6%の切り下げを行って世界中に中国経済のリスクを拡散させている。そして今日またまた1.6%の追加切り下げを行った。このところ中国の景気が一段と減速している。そのため習近平政権が元安による輸出のテコ入れのための誘導と受け止められているが、これにより世界中で株価は大きく下がり、政策転換が鮮明になった。

 そんな中国で天津市内の危険化学物質を貯蔵する倉庫で今夜半大きな爆発事故があり、40名以上が亡くなり、500名以上が負傷している。現地へ進出している日本企業もかなり被害を蒙った模様である。

 外交的には南シナ海の海洋進出が国際社会から大きく非難され、経済的にも苦しい状況に追い込まれている。中国は当分内政、外交で落ち着いた政策実行ができ難くなるのではないかと懸念される。

2015年8月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3012.2015年8月12日(水) 朝日新聞との対決、第2ラウンドへ

 帰宅した昨日1通の書状を受け取った。旅行出発前の3日に朝日新聞社・渡辺雅隆社長に宛てた2度目の手紙に対して東京本社お客様オフィス部長・福島範彰氏が代理して書き送ってきた返書である。渡辺社長宛に2通の質問状を送ったが、最初の手紙に対しては、名無しの権兵衛氏から非礼な返書を送って来た。この書状は、私の抗議と質問を交えた2度目の手紙に対する返書である。前回の権兵衛氏からの無礼な返書とは違い、責任ある部長氏の手紙だけに体裁も、内容もまともなものである。だが、やはり納得するには、まだ説明が足りないし、質問にすべて応えてくれているわけではない。

 依然として不満を抱いてはいるが、いつまで正論をぶつけても鵺のような体質の朝日新聞社には、自己流儀ののれんに腕押し論法にはぐらかされるばかりだと思うので、時間のロスにもなり、好い加減に争うのはバカバカしくも思えてくるので、この辺りで打ち止めにしようかとも考えている。

 福島氏の文面では、社長宛の親展に対して福島氏自身が返事を書いたことを陳謝しているので、気持は理解できる。だが、そもそも朝日の社員は元々頭が高く、社外の人を見くびることを意に介しない会社であり、他人の心を傷つけることや、礼を失する行為は日常茶飯事のことなのだろう。そこには世間一般の常識も、エチケットもまるで見られない。

 返書には、6月5日付朝刊の「高齢者の地方移住を」に高齢者を愚弄する意図はまったくないと主張し、私がこの見出しは読者に誤解を与えるものだと提言したことに対しては、「ご指摘は真摯に受けとめ、改めて関係部署にお伝えしたい」と書いてきた。2カ月もかかってここまで来て、漸く反省の一端を示したのである。何度となくこの点について疑問を感じ、質問したことに対して無視し続け、社長に2度に亘って親展文書を送って漸く「お客様オフィス」担当部署の責任者が社長の代理として神輿を上げたのである。このノーテンキぶりは、長年の読者の真剣な質問に対して失礼ではないだろうか。

 あまりにも長い時間がかかっている。また何と読者を無視し、愚弄し、傲岸不遜な対応を取り続けてきたことか。

 社長に宛てた手紙では、僭越ながらこのような「上から目線」の対応では普通の営業会社では立ち行かなくなるであろう。その点朝日が経営を続けられるのは、これまでの優秀な諸先輩の功績によるものであり、その点を肝に銘じて社外の人々に謙虚に対応すべきであると僭越な意見がましいことをいくつか書き連ねた。社長の胸の内は不明だが、朝日にそういう謙虚な姿勢を取る気持ちが有りや無しやである。

 ついては、私自身これから朝日にどう対応するか。第一段階として7月25日の本ブログに憤懣をぶちまけたが、どう決着をつけるかについては、まだ決めかねている。

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3011.2015年8月11日(火) 九電川内原発、再稼働に踏み出す。

 飛行は順調で予定より少し遅れたが、全日空機で無事成田へ帰って来ることができた。奇しくも明日は今から30年前、日本航空ジャンボ機が御巣鷹山へ墜落して520人の尊い命が奪われた日である。

孫は成田到着後すぐに、伊丹へ向かったのでゲートまで見送ってわが家へ帰って来たのは8時前だった。夜分になって奈良へ帰った孫からも楽しかったと電話があったので、あまり多くを期待せずにまずまず旅自体は結果として佳しと捉えるべきであろうか。

 昨日まで滞在していた20℃以下のサンフランシスコに比べると、流石に日本は暑い。この暑い日本で、また熱い論争が始まりそうな雲行きになりそうである。

 論点は今日九州電力川内原発が再稼働したことに対する賛否両論である。一昨日長崎原爆投下70周年の日が過ぎた途端、この無慈悲な原子力発電再稼働の判断と行動がなされた。過去2年間は原発ゼロが続いていたにも拘わらず、反対の声を押し切って原発GOとやってしまった。地元の住民投票では賛成が多く、それはそれで生活面での厳しさを考えれば、理解できないこともない。ただ、安全神話が崩れた以上いくら万全の態勢を取っても事故が絶対起きないという保証はない。そして稼働によって排出される使用済み核燃料の処分の問題である。これは世界的にも解決されたわけではない。ましてやわが国では処分する場所すら決まっていない。これらの重要な問題を先送り、というより未解決のままして原発再稼働だけを決定し、実際に稼働することは地元住民以外の人はどう考えるだろうか。アンケート調査によると、原発再稼働について、賛成が23%、反対が56%の数値をどう判断したら良いのか。数のうえでは、完全に反対派が圧倒している。それを検査結果が世界で最も安全だからという安倍政権の政治的判断だけで突っ走って決めて、後顧に憂いを残すことはないだろうか。帰った早々難しい問題を突きつけられたような気分になってしまった。

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3010.2015年8月10日(月) サンフランシスコに想いを残し離れる。

 いよいよサンフランシスコを去る日が来た。いろいろ考えた末昨日乗ったBARTでサンフランシスコ国際空港駅へ向かうことにした。到着した時は、営業用バン車で$17だったが、BARTは$8.75で値段も手ごろでかなり大きなバッグを持った多くの旅行者の姿が見られた。因みにタクシーだと$33~50が相場だそうである。今日は昨日とは異なりどのラインも運行していた。

 この空港は1988年に旧空港を改築して開業された。従ってどうも使い勝手が依然度々利用した時とは違う。空港駅に辿りついたが、ここから全日空が利用するターミナル1へは胡座式モノレールのような山手線に乗って目的のチェックイン・カウンターへ行くことになる。しばらくサンフランシスコを訪ねなかったので、その点でちょっと戸惑った。

 今回の旅行は、孫の精神的な成長を期待するとともに、積極性を身につけてもらいたいの一念で私の一方的なやり方でサンフランシスコ市内を孫とともに歩き回ることだった。その目論見は計画としてはまずまずだったが、今後孫の成長にどんな形で成果がどう表れるだろうか。

 機内は往路と同じように旅行シーズン真盛りとあって満席状態のままフライトは揺れもなく成田へ向かった。太平洋上で日付変更線を越え、時計は16時間の時差をクリアして日時を1日進める。

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3009.2015年8月9日(日) サンフランシスコ最後の1日を欲張って

 サンフランシスコで孫に見せてやりたい場所は今日で最後なので、自由な中でも精力的に行動するつもりだったが、出鼻を挫かれてしまった。

 その最初のしくじりは、サンフランシスコ湾海底を通る地下鉄で、通勤・通学の足となっているBART(BAY AREA RAPID TRANSIT)に乗って、オークランド・サイドにあるカリフォルニア大学バークレイ校(U.C.Berkeley)を見学するつもりだったが、無駄な時間を費やしてしまったことである。パウエル駅プラットホームでリッチモンド行列車を待てど暮らせどホームに到着せず、30分以上経っても来なかったので、駅員に尋ねたところ、日曜日にはリッチモンド行直通列車は運行しないので、途中駅で他の路線に乗り替えてダウンタウン・バークレイ駅へ行って欲しいという説明があった。

 ともかくその案内に従い目的駅へ着いてから、かつて訪れたことがある懐かしいU.C.Berkeleyキャンパスを見学することができた。第1次大戦が勃発した1914年に建設されたという時計塔・セーザータワーへ昇ったが、その昔昇った時にはフリーだったエレベーターに3$支払った(シニア・シチズンは2$、孫は成人として3$)のには時代を感じた。夏休み中で、しかも日曜日とあって幸か不幸かキャンパス内は閑散として落ち着いた雰囲気で見学者のほとんどが中国人団体だった。名門大学の素敵なキャンパスを孫に見せてやることができて自己満足ではあるが、良かったと思っている。残念ながら学生生協と学食も休みで、昔ここの生協で購入した住所録の代わりを買うことができなかった。しばらく現在使用中のおんぼろ住所録を使うより仕方ないと思っている。

 キャンパスを出てバークレイの街を見学傍々ペルシャ料理店であまりうまくないランチを取って、BARTで再び半島の北・エンバカデーロへ向かい、そこから歩いてPIER39の水族館を見学した。これは海底トンネルを歩きながら海中の魚類を見学できるという珍しい水族館で今話題になっている。近くの海には野生アザラシが何匹も見られて観光客の人気を呼んでいた。そして、最後の夕食をフィッシャーマンズ・ワーフの中心「ライトハウス」という魚介料理店で、たらふく食べたいと思っていた蟹の茹で上げと、エビのサンドウィッチ、クラム・チャウダーを残すほど食べて最後の晩餐とした。孫も食欲旺盛で美味しかったと言っていたので、まあ上々の打ち上げだったのではないかと思っている。

 帰りはフィッシャーマンズ・ワーフから一昨日と同じように再びケーブルカーに乗って帰って来たが、日曜日というせいもあって一昨日より大分長く待たされ、何と1時間40分も並んで待たされてしまった。そのうえ寒く待っている人たちはほとんどスペアの重ね着をして寒さを凌いでいた。孫ともども震えっぱなしで、お盆も近い猛暑日の続く日本の気候を考えると想像もできない寒さを最後になってこの地の土産としてもらってしまった。

 いよいよ明日は日本へ帰ることになるが、孫が今回の旅行でどれほど成長してくれたかは定かではない。毎日少しずつ気がついたら注意したり、実行させたりしたので、それなりに感じてはくれただろうが、性格的な面をより積極的にと望んだのは、やはり中々難しかったかも知れない。でも、聞いてみると案外旅を楽しんだようだし、ヨセミテの素晴らしさを知ったし、ケーブルカーにも乗って、サンフランシスコで多くの有意義な体験をしたことは間違いない。これをどう今後生かしてくれるかは孫次第ということではないだろうか。爺ちゃんもやや張り切り過ぎて疲れてしまった。

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3008.2015年8月8日(土) 世界遺産・ヨセミテ国立公園巡りをエンジョイ

 楽しみにしていた世界遺産・ヨセミテ国立公園への1日観光に参加した。隣のホテル・ニッコーの滞在客11人とヒルトン滞在の我々7人を鹿児島出身のドライバー・ガイド柳鶴利則さんが案内してくれた。柳鶴さんは昨日のガイド森脇さんと似たような雰囲気の人だが、平均時速125㎞で運転するというから相当なスピード狂だ。私と孫はマイクロバスのような小さいバスの最前席に座ったが、怖いと思うくらいスピードは出すし、路線変更はするし、で慣れるまではハラハラだった。

 市内からオークランドへ渡る時通過したサンフランシスコ・オークランド・ベイ・ブリッジは旧ブリッジが取り壊され、旧ブリッジに沿って新ブリッジが建造されたことは知らなかった。古い橋は今解体工事中だった。柳鶴さんがそっと教えてくれたところによると、新ブリッジは中国業者によって設計、建造されたが、安い事業費と粗い工事のため、早くも随所に欠陥が表れている一部で噂になっているという。

 スピード狂の柳鶴さんだが観光に関する知識は広く深く、その情報通ぶりには感心した。おかげで世界遺産・ヨセミテについて単なる観光知識を与えてくれただけでなく、立体的にヨセミテを教えてくれた。これまでヨセミテには1976年以来数回訪れているが、訪れたのはいずれも秋で最繁忙期の夏の様子は人伝てに聞くしかなかった。最も驚いたのは交通渋滞というわけでもなかったが、レジャー客の車が週末というせいもあり目立って多かったことと、途中の山道で崖崩れのため交通整理をしていたことだった。

 期待していたハーフ・ドーム、エル・キャピタン、ヨセミテ滝、グレーシャー・ポイントなどを忙しなく見て回った。ハーフ・ドームを目の前に、孫に彼の父親の家庭教師を務めてくれた谷口龍二くんがロック・クライミング中に誤って落っこち宙ぶらりんで吊り下がった状態の時にアメリカ人クライマーに救助されたエピソードを話してやった。根っからの登山好きだった好漢谷口くんは、大学アルペンクラブの後輩で、その後富士山で遭難者の人命救助に当たって表彰されるなど登山で幅広く活躍し、尖鋭的なロック・クライミングにとりつかれるようになったが、今から30年近く前ヒマラヤ山系パキスタン領内のシプトン・スパイアー(標高5850m)で哀れ転落死してしまった。葬儀にはわが家族4人は揃って参列した。この旅行の前にも高齢のご両親から暑中御見舞いのお便りをいただいたばかりである。

 ついハーフ・ドームを目の当たりにしてセンチメンタルな気持ちになってしまった。好青年だっただけに、彼のあまりにも早い死が惜しまれてならない。

 ヨセミテはその広大な面積とともに、今更ながらその人気に驚く。アメリカでもグランド・キャニオン、イェローストーンと並ぶ世界自然遺産として、また最も行ってみたい観光地として自然遺産ではトップスリーにランクアップされるという。孫も口数は少ないが、大分感銘を受けたようだった。

 朝7時半にホテルを出て、ホテルへ帰って来たのは夜の7時半になり、文字通り1日がかりの忙しいツアーになったが、心から楽しませてもらい、併せて考えさせてもらったツアーだった。サンフランシスコ市内を隈なく見て回るのも良いが、郊外へ足を伸ばして世界的観光地に足を踏み入れ、のんびり自然の中に心身ともに浸すことができたことは、きっと孫にとってもいつまでも忘れられないメモリーとして心に残ることだろう。

2015年8月8日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3007.2015年8月7日(金) サンフランシスコ市内観光を楽しむ。

 事前に手配したサンフランシスコ半日市内観光は、森脇信さんと仰るドライバーガイドがホテルへ8人乗りバンで迎えに来てくれた。京都府福知山市出身のベテラン・ガイドさんで陽に焼けて白髪頭だったので、私と同年輩ぐらいだろうと思っていたところ70年安保世代と仰ったので、10歳ぐらい私よりお若い。

 同乗のお客さんは、東京葛飾の若いご夫婦と栃木県から参加された30代と思しき女性3人を合せて計7人だった。バンは大型バスと異なり、やや運転制限が緩やかで割合狭い場所でも自由に観光できる。市内全景とゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)を眺望するために、かつてバスで観光したツィン・ピークスを最初に訪れたが、聞けば今ではここには大型バスは入れなくなったと言われた。

 金門橋を通ってオークランド側に渡らないということだったので、橋の手前の駐車場から橋の最初のゲートまで孫と歩いて行ってみた。時間があればそのままオークランド側に渡ってみたかった。幸い橋上から市内の全景と監獄島・アルカトラス島の眺望を楽しむことができた。森脇さんが70年安保世代だったので、やはり日米安保条約に関心があるようで、サンフランシスコ海洋国立歴史公園内にある記念的館へ案内してくれた。そこは1951年安保条約締結の際、吉田茂首相がアメリカのアチソン国務長官やダレス特使らと会談し、条約に調印した場所だった。私はここを初めて訪れたことになるが、素晴らしいロケーションの洒落た造りの館内で条約調印が成されたことが、その後60年安保、70年安保の際日本国内に大きな反対運動が起きたこと、更に現在安保関連法案が成立しようとしていることと併せ考えると感慨無量の思いがする。

 フィッシャーマンズ・ワーフで森脇さんらと別れ、孫とぶらぶらしながらランチを取り、昨日から念願だったケーブル・カーに乗ってホテルへ帰って来た。話には聞いていたが、ベイ・エリアの始発駅で並んで待つこと1時間、そして乗って30分の時間を要した。大分以前に乗車したことはあったが、その時の感覚はほとんど忘れていた。やはり急坂の上り下りには時代がかったケーブルカーの馬力を流石に凄いと感嘆するしかなかった。

 夕食はホテル近くで賑わっている和食レストラン「堂島庵」で天麩羅そばと寿司を食べ、明日ヨセミテ公園行き出発時間が早いので、おにぎりをテークアウトして来た。

 夜は孫に航空便ハガキの書き方を伝授する。

2015年8月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

3006-2. 8月6日(木)②(サンフランシスコにて)ケーブルカーの接触事故で乗車できず

 昨夜の機内はやや肌寒かった。軽いシャツに夏ズボンだったが、用意していたスェーターを重ね着して久しぶりにサンフランシスコの地にやって来た。空港は私の記憶からすっかり変わっていた。孫にはこれがアメリカの大地だということを言い聞かせた。私にとって初めてアメリカ大陸の土を踏んだのも、このサンフランシスコである。ヒルトンホテル・ユニオン・スクエアに行くにはいくつかの方法を考えていたが、取り敢えずインフォメーションで聞いてみたら‘SHARED-RIDE VANS’という相乗りバスのようなシステムがあることを知り、孫にとっても空港から市内までの道のりを知るためにも良いのではないかと考え、ひとり17$で客は結局我々2人だけだったが、これに決めて良かったと思う。広い空港ビル群を順次第1、第2、第3ターミナルと回ったうえで、市内へ向けてスタートした。ドライバーと和やかな会話を交わしながら順調にホテルへ辿りついた。

 早速ジーンズに着替えて孫を連れ出し、ケーブルカーで観光客に人気のあるフィッシャーマンズ・ワーフへ出かけたところが、最寄りの停車場近くで何の偶然だろうか、ケーブルカーと車が接触するという珍しい事故を起こして動かなくなって、ケーブルカーが何台も立ち往生している事態に遭遇した。これでは、埒があかないと急遽予定を変更してケーブルカーの走る坂道に沿って北上し、ケーブルカー博物館を訪れ、その歴史的遺産を見学することにした。その後時間的にはやや早かったが、中華街で夕食を摂ることにした。坂道を上ったり下ったり歩き回り、ケーブルカー乗車はともかく明日に回して、これも名代のサンフランシスコのチャイナタウンで、偶々入った面白いおやじの店で中華食をたらふく味わった。注文をザラ紙に鉛筆で書いて、単純な足し算をしてその場で会計をしろという風変わりなオヤジで庶民的だ。かつて団体で入ったやや高級感のある中華料理店とはえらい違いの気さくな店で、うまい中華を存分に口に入れることができた。予定は変わってしまったが、元々きちっと決まっていたわけでもないので、明日はすでに予約してある半日バス市内観光を終えた後フィッシャーマンズ・ワーフ周辺をぶらつくことによって孫にもアメリカの雰囲気とか感覚を掴んで欲しいと思っている。

 昨日から煩いジジイが傍で細かい注意をしたり、ホテル部屋内では設備の使い方やアメリカ人との交渉についてあれこれアドバイスをするので、孫はさぞ辟易しているだろうが、これも「教育的指導」のつもりなので多少は我慢して欲しいところ。

2015年8月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com