1854.2012年6月10日(日) 無事帰って参りました。

 ほぼ予定通り成田空港へ帰ってきた。痔の具合が捗々しくないので座ったままの長距離便は堪える。運よく機内は比較的空席が多かったので、横になることができて救われた。幸い日曜日のため居候中の長男が車で空港へ迎えに来てくれたので助かった。

 隣席に若い外国人女性が座った。欧米系の女性と思いきや、何とヨルダン人だった。これから東海村へ研修に行くと言う。率直に訊ねたら原子力発電の研修だという。20日間の研修期間中に福島にも、その他の古都にも訪ねたいと言っていたが、あまり細かいことを聞くのは憚られたので通り一遍の話しかできなかった。ただ、我々が知らないところで、原子力に関する研究とか、研修はどんどん進められているのだと感じた。ヨルダンの発電能力を考えるとやはり一番手っ取り早いのは、原子力発電になるのだろう。それだけに安易に原発開発、稼動へ国が向かっていくことに不安もある。彼女との短い会話を通して発展途上国の資源エネルギーについてしばし考えさせられた。

 さて、やっと念願のヨルダン参りを終えてすっきりした。45年前は若さだけで、怖いもの知らずのまま危険の中へ入っていった。今それほどの勇気はない。それだけに当時自分だけの考えで海外武者修行をやって、破天荒な体験をしたことが、その後の自分の人生に大きな財産になったと考えている。今回臨場感溢れる現場を改めて踏むことができて、印象深い旅となった。これをまた今後に生かしたいと思っている。

2012年6月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1853.2012年6月9日(土) 45年前の鮮烈体験の丘に立つ。

 朝起きて窓の下を見ると昨日あれだけ賑やかだった市場がテントごときれいさっぱり撤去されていた。安息日だった昨日一日だけの青空市場だそうだ。

 10時にホテルロビーで待っているとムハマッドさんが車で迎えに来てくれた。早速ダウンタウンの中心街にある古代ローマ劇場を見学する。忘れもしない懐かしい劇場である。あの時はこの前で写真を撮った。通りを隔てて建っていた「ホテル・アルカサール」は完全になくなっていた。ムハマッドさんに聞くと、この通りに面した古い建物はほとんど壊され建て直されているという。実際残っている小さなホテルは建物自体が今にも崩壊しそうなくらい危ない建物だ。

 身柄拘束された現場の正確な場所は新しい住居も建設されてとうとう分からなかったが、その周辺をぶらついて丘のスポットを見当つけて登った。とても正確とは言えないが、当時の状況を完全には思い出せない以上大体の場所で納得するより仕方ない。街の全体的な感じとしては戦争当時の面影があったので、まあそんなところで我慢するしかない。

 当時は怖そうな十数名の兵士にあっという間に銃を突きつけられたが、今日は平和な中であどけない子どもたちに囲まれた。やはり現場に来て青春の一駒を思い出し、本当に良かったと思っている。ガイドを含めて知り合ったヨルダンの人々はお世辞もあるだろうが、私が当時の体験談を話すと強い興味を示してくれ、細かいことまで聞いてきた。彼らにとって第三次中東戦争は歴史上大きなでき事であるが、現実にそれを知っている人はヨルダンでも少なくなっている。やはり歩いてみると当時とは異なった臨場感を感じる。感慨深かったし来てみて、環境はがらりと変わったが、気にかかっていた45年間の空白を埋めてくれるものだった。

 ダウンタウンで衣料洋品店を営んでいるムハマッドさんの従兄弟の店を訪ねて、周辺の様子を聞いた際、彼の机の上に置かれた新聞が気になった。文字はアラビア語だが、大きな写真は大飯原発再稼動反対のデモの光景である。出発前にそうなるのではないかと悪い予感がしていたが、結局野田内閣は再稼動へ踏み切ったようだ。原発問題は今では日本だけの問題ではなくなっているのだとの認識が少し足りないように思う。ヨルダンと日本のサッカーのワールドカップ最終予選で、6-0の一方的な負け方をしたヨルダン・チームのだらしなさを大げさに嘆いていたのも、面白かった。

 ムハマッドさんが展望の良く効くシタデルへ車を走らせてくれ、アンマンの市街をパノラマ形式で楽しむことができて、45年ぶりに青春時代の危なかったシーンを改めて感じて感慨無量である。今日一日の印象は多分一生忘れないだろう。

 ベドウィン族の食事を提供するレストランで昼食を終えてから、空港へ向かったが、ここも出国のセキュリティ・チェックは厳しい。漸くアブダビ行のフライトに乗って帰国の途へ就く。

2012年6月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1852.2012年6月8日(金) 再びヨルダンへ入国する。

 今日はイスラム教の安息日である。市内はいつもより車が少ないように見える。いよいよツアー帰国の当日となった。尤も私はツアーから離れて個人行動に移るので、ツアー同行者とは感慨は違う。ホテルをチェックアウトの際電話代を支払い、絵葉書の切手を購入しようとしたら、ホテルでは郵便切手は取り扱わないという。売店で買えというわけだが、その売店が店開きをしていない。24時間サービスを建前としているホテルとしては、少々顧客サービスの面で問題があるのではないかと思う。結局ガイドの朋子さんに切手代を添えて投函をお願いすることにした。

 ホテルから国境へ向かう。国境検問所へ向かう途中で、‘SEA LEVEL’地点で停車する。ヨルダンと同様にどうも山中に0mというのがあまり日本人にはぴんとこない。そのほかに砂漠の中に遊牧民族ベドウィン族のテントをところどころ見ることができる。アラビアの遊牧民は、その昔朝日新聞に連載された本多勝一氏のルポが懐かしい。

 さて、検問所では相変わらずイスラエル出国手続きとヨルダン入国手続きでごった返して随分時間がかかる。こればかりは国の仕事であるから、外の人間がとやかく言うのは憚られるが、それにしても「無駄」に近い時間の浪費である。それにイスラエルの出国税が一人46$とはべらぼうな金額ではないだろうか。こんな高い出国税は聞いたことがない。流石ユダヤ商人と言っては言い過ぎだろうか。

 ここでガイドの朋子さんとはお別れである。僅か2日間だったが、分かりやすいガイドをしてもらって大変助かった。特に感心したのは、ご自分のアイディアで作成されたであろう、年表と図解だった。20年もイスラエルに生活し、ヘブライ語を学ばれたので言葉には不自由ないのだろうが、イスラエルという国と3つの宗教について、日本人にわかってもらおうとする気持ちが感じられた。暑い国での生活は大変だと思うが、一層の活躍を祈念して止まない。

 ヨルダン側では一昨日別れたガイドのRa’edさんとドライバーが出迎えてくれた。一昨日と同じようにすべての手続きが完了するまでに2時間近い時間を要した。

 アンマン市内に入り昼食を取ってから、ツアーは空港へ向かったが、その途中で今晩の宿でRa’edさんに手配してもらった「トレド・ホテル」で降ろしてもらい、ツアーの皆さんとはお別れだ。中にはちょっと変わり者のおっさんもいたが、他の同行者のほとんどは良い人たちだった。古今東西「旅は道ずれ、世は情け」と言われるように、一緒に旅していてそれなりに楽しい人たちだった。

 トレド・ホテルは決して高級なホテルではないが、窓下を見下ろすとオレンジ色のテント張りの大きな市場が見える。外観は悪くないが、ウォッシュタオルの備えがなく、バス回りがあまり衛生的ではなく、バスタブにストッパーがなくスペアを持って来させたり、部屋の電灯も暗い。たった1泊だから良いが、あまり長く滞在する気にはなれないホテルだ。

 外へ散策に出る。興味本位に市場の売り子から質問を受けるが、みんな笑顔がいい。どこの国もトップは申し合わせたように気難しい顔をしているが、このヨルダンの普通の人たちはみな素朴で明るい人々である。

 夕食の折ビールを頼んだところノン・アルコール・ビールだった。うっかりしたが、アルコールはイスラム圏ではご法度なのだ。失敗!失敗!

 明日はRa’edさんが手配してくれたガイドのムハマッドさんの車で、午後のアンマン出発までの時間を有効に過ごす。行ってみたいところは、何と言っても前回身柄拘束された現場である。そして、今はなくなってしまった、前回宿泊のホテル・アルカサール周辺と古代ローマ劇場にもう一度ぜひ行ってみたいと思っている。

 外からイスラム教特有のお祈りの言葉、アザーンが流れてくる。ヨルダン最後の夜の帳が下りてきた。

 残念だが、痔の具合はあまり良くない。

2012年6月8日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1851.201年6月7日(木) エルサレムの観光を終える。

 今朝は少々早い時間に神殿の丘へ向かう。ガイドのシュタイン朋子さんの話によると相当混雑して時間前に並んで待っていないと入るのに2~3時間はかかるという。ここにはエルサレム中から見通せる黄金ドーム(別称「岩のドーム」)がある。今日一日暑い中を歩いて見学することになった。この神殿の丘はほぼ市内の中心にあって、周囲を谷間で取り囲まれているような立地のため、遠方からでも燦然と輝くドームが眩しく映る。その後ぜひ見学したいと考えていた「嘆きの壁」に行く。ここで面白いと思ったのは、ヨシズのようなもので仕切られ、男女別々に壁に向かってお祈りをすることである。

 日本の治安安全神話に比べて、自分たちの生活は何としても自分たちの力で守り抜くとの気概のあるイスラエル人は、面倒で厳しいセキュリティ・チェックを甘んじて受ける。それが、外国人にとっては嫌で堪らない。神殿の丘へ入るのに時間がかかったのは、このセキュリ・ティチェックのせいであるし、嘆きの壁の手前でも腕時計から、ベルトまで取り外すチェックには少々閉口である。まぁ、これもお国事情と言ってしまえば、そうなのかも知れない。

 さて、思い出すのは、1967年の第三次中東戦争でイスラエルがヨルダンからヨルダン川以西を占領し、真っ先に嘆きの壁へ駆けつけたイスラエル軍兵士が嘆きの壁へ向かって涙を流していた光景が忘れられない。

 その後、処刑されたイェス・キリストがゴルゴダの丘へ向かった道「ヴィア・ドロローサ」を歩きながら聖墳墓教会を見学した。明日が安息日ということもあって、信者が教会内部にいっぱいである。教会内ではカトリック正教の式典が行われていて厳かなオルガンの伴奏に合わせて♪ハレルヤ♪を歌いながら多くの神父さんが教会内で御練りをしていた。国立博物館では「死海文書」展示品の解説を聞く。

 午後パレスチナ自治区ベツレヘムにある聖誕教会の見学である。エルサレム市内でもベツレヘムは特殊な地域で、いわば外国のような立場にある。武装兵士が詰める検問所はあるし、エルサレムの車でベツレヘムでは営業できない。従ってバスとドライバーを交代させる。随分無駄なことをしていると思うが、イスラエルとエルサレムの歴史を考えれば現状では止むを得ない措置なのだろう。

 この聖誕教会は、イェス・キリストが生まれた場所として普く知られている。外壁からすれば、いかにも古い建物との印象があるが、内部の天井は木造で、聞けば何度か再建されたという。内部はギリシャ正教様式である。地下にはキリストが生まれた場所と産湯を浸かったスペースが煌びやかに飾られている。今日はキリスト教の誕生と歴史を現場で学んだ一日だった。これでツアーは明日ヨルダンへ入り、帰国の段取りだが、私はツアーを別れてあと2日日程を延長している。

 そこへ今日困ったことが起こった。昨日辺りから具合が良くなかった「いぼ痔」が早朝になってとうとう突出したのである。一昨年10月と同じ症状である。どうも具合が良くない。残りの旅行をこのままの状態で続けるのは良くないだろうし、旅行するのも辛い。そこで日ごろかかりつけで、前回処置してもらった内科の森先生に直接国際電話をして症状をお話して、ある程度悪化を食い止める治療法を教えてもらった。

 早く治療を受けるに越したことはない。この旅の最大の目的であるアンマン滞在をカットするわけにはいかないが、旅程を一日短縮することを考え、帰路アブダビで一泊する予定をキャンセルすることに決めた。フライト・チェンジについては添乗員の保坂さんに手配をお願いし、観光中にフライト変更ができたとの返事をもらった。これまで再三日程を変更したが、今またアブダビ滞在を取り消し、フライト・チェンジすることによって余計な出費が出た。アブダビでは払い戻しなしの条件でホテルも手配済みだし、変更による手配料を3度支払わされる羽目になった。でも、こればかりは健康問題でもあり、止むを得ないと思っている。

 願うことは、現状より症状が悪化しないことである。

2012年6月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1850.2012年6月6日(水) 「死海」で浮遊体験を楽しむ。

 2日間かなりハードな行動だったので、やや疲労気味だ。夜になってこのブログを書き終えるとぐったりとなってすぐ床に就いてしまう。

 今朝はホテルを発つ前にコテージを下りて目の前の「死海」海岸で浮遊体験を楽しんだ。身体が浮くということ自体は、この湖の塩分が30%と極めて高いことから理論的には理解できるが、浮遊が実際にどういう感覚なのか、今までどうもぴんとこなかった。

 ところが、身体を水に浸からせると当たり前だが本当に身体が浮いてしまう。特に両足が浮いて寝たままの状態でいつまでもじっとしていることができる。浮いたままの状態で手足を上げても大丈夫なのだ。やっと理論的にも感覚的にも納得することができた。しかし、それにしても不思議な国のアリスの気持ちである。まあ、他人には中々体験できないことを試すことができて満足している。今日久しぶりに身につけた赤い海水パンツは、1983年にアマゾン川で泳いだ時に地元で買ったものだ。物持ちが良いのか、普段泳がなくなったせいだろうか。

 今日はいよいよ陸路でイスラエルへ入国する。近くにある辺鄙なところに国境検問所がある。ヨルダン側の出国手続きはごった返す出国者に巻き込まれて疲れたが、あまり問題はなかった。問題はイスラエルの入国手続きである。イスラエルでは散々待たされた結果漸く全員無事に入国することができた。国境を越えたとは言え、それほど環境に違いがあるわけでない。ただし、ヨルダンを離れるに際して、ヨルダンのバスとガイド役目は終わり、バスとガイドは替わった。Ra’edさんたちとは明後日再び待ち合わせることを約束して別れた。

 イスラエルのガイドはシュタイン・朋子さん。早速国境から首都エルサレム市内へ向かい、オリーブ山からパレスチナ自治区と旧市街全貌を眺める。岩のドームがとりわけ目立つ。ガイドさんのパネルを使用した、イスラエルの歴史と現状の説明が分かりやすく、大変参考になった。

 エルサレムというと、やはり私自身どうしてもたった6日間で決着がついた第3次中東戦争を思い出す。あの時、イスラエルは勝利者の倣いとして①ヨルダン川以西、②ゴラン高原、③シナイ半島、を戦果として占領し、今も①と②についてはイスラエルの占領下にある。まだ、分からないがガイドさんの話では①については、ヨルダン政府にそれほど取り戻す気持ちがないようだとの話には何だか割り切れない気持ちである。占領地区に住むアラブ人の本音を探り出して聞いてみたいものだ。

 イスラエルと言えば、何となく先入観として持っているのが、発達した先進国家のイメージである。それが市内の交通インフラがまるでダメで、車の渋滞というより、低い交通モラルには少々呆気にとられるほどである。そして想像していなかったことだが、坂が多い。狭い道路とアップダウン、そして駐車スペースが不足しているせいだろうか、あちこちでクラクションを鳴らす音がけたたましい。

 何となく慌しい中に1日が終わったような印象である。

2012年6月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1849.2012年6月5日(火) ペトラ遺跡観光は疲れるが、素晴らしい。

 夕べオプショナル・ツアーでペトラ遺跡でも最も知られた宝物殿エル・カズネを見学したが、真っ暗闇の中を幽かに写真で知るエル・カズネを見ただけだった。今日は期待感に胸を膨らませて朝8時にホテルを歩いて出た。まずそのエル・カズネを目指す。本物を間近に見てみると、何とも言えない厳かな気持ちに捉われる。更にその奥先へ向かう。岩山の階段が990段もあることから、昨日来やや疲れ気味でもあったので、ロバに乗ることにした。ロバの背で振り落とされまいと必死になってしがみついていたが、細い岩山を登り下を見れば谷底も見え、少々怖い感じもした。帰りもロバに乗っても良かったのだが、岩山の下りには流石に恐れをなし危険を避け止めることにした。

 ペトラ遺跡というと決まってエル・カズネの絵が紹介されるが、周辺渓谷跡に残された数々のお墓、神殿、その他の古代ナバテア人の遺跡と環境が素晴らしい。中には排水溝や彫刻の残滓もある。まだまだ考古学上貴重な遺跡が発掘される可能性を秘めているが、予算的に苦しくて思うように手が回らないようだ。

 エル・カズネから奥入った岩山は登るに従って景色が良くなってくる。アメリカのグランド・キャニオンと比較してもスケールでこそとても太刀打ちできないが、歴史と文化の遺産が数多く残され、総合的に見て決してひけを取るものではないと思う。ホテルへ戻ってきたら午後3時前で、昼食を挟んで歩きっ放しだったので疲れた。流石に疲れたその哀れな歩き方が一目で分かるのか、馬車、ロバ、馬の業者から利用しないかとの呼びかけの声を散々かけられた。今日は万歩計で2万歩を越えていた。

 ペトラ遺跡の素晴らしさはとても口には言い表せない。あまり日本人観光客の姿は見かけなかったが、欧米人がかなり押し寄せているようだ。とにかくこれで私自身世界遺産見学も160箇所になったし、「新世界7不思議」の7箇所もすべて征服した。世界遺産関係の講義を引き受けることが多くなったが、今後はこれに新世界7不思議も取り混ぜて幅広い内容で話せるのではないかと考えている。

 ペトラの地を去って今日の宿泊予定地「死海」へ向かう。相変わらずの炎天下をバスは砂礫の砂漠の中をひた走りに走る。アンマンから死海へ向かう道すがら大峡谷の一方の土手を約900mも下り出す。何でもこの広く深い谷は、南下すればアフリカ大地溝帯につながるという。随分スケールの大きな谷間で途中に珍しい標識が見られた。何と海抜0mとある。これから更にバスは下る。結局海抜-400mの死海に辿り着いた。我々は海面より深い場所に一夜の宿を取ることになった。

 中々立派なリゾートホテルで昨日と同じMOVENPICKである。各部屋が特殊な配列になっていて、ガーデンを横切り、海岸近くに部屋がある。このコテージの部屋のベランダから真正面に死海とその遥か向こうにイスラエルのパレスチナ地区の影を捉えることができる。明日はいよいよ念願のイスラエルに初めて入国する。期待はいやがうえにも高まってくる。

2012年6月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1848.2012年6月4日(月) 45年ぶりのアンマンは?

 長い旅路の末、乗り換え空港・アブダビへ来て、待合室で約4時間のアンマン行出発待ちである。相当しびれを切らしたころ、漸く憧れ?のアンマン行フライトに搭乗することになった。アラブ首長国連邦のナショナルフラッグ・キャリアのエティ・ハド航空は6年前に日本に乗り入れたらしいが、どちらかというとドバイにあるエミレーツ航空の方が知られている。機内の冷房が効きすぎて寒く、薄いセーターを持ち込んだので、どうにか寒さには耐えることができた。

 比較的ダウンタウンに近かったアンマン空港は以前とはまるで様子が違っていた。場所が移ったのだ。あの薄暗かった安普請の空港建物は近代的なビルに変わっていた。従って45年前の面影はまったくない。

 同行者は10人にJTB女性添乗員保坂さんが一緒である。ヨルダンでは英語ガイドの‘Ra’ed Salimさんが出迎えてくれた。すぐさまマダバへ向かう。首都アンマンに次ぐヨルダン第二の都市である。イスラム教を国教としているが、このマダバにはキリスト教徒も多い。

 最初に訪れたのは、ネボ山。出エジプト記で知られるモーゼがエジプトからユダヤ教徒60万人を率いて40年間かけて辿り着いたところで、ユダヤ教徒にとっては有難味に触れることができる。その石碑の傍で巡礼者のグループであろうか、谷間へ向かって朗読のようなことをしていた。高台から遥かに死海とヨルダン川を望むことができる。

 このマダバという街はモザイクの生産でも知られている。普通のタイルではなく、自然石からモザイク製品を作っているが、ことの始まりは聖ジョージ教会のモザイクである。

 首都アンマン市内を通過しないので、アンマンの印象は何とも言えない。今日バスはそのままペトラへ進んだ。世界遺産としても、また新7世界不思議のひとつとしても大いに楽しみにしている。ところが、今日ナイトツアーとしてペトラ遺跡のエル・カズネまで夜道を散歩する仕掛けがあるという。もちろん参加した。結果的にはやや期待を裏切った。まあ明日以降の楽しみが深まったと思えばいい。

2012年6月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1847.2012年6月3日(日) 自らに、‘Bon Voyage!’

 この1ヶ月間国会では何ひとつ法案が通らず、国会では小田原評定を繰り返すだけである。ヨーロッパ経済、特にギリシャとスペイン経済は行き詰まり、ギリシャの如きはEUを離脱するのではないかと囁かれている。日本でも3ヶ月ぶりの株価の極端な低落である。その中で昨日東京と上海の外為市場で円と人民元との直接取引が始まり、1元=12円33銭のレートが示された。されど一向に景気の良い話は聞こえてこない。

 そんな中でシリアの社会混乱は熾烈を極めてきた。そのシリアと第3次中東戦争当時国家連合を結成し、お互いに国名を「アラブ連合」と名乗った一方のエジプトでは、昨日失脚したムバラク前大統領が昨年反政権デモ参加者への発砲を命じ、800人以上が死亡したとして殺人罪に問われ終身刑の判決が言い渡された。まだ、死刑を求刑した検察側と弁護側双方とも控訴すると見られているので、裁判は継続するが、そのムバラク氏の下で首相を務めた人物が今月中旬のエジプト大統領選の決戦投票で国民の信を問うというのだから、何をかいわんやである。

 ともかく、これからヨルダンへ向かう。アラブ首長国連邦の首都・アブダビを経由してエティ・ハド航空でアンマンへ発つ。宿泊予定のホテルには部分的にしかインターネットサービスが使用できないようなので、毎日書き込むこのブログもHPにアップできないのではないかと気にかかるが、何とか書き込めるようトライしたい。久しぶりのアラブ、そして長距離飛行だが、若気の至りだろうか、どうも興奮を抑えきれない。

 所期の目標であるアンマン市内で45年前に身柄拘束された現場での検証を始めとして、世界三大塩水湖「死海」(これで三大塩水湖すべて征服)、ペトラ遺跡(これにより「新・世界7不思議」すべてを訪問)を訊ねて新たな個人記録を達成し、思い出に残る、楽しい旅行であることをヤハヴェとアラーにお祈りしたい。

 国内の政治的閉塞状況が気がかりではあるが、自らに、‘Bon Voyage!’

2012年6月3日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1846.2012年6月2日(土) 大飯原発再稼動は各首長の思惑によるものではないか。

 福井県大飯原発再稼動について、何やらただならぬ暗躍と政府筋からの陰湿な圧力があったようで、急速に安全性と危険性を憂慮した反原発の動きが萎えてしまった。そもそも空気が変わったのは、関西広域連合が限定期間付で再稼動を容認してからである。中でも大飯原発から立地的に最も遠い和歌山県の知事が、最初に積極的に容認すると発言した辺りからである。現状では再稼動を疑問視して、最も慎重だった京都府と滋賀県両知事も追認するように夏の電力最大消費時期のみ再稼動を容認すると発表した。

 これまで再稼動に反対を唱えていた腹に一物の橋下徹・大阪市長の豹変は予想されていたが、比較的強硬に反対していたと思われていた山田啓二・京都府知事と嘉田由紀子・滋賀県知事の後退というより、変節は理解し難いと考えていたところ、インターネット上で産経新聞朝刊が「『反原発』強硬知事が‘変節’した理由」として苦しい内情を赤裸々に解説している。

 一言で言えば、両知事は経済界から総スカンを食らったことのようだ。特に滋賀県では県内の19首長らは、嘉田知事が山田知事とともに政府に突きつけた脱原発依存社会への7項目の提案が事前に話がなかったとして強い不満を述べ、彦根市長の如きは謝罪まで要求する有様である。知事が真意をいくら説明しても市町村長らとの距離が縮まることはなかった。さもありなむ事実を知ったが、滋賀県は産業用の電力消費が多く、関西電力管内の産業用電力消費量の割合が約38%であるのに対して、滋賀県のそれは約58%が産業用だという。その典型は県内第2次産業の割合が41%で、全国第1位の企業城下県だそうだ。これでは、知事も県内経済界の声を無視できなかったのに違いない。

 嘉田知事の「節電は電気料金が節約できるため、マイナスばかりではない」とか、「経済は大事だが、原発事故で住めなくなったら何もならない」の真っ当な意見はどこかへ押しやられてしまった。理想や理念は素晴らしくても、例え危険性を伴っても経済のパワーには勝てないということだろうか。経済界に何ら寄与していない現在の自分自身が、原発反対を唱えるのも経済界の一部に言わせれば「原発再稼動に口出しするな」ということになるのだろうか。

 しかし、ちょっと待ってもらいたい。現状では原発再稼動は関西エリアだけがGOサインを示した。その他のエリアでは節電を実行しようとしている。関西以外では現在のところ、この夏の暑さに対して我慢に我慢をして耐え抜いて最盛期の2ヶ月を乗り切ろうとしている。そこには無駄を排除しようという純真な気持ちも芽生える。それよりこれでは折角節電しようと考えていた関西人の気持ちだって拍子抜けではないか。関西広域連合には、経済優先のあまり「もったいない」の気持ちを斟酌しようとの気持ちが感じられない。経済力がすべてを支配するとの思い上がった気持ちがあるのではないか。

 関西経済界のお歴々に質問を呈したい。ならば、原発稼動によって排出される使用済み核燃料をどのように処理しようというのか。稼動すればするほど今後10万年もの長期間に亘って核のゴミが溜まり、処理する方法もなく、置き場所もなく、地上で危険に晒されたまま大金を投資して当てもなく監視していくのだろうか。

 各首長には、経済団体の支援がなければ選挙で当選もおぼつかないと聞く。結局いくらきれいごとを言っても、自らの利己主義から国民を放射能の危険に晒すことに協力しているだけではないのか。

2012年6月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1845.2012年6月1日(金) 楽しみなヨルダン旅行

 明後日からヨルダンとイスラエルへ出かける。「JTBルック」ツアーに参加し、ツアーがヨルダンを離れる当日ツアー一行と別れて、単身アンマンとアブダビに1泊ずつ滞在して2日遅れの11日に成田へ帰る予定である。控えの日程表を妻に渡したら、不安そうにアンマンとアブダビのホテルが決まっていない理由を尋ねるので、それならと愚妻を安心させるために、今日インターネットでアブダビ海岸沿いの「シェラトン・アブダビ・ホテル&リゾート」を予約した。税・サービス料込みで9,399円だった。アンマンについては、45年前に宿泊した「ホテル・アルカサール」を現地で予約したいと考えている。

 しかし、この「ホテル・アルカサール」が昔通り現在も営業しているかどうかが少々気になるところである。あの当時は中東戦争により戒厳令下にあり、街には軍用車や軍人ばかりが目につき、外国人観光客なぞほとんどいなかった。ホテルもこじんまりした古い石造りの建物だった。だが、このホテルはアンマン旧市街の目抜き通りに面して、目の前にローマ時代のコロシアムがあるという絶好のロケーションにあり、しかも空港案内所が薦めてくれたホテルだ。それなりに信用のあるホテルだったのだろう。だが残念ながら、ホテルリストをいくら探しても同じ名前のホテルは見当たらない。あれはいかにも伝統のありそうな3階建ての古いホテルだった。今では市内に欧米系の近代的なホテルが進出する中で地場資本としてはやっていけなくなったのかも知れない。もし建て直しされていたら、多分45年前に私が宿泊した痕跡なんてなくなって、しかめっ面の軍人に尋問された支配人室なども検証することは絶望的だ。

 何とかして当時の身が震えるような鮮烈な臨場感を呼び覚まして、アンマン市内を歩き回ってみたい。アラブ諸国の中でも比較的治安が安定している今日のヨルダンは、あの第三次中東戦争でヨルダン川以西をイスラエルに占領され、不倶戴天の敵とまで言われたお互いがこれほどスムーズな外交関係を築き上げているとは驚きである。しかも、陸路で国境を横断できる現状にはつくづく時代は変わったものだと思う。もちろん油断はできないが、今では軍隊に捕捉されたような、ぴりぴりした危険な治安ではないだろう。不安の中にも大いなる期待と楽しみがある。ちょうどその日、8日は日本対ヨルダン戦のサッカー・ワールドカップのアジア最終予選が日本で行われる。ヨルダンにもきっと友好的なムードが生まれてきている筈だ。現地でも日本に対する関心が高まって、興味本位にサッカー談義に引きずり込まれるかも知れない。

 それに引き換え、北隣のシリアの国内の混迷は益々酷くなるばかりである。アナン前国連事務総長がアサド・シリア大統領に会い、政府軍による人民への暴力的弾圧を止めるよう説得しているが、一向に効き目がない。

 ついに堪忍袋の緒が切れたか、アメリカのクリントン国務長官がロシアに対して名指しで非難口撃をした。シリアに対する武器の輸出を止めるようにとの忠告である。ロシアも中国も内政干渉は控えるべきと主張しているが、所詮中ロが自分たちの都合を代弁する都合の良い弁護こそが残虐行為を野放しにしていると欧米諸国から批判されている。この間に毎日罪もないシリア人の尊い命が失われていく。変わらないのは、世界紛争の火種は今もアラブ諸国のどこかにあるということである。

2012年6月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com