922.2009年11月21日(土) 核密約文書発見! 政府は国民を騙していた。

 やはりと言うべきか、日本政府がひた隠しに隠していた日米外交文書の核疑惑に関する秘密書類が外務省の調査により発見された。岡田外相が今月末をメドに書類の存在確認作業を行うよう外務省に命じていたものである。

 すでに秘密文書があることは、ライシャワー元駐日米大使や吉野文六・元外務省アメリカ局長の証言があったうえに、米公文書などでその存在が明らかになっており、いかに日本政府が否定しようとも核疑惑の関係書類の存在は隠しようもなく、ウソが白日の下に晒されるのは時間の問題と見られていた。そして、実際に密約文書が見つかったのである。これまでの自民党政府関係者は、証拠隠滅、虚偽証言の点でこれにどう抗弁し、どのように責任を取ろうとするのか。

 政府はその他の密約文書とともに来年1月に調査内容を公表することを約束した。鳩山内閣としても従来の「密約は存在しない」とする政府見解の変更を検討するらしいが、しっかり注視したい。

 今回公表した核疑惑は、1960年1月安保条約改定時に締結されたとされる「核兵器搭載の艦船や航空機の寄港、飛来は日米安保条約に定める『事前協議』の対象外とする」という密約に関するものである。これを政府はいくら国会で追及されようとも、断じて認めず国民に対して大ウソをつき通していたのである。これ以外にも日米密約問題は、3つもある。

 ひとつは、朝鮮半島有事の際の米軍の戦闘作戦行動であり、2つ目は72年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みであり、3つ目は沖縄返還時の米軍基地跡地の原状回復補償費の肩代わりに関する密約である。このようにわが国にとって重要で、莫大な経費もかかる案件を、国民の目から逸らし、これまで徹底してその存在を否定し続けた政府の責任は重い。

 来年1月にどういう形でこれまでの経緯を説明するつもりなのか、マス・メディアは徹底してこれまでの政府の対応を究明すべきである。

 それでなければ、最近も官房機密費と称して使い道が公開されていないまま、どこかで使い切っていたように、国家同士の密約を結び、それへ官房機密費をどんどん使われたのでは、日本は秘密国家となり、国民が知らない間に勝手な国家間の取り決めで条約が結ばれ、官房機密費が使われるというケースが堂々まかり通るということになる。これでは「国家は国民のために非ず、ごく一部の政治家のためにある」ということになりはしないか。

2009年11月21日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

921.2009 年11月20日(金) EU初代大統領を選出

 国際赤十字社会長に、日本赤十字社会長近衛忠煇氏が選任された。これは政治的なポジションではないが、国際原子力機構議長就任に次いで、日本人が国際的に注目される職責を担う要職に就いたことは、日本人の存在感と立場に一層光を当てるものだ。

 今日ヨーロッパではEU初代大統領にベルギーのファンロンパイ首相の就任が決まった。この決定の舞台裏では諸々のかけひきがあり、EU27加盟国の間で思惑や利害が絡み合う中で比較的調整能力のある同首相が選ばれたようである。但し、知名度が乏しく交渉能力に黄信号の点く同首相には、米中ソの大国を相手にEUの存在感を示せるかどうかの点で疑問符が付けられている。

 イギリスはブレア前首相を推していたが、イラク戦争に派兵したことが、ヨーロッパ諸国のトラウマとなり独仏から強い反発を買い、またEUの共通通貨であるユーロをイギリス国内で通用させていないことが嫌われ、要職は少数派・ベルギー首相の手へ渡った。

 近年EUの政治的、外交的立場はやや影が薄い。他方で米中2国の存在感が高まっている。これからEUが国際社会にあってどのような存在感を築けるのか。高みの見物であってはならないと思うので、私自身今後もう少し注目してみてみたい。

 1年の終わりが近づいてくると、喪中の挨拶状が送られてくる。ここ数日だけでも、会社関係で割合お付き合いをしていた原田弘造さん、加藤陽一さん、沢崎精一さん、清水金蔵さん、このほかにも友人や知人からご親族のご逝去のお知らせをいただく。ご当人の場合は、つい思い出して悲しい気持ちに捉われる。もう会うことも、話すことも出来ないのだと考えると人生の儚さと哀れさを感じてしまう。   

 最近著名人が何人か亡くなった。その中で俳優の森繁久弥さんと元ニュースキャスターだった田英夫氏の印象が特に強い。今日葬儀が行われた森繁については、学生時代に東京宝塚劇場へ「屋根の上のバイオリン弾き」をアルペンクラブの仲間と観にいって、観客席から主役の森繁の所作に対して「うまい!」の掛け声がかかった時、間髪を入れずに舞台から森繁が「目が高い!」と応じたのには呆気にとられたが、スムーズに客との掛けあいをやるのにはほとほと感心した思い出がある。

 田氏は、TBSのニュースキャスターとして一世を風靡したが、ベトナム戦争中にベトナムを訪れ、アメリカのベトナム介入を強く非難してキャスターを降ろされた。その後参議院選挙でトップ当選を果たして政治家に転身した信念の強い人だった。しかし、村山連立内閣組閣の際には同調せず、社会党を離党して社民連を結党した。海軍特攻隊の生き残り組と言われていたが、頑固で所信を貫く良識派のひとりとして、一目置いている人は多かったと思う。現在の社会党と民主党との連立政権をどう捉え考えていたのだろうか。気持ちを伺ってみたいと思っていた。惜しい人を失ったものである。

2009年11月20日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

920.2009年11月19日(木) 空席が気になる。大相撲は果たして大丈夫か。

 大相撲九州場所が開催されているが、昨日、今日とテレビで観ていて、観客席があまりにも寂しい気がしたのは私だけではあるまい。かつて大相撲と言えば、毎場所15日間満席というのが定番だった。時代は移り、新しいスポーツが親しまれるようになったが、大相撲は堅実な人気を保ち1年を通じて毎場所空席を見ることはほとんどなかった。それが、近年様子が変ってきた。その最大の原因に、外国人力士の増加がある。その中でも横綱朝青龍の我儘三昧の行儀作法とそれを注意出来ない愚かな高砂親方の存在がある。他のスポーツならともかく日本伝統の国技で、外国人がただ強いというだけの理由でわがままを許してしまうというのは、伝統芸を否定するものだ。このわがまま横綱を指導出来ないアホな親方も指導者としての職責を果たしていない。親方が弟子である横綱のわがまま三昧をただ指を銜えて黙って見ているていたらくなのである。

 この顰蹙ものの横綱が勝負のついた後にダメを押すパフォーマンスは、以前から非難されている。昨日もやってしまった。だが、師匠の高砂親方は、勝負の流れの一環と見ている。何のことはない。弟子にお説教も出来ない親方の情けない姿を曝け出しているに過ぎない。

 それにしても閑古鳥の鳴くような観覧席はあまりにも寂しい。ところが、相撲協会からは一向に心配の声が聞かれない。最大の収入源が入場料だとすると、これだけ空席があるということは経営上の危険水域にあると認識しなければいけない。にも拘わらず、まったくノーテンキなのである。それは、資産がたっぷりあるうえに、税金が軽減されているからだ。大体営業活動でがっぽり儲けて、税金の特例を受ける財団法人ということ自体おかしい。しかも経営陣は相撲界OBだけで固めて外部からのチェックを入れず、資産の公開もしない。役員は全員相撲取り上がりで、他の公益団体のように気の利いたインテリがひとりもいないのである。はっきり言って相撲協会は、相変わらず親方日の丸感覚が染み付いている。

 これまでも度々相撲協会の改革が話題になったが、いつも一時しのぎでお茶を濁し、抜本的な組織改革は行われてこなかった。民主党政権となり、現在しきりに事業仕分けを行っている際でもあり、相撲協会の財政的な面での事業仕分けを行い、民営であるならそれなりの指導をして、おねだりを突っぱねた方が良いのではないか。相撲界では当たり前の‘ごっつぁん’体質に振り回されてはいつまで経っても、相撲界の発展はないのではないかと勝手なことを考えてしまう。

 しかし、それにしても観覧席が空いているなぁ。

2009年11月19日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

919.2009年11月18日(水) Mr.MATSUKI MIYAZAKI医師とはどんな人だろう?

 旅行から帰った15日に妻が孫のひとりのために七五三のお祝いをする予定だったが、上の孫と揃ってインフルエンザに罹ってしまいお宮参りもお流れになった。今度の連休に改めてお祝いをと考えて、妻が長男に聞いたところ、今度は嫁がインフルエンザに罹って寝ているという。結局再び延期ということになった。

 新型インフルエンザや風邪が流行っているが、国の対策が後手に回って医師も、学校も困っているようだ。元がしっかりしていないと何も頼ることができない。

 さて、14日の本稿に書いた駐車場からタージ・マハール東門への道路、「Dr.MATSUKI  MIYAZAKI ROAD」と博士の名をインターネットでいくら調べても見つからない。あれほど歩道の目だったところに建てられ、その標識も赤砂岩に枠組みされた石板に彫られた立派なもので、1.5 X 1mぐらいの大きさである。そばを通れば誰でも分かるほど大きい。しかも、博士は生前土地の人びとから尊敬され、慕われていた。それが、このように外国人が大勢通る観光のメイン・ストリートに博士の名を冠せられることになった謂われなのだ。当然こういう名誉は日本で大きく取り上げられていると思い、インターネットで探したがついに発見出来なかった。今でいうハンセン病という一時代前までは、世間から抹殺されたように隔離生活を強いられ、人間としての権利はおろか、人間としての最低限の生活さえ営むことを許されなかった人びとを献身的に救い、地道にインドの人びとのために尽くした医師がいた。インドの人は博士を敬愛し尊敬し高く評価したが、日本ではあまり評価されないという事実があるということである。

 MATSUKI MIYAZAKI博士というのは、一体どんなお医者さんだったのだろうか。興味を持った。それにしても日本では資料がないのかも知れない。インドの厚生省辺りの方がきちんとした資料も情報も得られるかも知れない。だが、どうもこれはおかしいのではないか。

 昨日朝日新聞全国版に友人・山崎洋さんの日本翻訳家協会特別賞受賞が紹介されていたが、今日は、東京南部版に山崎さんが父ブランコ・ド・ブーケリッチ氏の遺品レコードを国分寺の音楽家に寄贈したと紹介されている。以前に父親はレコードを聴くのが好きだったと聞いたことがある。いずれにしろ、かつて一世を風靡したとされるドイツのバリトン歌手ヨーゼフ・シュヴァルツのような希少価値のあるレコードが、確実に保存されることになる。

2009年11月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

918.2009年11月17日(火) 山崎洋さんの翻訳賞受賞が朝日に

 今朝の朝日新聞第2面の「ひと」欄を見てびっくりした。誰あろう、そこに友人・山崎洋が載っているではないか。内容は「古事記」セルビア語訳本の功績により日本翻訳家協会特別賞を受賞したことと、彼の数奇な生涯、家庭事情が書かれている。

 彼はすでに10日にセルビアへ帰っているが、いずれ送られてくるであろうこの新聞記事を見てどう感じるだろうか。この記事を書いた石川幸夫記者は知ってか知らずか、彼の父親について、ゾルゲ事件の首謀者のひとりと書いているが、はたしてそうだろうか。終戦半年前に網走刑務所で獄死された父・ブランコ・ド・ブーケリッチ氏は、首謀者だっただろうか。「ゾルゲ事件」の定説は、一応リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実が首謀者とされている。ブーケリッチ氏は首謀者ではなかったとの説が根強い。だからこそ、死刑の宣告を逃れ、網走送りとなり終戦直前に獄中で亡くなった。生前彼の母上と電話でお話した時、もう少し頑張って生きてくれれば、家族揃って生活することが出来たのにと、ブーケリッチ氏の早い死を嘆いておられた。

 いずれにせよ、彼の「古事記」が、高く評価されたことはこの上なく嬉しいことである。早速メル友に情報を流した。ゼミの須藤晃くんからすぐ返事が来た。昨年1月に3人で夕食を一緒にした時の印象を書き添えてくれた。

 彼のセルビアにおける生活も半世紀近くになる。観光地としては派手に宣伝されるクロアチアに比べて、セルビアは地味な感じがする。実際世界遺産もクロアチアに比べれば、目立つものが少ない。隣国同士でお互いに仲も良くないようだ。いつか彼が言っていた。セルビア№の車でクロアチアへ入ると、嫌がらせを受けることがあると言っていた。まだまだ日本では考えられない人生がこのまま続くだろうが、頑張って欲しい。

 さて、今日の多摩美術大の講座は、メキシコの美術と建築だった。先週はインド旅行中だったので欠席したが、ヨーロッパの芸術ばかりでなく、発展途上国の芸術も学んでいる。メキシコの芸術はシケイロスの絵画が有名だが、加藤嘉・神奈川大学教授がパワーポイントを自在に操りながら数多くの珍しい建造物や絵画について説明してくれた。絵画や建築物の他に、南部コヨアガ地区にあるメキシコ国立自治大学(UNAM)の一風変ったキャンパス全体の建物群は、確かに芸術的である。驚いたのは、この大学キャンパスが世界遺産に認定されているのだ。医学部、図書館、本部建物、陸上競技場などの施設にはすべて特異な絵画や、デコレーションが施されている。それらが一体的に捉えられて世界の大学で唯一の世界遺産として認定されている。今日の講義はユニークで面白かった。

2009年11月17日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

917.2009年11月16日(月) 鳩山外交がぶれている。

 「知の現場」の再校ゲラが回ってきた。昨日の読み合わせに参加出来なかったので、メールで送信されてきた拙稿4名分をチェックした。いくつか気づいた点について秋田プロジェクト・リーダーに送る。とにかく出版までは気を抜けない。

 一昨日韓国・釜山で射撃場の火災があり、多くの日本人観光客が亡くなった。随分雑な店のようだが、韓国ではスプリンクラー設置は法律で決められていなかったようだ。昨年1月に近代的な冷凍倉庫が爆発火災を起こし、40名が即死したが、かつてソウル市内のデパート火災でも多くの買い物客が亡くなったことがある。これから寒くなるので、火災の危険性も高くなる。

 さて、私がインドを旅している間にアメリカのオバマ大統領が日本を訪れていた。僅か22時間の滞在の後、シンガポールで開催中のASEAN10 ヶ国首脳会議出席のため飛び立った。オバマ大統領にはノーベル平和賞受賞が強くアピールしていたので、広島か長崎のどちらでもいいから訪れて欲しかった。もし訪れてくれれば、国際社会に対して強烈な訴求力があったと思う。

 昨日機内で「中国日報」英字判を読んだ時、1面にオバマと温家宝首相が握手している写真を見てうっかり中国を訪問中だと勘違いしたが、あの写真は9月の国連の場で会った時のものだろう。オバマはシンガポールでもあっという間に機上の人となり、今日中国を訪れ若者と対話集会をこなしていた。メディア報道によると若者が自由に発言しているように見えるが、どうもかなり規制が働いたようだ。その対話集会の前にオバマは中国首脳に対して自由な発言を求めたようだから、相当中国の言論統制を気にされ、注文をつけているようだ。

 それにしても日本の外交はどうなったのか。前の自民党政権より腰がふらついている。今日も岡田外相が沖縄を訪れ、普天間基地と嘉手納基地を見学して何とか普天間を嘉手納へ統合させる私案を実現させようとしているが、地元はもちろん閣僚の間でも反対があり、中々ことが進まない。どうも岡田外相は手順が悪いような感じがしている。選挙のマニフェストに、基地を海外か県外へ移転させると実現性の薄い約束をしたことが足かせになり、今やニッチもサッチも行かなくなってしまった。

 鳩山首相も煮え切らない。オバマとの会談で日米合意に沿って話を進めて欲しいと釘を刺されてしまった。結論も年内とか、早い時期とか、来年早めにとか、どうも結論が出るのかどうかも心配である。大体考えが甘い。例えば、県外移設なんてどの県も引き受けるはずがないではないか。海外移転についてはグアムが候補地のようだが、これだって相当の補償金をグアム政府に支払わなければ引き受けることは考えられない。

 案の定今朝の朝日世論調査によれば、内閣支持率は微減程度で納まっているが、外交の評価は低い。評価36%に対して、反対が同じ36%と出た。いくつかの政策の中で一番評価が低い。鳩山外交もいよいよ正念場を迎えたようである。

2009年11月16日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

916.2009年11月15日(日) 近いうちにもう一度インドへ

 眠る間もなく前夜11時にクマールさんが迎えに来られた。フライトは北京経由の中国国際航空で出発時間は3:05である。空港まで約30分なので、やや早い気がするが、インドではチェック・インが3時間前と聞いた。深夜にインディラ・ガンジー空港まで飛ばして、着いてみるとターミナル・ビルの前は車の洪水で車をつけるのも一苦労だった。世話になったガイドのクマールさんとドライバーのシンさんにここで別れて、人ごみを掻き分け、ボディチェックを受けて空港建物内へ入る。

 フライトのチェックインはトランクを預けて簡単に終ったが、待ち時間が3時間もある。いざ搭乗となったら、いつの間にか搭乗ゲートが変更になっていて大いに戸惑う。案内が徹底されていないからだ。4番ゲートのはずが、5番に変っているが、その表示がはっきりしない。しかもここでインドと中国の険悪な関係を知らされることになった。空港内では中国国際航空の表示が一切出ない。4日前に到着した時も、税関で荷物を引き取るターンテーブル番号の表示がなく、空港係員に尋ねて彼がトランシーバーで問い合わせてやっと分かったという按配である。今日も5番ゲートには、普通表示される航空会社略号とフライト№が電光表示板に表示されない。そのうえ、ショルダーバッグに航空会社のタッグが付いていないからと言って、再び荷物検査を強制される有様だった。

 そう言えば、宇都宮から参加した女性のひとりは、日本人に帰化して「伊藤きよみ」さんと仰っていたが、中国人だった。そうとは知らないクマールさんが最初から中国の悪口を言い出したので、止めてほしいと「伊藤」さんが抗議してクマールさんが謝った経緯がある。

 インドと中国は同じBRIC’sではあるが、どうも昔から対立関係は根深く、国民同士もお互いに津の突き合わせていて、ことはそう簡単には解決しそうもないようだ。

 薄い雪景色が見られる北京空港で乗り換え、成田空港へ帰ってきたが、今回の旅は内容的にはあまり期待していなかった割には、どうしてどうして中々良かった。他に成田からHISで同行した人が15人もいたが、ほとんど3人ずつに分かれて同じ観光地を見学していた。彼らの言い分を聞いてもこういうように小さなグループに分かれて見学出来たのは、期待もしていなかったが、良かったとかなり高く評価していた。私も格安旅行だから、大きな期待もしていなかったが、ホテルのグレードアップもあって、更に何よりもインド自体の魅力があって、旅行としてはほぼ満足出来るものを見せてもらったと思う。

 堀田善衛は生前もう2度とインドには行かないと書いている。それは、嫌いと言うのではなく、あまりにも深く考えさせられる国だからこそだそうだ。私は確かに深く考えさせられたが、だからこそ逆にもう1度近いうちに訪れてもっとインドという国を知ってみたい。それも必ずベナレス(バラナシ)を訪れてみたいと強く感じた。得た物は実に大きいインドの旅だった。

2009年11月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

915.2009年11月14日(土) 素晴らしい! 感動的なタージ・マハール

 タージ・マハールは予想していた以上に素晴らしい世界遺産だった。16世紀半ばに22年の歳月を費やして建設されたイスラム建築の極地である。年間400万人もの観光客が訪れる。生きている限り出来るだけ機会を捉えて訪れてみたいところだ。

 スペイン・グラナダにあるアルハンブラ(アランブラ)宮殿は、このタージ・マハールをモデルにしたと言われているが、比較にならないくらいこのタージ・マハールの方が立派であり、上品でもあり、訪れた人の心を打つ。ここを訪れて説明を聞き、庭園内を散策するだけで、その素晴らしい価値が伝わってくる。建物の中には、ムムターズ・マハール妃の棺が祀られていて、隣には22年の歳月を費やしてこれを建設したムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの棺が安置されている。暗い内部は写真撮影が禁止されているにも関わらず、フラッシュを焚く馬鹿な外人観光客がいる。撮影禁止だと言ってやると、「そうですか」と言ってまた撮っている。モラルの欠如は東西を問わない世の中になった。

 建物の背後を流れるヤムナー川の左後方には、ジャハーン帝が息子アウラングゼーブ6代皇帝によって幽閉され晩年を寂しく暮らしたアグラ城が見えるはずだが、靄か、スモッグがかかってまったく見えない。

 この後訪れたアグラ城の建物も素晴らしかった。ジャハーン帝が幽閉された部屋の斜め前方にはタージ・マハールが見えるはずだが、今日は霞んで見えなかった。

 ところで、日本でほとんど知られていないが、タージ・マハール東門への道は、「Dr.MATSUKI MIYAZAKI ROAD」と呼ばれている。インドのらい病患者のための施設を造り、終生インドの貧しい人びとのために尽くして、土地の住民から感謝されていた日本人である。なぜこういう気高い人が日本では紹介されないのだろうか。

 その後もう1ヶ所、世界遺産のファテプール・シクリを見学したが、前二者に比べてそれほど感激しなかった。

 アグラからニューデリーへは、230㎞ほどで、再び怖いドライブが始まった。バス、トラック、オートバイ、自転車、馬車、人力車など多種な種類の乗り物が、レーンに関係なく走りまわり、車線変更は当たり前で、時々大きなトラックまで逆走してくる交通法規無視が、渋滞と危険に追い込んで無法地帯と化してしまう。すぐ解決法といっても考えつかないが、せめて走行車線と追い越し車線の区分をしっかり守れば、もう少し安心してドライブを楽しめるのではないか。

 夜9時になって最初に宿泊したパークホテルへ戻って来たが、途中農家に立ち寄らせてもらい、家の中を見せてもらった。こういう時のためにいつもチョコレートを準備しているが、これが沢山の子どもにえらく喜ばれた。

 やや疲れてひと風呂浴び、眠い中でこのブログを書くのも少々きつい。まもなくクマールさんが迎えにやって来る。インド最後の晩は疲れのうちに時が経つ。それにしてもタージ・マハールは感動的だった。訪れることが出来て本当に良かった。

2009年11月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

914.2009年11月13日(金) ジャイプールの観光は盛り沢山

 夜は寒いので冷房を切って、ベッドに入ったが夜中にあまりの寒さに目が覚め、ジャンパーとズボンを着て再び眠りに就いた。今日は朝から霧雨状態で外は寒そうで少々気が重い。8時30分の出発に合わせてクマールさんがピックアップに来られた。宿泊したラマダ・ホテル玄関で立派なあごひげをくわえたドアーマンの顔にはびっくり。聞いてみるとギネスブックで、世界一長いあごひげの人物と紹介されたと言い、あごひげの新聞も見せてくれた。ホテルも中々感じが良くて、流石高級ホテルらしい雰囲気である。

 このジャイプールには世界遺産はないものと理解していたが、最初に訪れたアンベール城が世界遺産だとクマールさんは言う。確かに後背の山の稜線上に「万里の長城」を配して、丘の上に赤い色彩の塀は、光景としても充分価値があるし、内部のいくつかの建物と歴史は世界遺産に登録されてしかるべきである。城へのアプローチが、象に乗るというもので、これは人気があって乗り場へ行ったら小雨の中を延々長蛇の列だった。象にはバンコックでも乗ったことはあるが、狭いグランドを一周するような子供騙しではなく時間的にも15分ぐらい掛けて、坂道をゆっくり揺られながらアンベール城内までサルタンの王侯気分を味わう。聞けば、この象に乗ることが観光客の人気を集め、象の酷使につながるとして、今では朝8時から11時までしか利用できず、1頭の象は1日5往復しか出来ないように取り決められ、象のストレス解消に努めているという。まあ、いろいろあるなと思う。

 その後、「街の宮殿」を見学して、写真では何度も見たことのあるピンク色の「風の宮殿」前で写真を撮って、アグラまで210㎞を飛ばしに飛ばす。とにかくドライバーは運転技術が上手いが、載っている者としてはちょっと怖い。夕方近くなってアグラ市内へ入ってきたが、入口で車とオートバイと自転車、それに歩行者が信号のない交差点で動きがとれない状態になった。われわれの車は10㎝ごとに動くような有様で、地元民のラッシュ時間にも重なったのかも知れないが、市内中心部に入るまで続き、その混雑ぶりは、よほどの対策を打たないと最早手に負えないのではないかと感じたくらいである。

 明日は今回の旅行で最も楽しみにしているタージ・マハールを見学することになっているが、クマールさんからの提案により、新しくできた劇場でタージ・マハール完成の史実を芝居で上演しているという耳寄りな話に乗ることにした。オプショナル・ツアーである。

 6時半開演の3分前に何とか劇場に到着して、ヘッドフォーンで日本語による台詞と説明を聞きながら、オペラ的ミュージカルを観劇することになった。完成して間もない立派な劇場で、仕掛けも良くストーリーも明日のタージ・マハール見学の露払い的役割でグッドタイミングだった。1時間半のミュージカルだったが、充分楽しむことができた。

 今夜宿泊予定は‘JAYPEE PALACE HOTEL’という5つ星ホテルで、確かに素晴らしいファシリティのホテルだ。2人の女性客の滞在ホテルへ先に寄ったが、数段格が違うという感じだった。彼女らのホテルはダウンタウンの喧騒な場所にあり、小さなホテルだった。やはり落ち着いて滞在するには、グレードアップして良かったと感じた。今日もかなり見所の多い行程だった。明日は最終日になるが、タージ・マハールはもちろんであるが、アグラ城も楽しみにしている。

2009年11月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

913.2009年11月12日(木) 世界遺産を2箇所見学

 7時半にウェイクアップ・コールで起こされた。やはり短い時間だったが、一気に眠ってしまった。まだ若干疲労感はあるが、朝食を摂って9時の出発を待つ。ほどなくクマールさんが出迎えに来られた。昨日別のホテルに泊まった2名の女性もすでに同乗していた。彼女らは宇都宮から参加したと言っていた。ひとりは日本へ帰化したが、中国人だった。道理で機内でスチュワーデスと流暢な中国語を話していると感じていた。

 40歳で独身のクマールさんには拙著を2冊差し上げ喜んでもらったが、果たして読めるかなぁと笑っていた。名門デリー大学で日本語を専攻したと言っていたので、相当達者な日本語を話す。酒もタバコもやらないと言っていたが、宇都宮からの元中国人が日本名だったので、分からず当初は中国人批判を繰り返していた。嫌いなのは中国人と政治家だと言い、政治家に対しても税金泥棒と厳しい。話しすぎるくらい熱心にガイドを務めてくれる。

 インドは今世界が注目するBRICsの一国であるが、人口が多いだけに国力をひとつの方向に向かわせれば大きな力を発揮するだろうが、貧富の差が激しく、民族・宗教等の対立、などが相変わらず解決されていない。

 さて、最初に世界遺産クトウブ・ミナールはデリー郊外にある。高さが72mもあり、奴隷王朝のスルタンがヒンドゥ教徒に対する勝利を記念した建てたものだそうだ。外に出た時、可愛らしい小学生のグループと一緒に写真を撮って愉快なひとときもあった。

 2つ目の世界遺産はフマユーン廟でムガール帝国2代目の皇帝のために妃が立てたものと言われている。1階の内部にお棺が安置されている。これらの観光地を取り巻く環境は、緑が多く、いたる所地下鉄工事などで道路を掘り起こしているが、その自然がせめてもの慰めである。インド門は遠くから眺めて昼食後、ジャイプールへ向かった。

 ジャイプールまで約250㎞で、一般道から高速道路へ入ったが、所々混んでいて結局7時間ほどかかってしまった。車のスピードも速く、少々怖いくらいである。道路走行のルールが大分乱れていて、接触寸前ということもあったし、途中で事故も見た。運転手もマナーがあまり良くなく、側線とは言え、逆走してくる車もかなりあった。外灯がないので、日が暮れてからカーブの走行などは減速しないので危険だと感じた。珍しく道路際を2人ずれの男が歩いていたが、ひとりは素っ裸、つまりストリーキングだった。こんなところでストリーキングを見るなんて思いも寄らなかった。

 特に、気づいたのは市内で若いカップルが手に手を取って、歩いている光景をまったく見なかったことである。宗教のせいだろうか、クマールさんも自信も持ってあまりいませんと言っていた。もうひとつは、州境で通行税を払うということだった。

 まだ表面的な印象だが今日の様子では、36年前にボンベイで受けた印象とは大分異なる。

2009年11月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com