267.2008年2月5日(火) 冬山遭難の他愛ない原因

 一昨日から冬山で遭難騒ぎが連続している。もう7人全員が遭難だろうと悲観的に見られていた広島のケースは、今日になって全員無事だったことが確認された。まずは、ほっとしたところだが、全員が厳しい冬山の気象を舐めていたことは明らかで、相当きついお灸をすえる必要がありそうだ。だが、2日間雪山を食料なし、装備不十分、避難箇所なしで彷徨えば、まず遭難するだろうと考えるのが普通である。幸い彼らが助かったのは、山中にある廃屋に避難したおかげだった。しかし、マス・メディアはそんな決定的なアイテムを見逃していた。調べれば分かりそうなものを、廃屋の存在すら知らなかったのか報道していなかった。マス・メディアの調査力もこんな程度でお粗末に過ぎる。

 ところが、この遭難騒ぎより程度の低い事故があった。愛知大学生の体育実習で二人の女子学生が雪崩により栂池スキー場で遭難死したことである。大学当局もあまり深刻に捉えている様子が見えないが、非常任講師の引率者が禁止された地域へ、禁止を承知のうえで無謀にも入って行ったというのだから呆れた。地元の人たちもこの「掟破り」には一部では憤慨し、とても理解できないようだ。これが大学の授業の一環だというのだから、いまの大学というのは何を教えているのだろうか。授業以前にルールとか法の精神を教えた方がよい。学生のレベルも相当落ちているが、教授や講師陣の思考停止ぶりも似たり寄ったりだ。

 この愛知大学というのは、冬山遭難に関しては前科がある。私が学生時代の昭和38年1月、北アルプス・薬師岳で同大山岳部パーティ13名が集団遭難して世間を騒がせたことがある。頂上付近の太郎小屋に避難しているのではないかと、生存に一縷の望みを賭けていたが、捜索隊が辿り着いた時、小屋には誰もいなかった。朝日新聞社・藤木高嶺カメラマンが「太郎小屋には誰もいなかった」というノンフィクション小説を出版した。当時も大騒ぎだったが、いままた半世紀ぶりに大学の悪しき体質を露呈した。同じ過ちを繰り返すというのは、自分たちの行為を反省していないことと、ルールを犯しても他人の目にさえ触れなければかまわないと考える体質が学内に巣食っているからである。こういう体質を「救いようがない」という。

 この愛知大学というのは、戦前上海にあった東亜同文書院の流れと伝統を継承する大学で、中国関係ではなかなか良い資料を保管している点で一目置かれていた名門校だった。さぞや先駆者や大先輩はがっかりしていることだろう。 

 それにしても今冬、性懲りもなく同じような無反省な事故が他の大学でも起きなければ良いが・・・。

2008年2月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

266.2008年2月4日(月) 地球温暖化は雲のせい?

 月刊「選択」2月号の巻頭インタビューで、地球変動や惑星科学の分野で業績を挙げ60歳前であるが、紫綬褒章も受章されている、東京工業大学教授・丸山茂徳博士が「二酸化炭素温暖化主犯説に物申す」と突然これまでの世の通説や常識を覆すような反論を展開している。いまになって基本的に二酸化炭素と温暖化は切り離して考えるべきだというのが博士の言い分だ。

 この百年間は温暖化傾向にあったが、これは0.5℃に過ぎず、歴史上異常とは言えないという。1940年から80年に気温は下降しており二酸化炭素主犯説は間違っていると言う。数字の根拠は部外者には分からないが、博士はこうも言っている。「大気の気温を決める最大の要因は雲にあり、雲が1%多ければ気温は1℃下がる」。つまり雲の量を調整できればよいと考えている。あとは専門的な言葉の羅列になり、素人には理解出来ない。

 しかし、こんな大発想を突然しゃべられても困る。二酸化炭素の排出による地球温暖化はすでに国際的にも定着したテーマであり、科学的にも証明されていたのではなかったか。気がかりなのは、こんな大事な学説をいとも簡単に個人的に主張されて、それが正当であるかのごとく丸山説が一人歩きをしてしまわないかということだ。それでも丸山説が正しいならまだ良い。だが、それにしても学者の中で議論を発展させたうえで、大方の意見がそうだと納得したのなら受け入れることは出来るが、「選択」誌編集長のインタビューに応える形で、これまで耳にしたこともない異論を発表されることは、これまでの地球温暖化説に異を唱えるもので、ただ世間を混乱させるだけではないだろうか。丸山教授はその辺りをどうお考えになっておられるのだろうか。

 われわれは、これまで地球温暖化は二酸化炭素の排出量が増えたせいだと思い込まされてきた。それが、突如一雑誌のインタビューに応える形て従来の定説に反する持論を発表することは、一般人を当惑させるだけであり、今後の地球環境行政にも多大な影響を及ぼすものと思う。

 まずは、学会内で意見を一本化したうえで、改めて世間に正しい説を発表していただきたいものである。

2008年2月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

265.2008年2月3日(日) 千の風になって

 天気予報通り今朝からしんしんと雪が降っている。昼ごろには雨になるとの予報だったが、ついに降りやまず一日中降り続いていた。都内の積雪は3㎝だという。一昨年にこんな大量の積雪があったかなあと思うが、とにかく最近では珍しい。幸い日曜日というせいもあり、外を歩く人もあまり見かけないし、車もあまり通らない。我が家の庭に降り積もった雪景色も中々風情がある。やはり、日本庭園の引き立て役は松ノ木と灯篭、そして築地だろうか。

 さて、毎日曜朝に放映されるテレビ朝日の「題名のない音楽会」を機会があれば結構楽しんで見ている。昨年司会者だった羽田健太郎氏が亡くなってから、臨時にいろいろな著名人が司会進行役を務めている。この番組は中々良い企画で内容自体も素晴らしいが、毎回司会者が代わっていて、視聴者常連としてはどうも気持ちが落ち着かず安定感がないような気がする。それが漸く4月から指揮者の佐渡裕氏が正司会者を務めることに決まりほっとしている。やはりこういうムード番組は、ある面で視聴者が聞きやすい番組構成と演出にはめることが大切で、それに視聴者が合わせて楽しむというスタイルを作り上げ、踏襲した方がよいように思う。佐渡裕も時折派出なパフォーマンスをやるので、今度はレギュラーとしてどういうショーを見せてくれるか、4月から楽しみにしている。

 今日の企画は「千の風になって」バージョンで、ミリオンセラーとなった「千の風になって」を、日本語作詞並びに作曲、そして最初の吹込みをやった作家・新井満、この曲を歌い一躍ブレークしたクラシック歌手・秋川雅史、ギタリストでギター曲に編曲した渡辺香津美、そして作曲家で千住式編曲をした臨時司会者・千住明がそれぞれ持ち味を出して名曲を披露した。

 作詞作曲された新井満氏が言っていたが、死とか墓とか、とかくタブーとされる言葉を取り入れて歌っているので、イメージが暗くなりがちであるが、この曲にはいろんな歌い方があっていい、秋川の歌は、日本晴れの歌だと言っていた。なるほどと思っていると、確かに秋川の歌はテノール歌手らしく声量たっぷりに高音で歌っている。新井本人はと言うと、一番と二番を朗読して、それからじっくり落ち着いて歌っていた。3年前のペンクラブ総会だったと記憶しているが、その前座で新井氏がこの曲を披露され、歌ったときあまりにも上手なので驚いたことがある。それがこの名曲を生で聴いた最初である。その場でCDを購入し署名してもらったとき、新井氏に上手ですねと言ったら笑っておられた。中々聞かせる。個人的には、秋川より新井氏の方が歌い方としては曲に合っているし、上手なような気がする。

 あまり知られていない話だが、その時の新井満氏の説明によると、新潟の親しかった友人が奥さんを亡くされて、友人と子どもを励ますために作った曲だと言っておられた。歌には、ひとつひとつ歴史とか秘話があるものである。

2008年2月3日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

264.2008年2月2日(土) 小田実を追想する。

 いま小田実さんについてエッセイを書いている。小田さんには、著書「何でも見てやろう」の通読以来、考え方、行動、文章表現等々の面で大きな影響を受けた。特に、ついぞ参加しなかったが、べ平連を結成し、中心的存在となった活動で周囲をぐんぐん引っ張っていく、あの情熱と行動力には脱帽だった。あれだけ、利他的なパフォーマンスをやれるということは、能力もさりながら精神的、宗教的に一途なものがないと難しいのではないかとさえ考えてしまう。敬服するのは、自らの行動が利己的な目的のために実行するのではなく、社会のため、一般市民のためという広い度量から生まれている純粋さである。それにしても実に惜しい人を失ったものである。

 先日玄順恵夫人からDVDを送っていただいたが、その1時間もののDVDを見ても、誠実な人柄が滲み出ている。若かったころ、そしてベトナム反戦運動をやっておられたころは、当時の政治家ともかなりやりあっていたが、近年表面的には、かつてのように政治的な運動面で目立つような活動はしていなかった。多分政治家と話し合っても時間の無駄以外の何物でもないということをしっかり悟ったのであろう。

 小田さんの文はいくつも読んだが、やはり「何でも見てやろう」が一番面白い。その中で、こういう文言がある。

 「ギリシャで、いやヨーロッパで、私がもっとも感動したものと言えば、私はためらわずにアテネのアクロポリスの丘をあげるだろう。私にとって、それがギリシャであり、またヨーロッパの、もっと大きく言えば『西洋』というものの、すくなくとも一つの根源であった・・・」

 この言葉に魅了され、私にとってもアクロポリスは憧れの地となった。初めてアクロポリスの丘を仰ぎ見た時は、小田さんに負けず劣らず感動した。その印象をエッセイにも書いた。以来、私はベトナム反戦運動ではいつも「ベ平連」の後ろを追うような活動だったが、その中心には常に小田さんがいた。

 いま憲法が改正されようという流れの中で小田さんのように、身を賭して「九条の会」を立ち上げ活動するような人はもう出てこないのではないか。惜しみても余りある、小田さんの死である。

2008年2月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

263.2008年2月1日(金) 公務員にボーナス支給はおかしい。

 また、中国食品の不衛生ぶりが炙り出された。ここ数日、中国企業が生産した餃子を主とする冷凍食品を、日本のスーパーで購入した消費者が食中毒になったというニュースでマス・メディアの話題は持ちきりである。中国製食品の安全管理、衛生管理の杜撰さについては、いまに始まったことではない。中国では品質管理が好い加減過ぎる。ただ、これだけ大きな事件になった過程で、日本の行政が手を拱いていたケースもあった。最初の食中毒が役所に報告されてから、発覚するまでに時間がかかり過ぎている点は、いわゆるお役所仕事の典型である。その他にも何枚かのFAXを送信したら、肝心なペーパーだけ送られていなかったなどというチョンボも公になった。これでもお役人は決められた給料をもらう権利があるのかと問いたい。間違った仕事をして広く国民に迷惑をかけた。

 この一事をもってしても、公務員に対する給与はもっと厳格に審査して、支払う必要のないものはカットすべきだと思う。以下に日ごろ思っている公務員の待遇に関する自論(持論)を書いてみた。

 給料とは違うボーナスは公務員に必要だろうか。どうも納得出来ない。ボーナスは公務員制度のありようから考えると馴染まないし、国民感情から考えても理解し難い。公務員が成績実績報酬であるボーナスを受け取るということは、公僕としての立場と職責を考えればどう考えてもおかしい。とても国民からは理解を得られないと思う。これまで慣例でボーナスが容認されてきただけに過ぎない。本来民間企業で事業が繁栄し、予想収益を上回る利益を上げた場合に、経営者側が労働者に対して、その労働の成果に報いて、利益の一部を臨時給与として労働者に還元するのが本来の目的である。予定の収益が得られなかったり、赤字の場合当然企業は従業員にボーナスを支給しない。それを考えると決められた業務を実行し、お役目を果たして住民サービスが充分に行き届いたからといって、それは当然の行為であり、民間企業が汗水たらして働いて目標額を上回る利益を生んだこと以上に評価されるものだろうか。決められた業務を行うことによって役所へ臨時収入があるわけではなし、営利目的の民間会社とは存在目的と意味が異なる役所が、ボーナスを公務員に支払うことは役所存在の精神と主旨に反していると思う。それが今まで役人にボーナスを支給することが当然のような理解のされ方は、少し歪んではいやしないか。それに最近のお役所仕事を見てみると、好待遇を受けている割に、責任を果たしていない。失敗して費用がかかると税金で補う。役人には羞恥心がないから、悪事を冒しても開き直る。話にならない。ボーナスがないと給与が減るという主張に対しては、年収額で民間企業の年収と比較調整して、それなりに見合う水準に修正して、月額給与以外支払わないということにすればよい。さらに役人の待遇はボーナスだけに限らず、民間に比べて断然良い。もろもろの付帯給与、好条件、退職後に得る各種の厚遇、すべて民間企業に比べて遥かに恵まれている。こういう国民からむしりとる福利は、断固取り上げるべきである。

 一番納得のいかない点は、役人が取り得、もらい得の卑しい考えが骨の髄まで浸み込んでいることだ。もらい損なうと文句を言い、働かない。だから、収賄事件を引き起こすのではないか。いずれにしても、友人の間でも役人に対する不満が溢れている。どうして、マス・メディアは給与を筆頭に、公務員の恵まれた待遇を追及の槍玉に挙げないのか不思議である。

2008年2月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

262.2008年1月31日(木) コンテナ・ターミナル見学

 「JAPAN NOW観光情報協会」による東京コンテナ・ターミナルの見学会が行われた。一般人が簡単に入れる場所でないので、出来れば一度見学してみたいと思っていた。

 品川駅港南口からバスで20分程度の大井埠頭にある日本郵船東京コンテナ・ターミナルで、ビデオ観賞による概略を知ったうえで、ビル屋上から目前に広がる日本郵船専用のコンテナ専用船のヤードを見下ろしながら、担当者の説明を受けた。丁度ヨーロッパ航路のアクエリエス号が入港するところで、しばらく見ていたが、ガントリー・クレーンは活躍すれど、ほとんど人影が見えない。

 作業の大部分は徹底してコンピューター化されている。船舶自体は完全にIT化され、極端にマンパワーが省力化されている。

 早速白沢事務局長よりJN情報紙に見学記を書くよう厳命されたが、500字以内というのはとても無理だ。もう少し字数を増やすよう頼んだら、700字以内という。これとて無理な話。まあ、とにかく書いてみた。これでも800字になった。以下は推敲前の初稿である。

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 コンテナ・ターミナルなんて、刑事ものか、ヤクザもののテレビ場面でしか見たことがない。しかし、今や海外との物流取引の一大拠点となったコンテナ・ターミナルをぜひ見てみたいものだと思っていた矢先、1月31日午後JN協会による見学会が実施され、松尾理事長以下27名の会員が参加した。

 JR品川駅から貸切バスに乗って約20分で、日本郵船・東京コンテナ・ターミナルビルへ到着。会議室で20分間のビデオ観賞によって事前研修をすませる。日本コンテナ・ターミナル社の文谷嘉宏課長の案内で4階レベルの屋上へ出て説明を受けた。その後質疑があった。目の前に広がるコンテナ船専用コンテナ・ヤード(総面積275,400㎡)と二つのバース(停泊場所)を見下ろすと、かなりの数のコンテナが整然と置かれている。丁度ヨーロッパ航路7万トン級のコンテナ船アクエリエス号が7号バースに接岸する瞬間だった。

 波止場で立ち働く港湾労働者の姿は見えず、本船荷役とヤード・オペレーションはすべてターミナル内のTOPSシステムによりオペレートされている。船上のコンテナは現場労働者の手を煩わすことなく、コンピューター制御によりトラックまで運ばれる。極力マンパワーを排除している。聞けば、入港したあの巨大な船舶にも僅か20名程度の船員しか乗船せず、3交代制で徹底した省力化により人手はほとんど要しないそうだ。

 かつては、埠頭も国が管理して入港順に各バースに接岸していたようだが、今では船会社別に固有のバースを管理しながら、自社船舶の荷役業務を行っている。

 見学後の質疑応答を通して推測されたことだが、海運会社にとっては長い冬の時代を潜り抜け、近年は中国貿易の拡大発展に伴い飛躍的に物流量が増え、コンテナ・ターミナルの需要も増大している。その地道な仕事場に光を当てる、有意義な見学会だった。

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261.2008年1月30日(水) ふざけた話3つ

 その第1は、ハンドボールの北京オリンピック決定戦の対韓国戦再選である。昨日女子チームが34-21で敗れ、今日男子チームも28-25で破れ、5月の最終戦で五輪出場最後のチャンスを賭けることになった。大騒ぎで再選が実現したが、そのあおりを食ってサッカーの国際試合、対ボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦にはマス・メディアの目が注がれなかった。

 そもそも今回のハンドボールの紛糾原因は、中東の笛と称される中東チームに贔屓するレフェリーの八百長によって、日本と韓国が試合をメチャクチャにされ、国際ハンドボール協会に提訴して再戦決定を得たものだ。しかし、アジア連盟の役員がほとんど中東諸国出身者で占められ、思うように意見が通らない。ここに問題の病根がある。なぜ各国が平等の権限を持てる連盟に出来なかったのか。いままで抱いていた不満や不信をそのまま放置していたから、今回のような茶番劇になる。とばっちりを食らうのは、プレイする選手たちである。日本の協会役員ももっと毅然とした態度をとるべきである。

 第2は、相変わらず国会の猿芝居である。今日ミエミエの「つなぎ法案」を委員会で可決して、国会で決議するかと思ったら、あっという間に与野党が衆参両議長斡旋案を呑み、自民党提出のはずの「つなぎ法案」を取り下げるという。えらく時間をとり、国会の審議をストップさせ、法案を可決して取り下げるという滅多に見られない芸当を演じることによって、また先行きが不透明になった。いつまでこんな政局がらみの田舎芝居をやっているのか。政治家は口では、国民のためと言いながら、自分たちだけのためにしか動かない。

 昨年9月に安倍首相が、辞表を提出した際政治が空転し、副首相が代行者としていれば政治が動いたことを自覚していながら、いまも副首相を置いていないのが良い例だ。「喉元過ぎれば暑さを忘れる」の類で一向に反省が反省になっていない。こういう馬鹿な政治家たちは、もう必要ない。一気に半減させれば、真面目に仕事をするようになり財政削減にも効果がある。政治家の数が多すぎるのが、政治が停滞する原因だ。政治家の数を減らそう。

 第三に、また中国からの輸入食品で食中毒者が出た。複数個所で複数の家族が災難に遭った。中国がすべていけないということではないが、あまりにも国家として甘い。国が甘いから、関係者の反応も感覚も鈍い。惚けたり、見当違いの言い訳をしている。日本政府が中国政府にきちんと食の安全管理について、注文をつけるべきである。

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260.2008年1月29日(火) ふるさとテレビ・セミナーと椎名誠関連記事

 ふるさとテレビの顧問を対象に、第1回セミナーが開催されると連絡をもらった時は偶々チベット旅行中だったが、すぐにチベットからメールで連絡し出席するつもりだった。ゲストスピーカーは軽妙なトークで人気の塩川正十郎元財務相である。実は塩川氏は挨拶されなかったが、昨夕の構想日本にも出席されていた。かつて文部大臣を務めておられたころ、大臣室でお会いしたことがある。

 塩川氏の話を楽しみにしていたが、今朝起きたら喉が痛く食べ物を呑み込むと違和感があるので、事務局へキャンセルの連絡をしてかかりつけの森医院で診てもらった。大したことはないとのことで3日分の薬をもらって、血圧も診てもらった。血圧は大分安定してきたが、ここ数日外出し酒が入っただけで、簡単に風邪らしいものにとりつかれるとはいささか情ない。

 昨日から作家・椎名誠へのインタビュー記事「人生の贈りもの」が朝日夕刊に連載されている。ところどころに思い当たることがあって興味深い。椎名家は私たちと同じころ千葉・幕張へ引っ越してきて、兄の研二くんが同じクラスに編入した。とはいっても研二くんの方が若干早かったので、彼の方が席順は前だった。野球好きで何となく家庭環境が似ているせいもあり親しくなった。

 3年前のペンクラブ総会で誠さんと幕張について懐かしい話になり、共通の話題に笑ったものだ。あの当時度々椎名くんの家に遊びに行ったが、確かに彼の家にチビがいた。考えてみるとそのチビか椎名誠だったことになる。6歳年下である。誠さんも随分有名人になって、いまや売れっ子作家になった。研二くんは、26日のクラス会にも来なかった。以前はよく出席したのにどういうわけか最近はほとんど顔を見せない。60年前は私立ブームのはしりで、家庭的に余裕があれば誰も彼もが幕張小学校を卒業すると地元の幕張中学校(遠くて電車でなければ通学出来なかった)を敬遠して、私立中へ進学するのが流行りだった。クラスから市川学園へ進学したのが自分を含めて4人いた。研二くんは、どういうわけか千葉の先の四街道にある聖書農学園中学へ進学した。その後中央大学へ進み、今ではアパートを持って割合気楽な生活を送っているようだ。弟があれだけ世界中を旅行して冒険作家として名を売っているのに、兄は飛行機がまるきしダメだと言って遠方へは旅行しないと面白いことを言っていた。みんな懐かしい連中だが、もうあまり会うこともないのが寂しい。「人生の贈りもの」の続きを楽しみにしている。

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259.2008年1月28日(月) 高島市長と話す。スハルト元大統領死去

 「構想日本」の懇親会が帝国ホテル系のグランドアーク半蔵門であり、予定より早めに出かけた。「構想日本」は、1997年に現代表の加藤秀樹慶大教授を中心に設立され、各界へ積極的に意見を発信して政界、地方自治体に少しずつ影響力を強めている。ニュートラルな立場から問題点に切り込んでいくので、好意的な意見が多かったり、事業仕分け等で効果の表れた分野では評価される半面、反対派の人からは抵抗も多いのではないかと思う。加藤代表には新年の挨拶をした。代表は細い身体にも関わらず、日ごろからかなりエネルギッシュに活動されておられるので、そのパワーには敬服する。存じ上げなかったが、昨年から財団法人・東京財団会長もされておられるという。日本財団の下部組織である。

 着席スタイルでブッフェ形式の会場だったが、右隣は沖縄4区選出の西銘恒三郎自民党代議士、左隣は48歳の若い海東英和・滋賀県高島市長だった。琵琶湖畔の高島市は「構想日本」の事業仕分けに熱心に取り組んでおり、大分成果も出ているようだ。東海道沿線ではないので、一般にはあまり馴染みのある都市ではないが、合併当初は歳入50億円、歳出300億円で完全に再建団体間違いなしだったが、歳出削減に努め、近年ようやく光が見えてきたとの話だった。江戸時代の陽明学者・中江藤樹の出身地で、今年は生誕400年を迎え、記念行事が開催されるという。小学5年の学芸会で幼少期の中江藤樹に母親からの手紙を届ける飛脚役を演じたことがあり、その話で盛り上がった。前滋賀県知事の国松氏とは遺骨収集で出かけるときに度々お会いしたが、市長も国松氏にはお世話になったと話していた。市長とは、少々時間はかかるが高島市の紹介PR図を作成すると約束した。その他にも大勢の方々とお話出来て、中々実りのある懇親会だった。

 さて、インドネシアのスハルト元大統領が亡くなった。86歳である。もちろん実際にお会いしたことはないが、印象に残る世界的な政治家のひとりである。

 初めてインドネシアを訪れた1966年、スハルト氏はインドネシア国軍の最高位にあった。しかし、その前年9月国軍による当時のスカルノ政権に対するクーデターを計画したのは、別人ウントン中佐だった。一時は流れがウントン氏へ傾きかけたが、軍を掌握していたスハルト氏が巻き返しスカルノを傀儡大統領の座へ追いやり、68年3月自ら大統領の実権を握った。私自身インドネシアで随分危ない経験もしたこともあり、その後インドネシア政界の動きから目を逸らさず注視していた。ついに戦後一貫して長期政権を維持していたスカルノ大統領は、まもなく失脚した。汚職と不正蓄財の代名詞だった「建国の父」スカルノ大統領の晩年は惨めなものだった。清廉潔白を謳い汚職の追放を旗印にスカルノ大統領を追放した軍人スハルト氏が、いままた同じような道を辿った。共産党員を含め相当数の虐殺の罪でも、世界中から糾弾されていた。ついにスハルト氏の罪が裁かれることはなかった。発展途上国にありがちな典型的な権力者交代の構図である。

 初めての海外旅行でまだ若かった当時、スカルノ贔屓のマスコミ報道に乗せられ、一時スカルノ大統領をインドネシア独立の功労者として尊敬すらしていたが、現地でその評判と実態を見聞すると、大違いであることを悟らされ、少なからずショックを受けたことがある。あれが、現地で「YK」=空気が読めないとダメ、つまり臨場感が分からないと実態も分からないと悟ったきっかけとなった。その意味では、スカルノとインドネシアは臨場感の大切さを教えてくれた反面教師と言えるのかもしれない。

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258.2008年1月27日(日) 小田実の最期の姿と葬儀を収めたDVD

 昨日は、幕張小学校の新年クラス会、今日は小田急山岳部OB会新年会で飲酒の機会が続いている。もっとも以前は、ほとんど毎日飲んでいたことを考えると、最近は飲む機会も、飲む量もぐっと減った。因みに昨年1年間で飲酒した日数は59日だったから、6日に1回飲んでいた計算になる。この程度なら年齢的に考えてもそれほど多いということはない。実際かかっている森内科医も、松本整形外科医も飲酒量をこれだけ減らしたことに、感心していただいているほどだ。そのお陰で検査のたびに数値はよくなっている。まああまり気を抜かず、この週一ペースを崩さずにやっていければと思う。

 昨日、丁重な書面に添えて1枚のDVDが配達されてきた。小田実さんの玄順恵夫人から郵送されてきたもので、書簡では小田さんのことを「人生の同行者」といい、小田さんが大切にしてきたものは、古代ギリシャ文学と思想、哲学だったと書いてあった。DVDは小田さんの葬儀を記録したものだった。葬儀の一部始終とワシントンにあるベトナム戦争戦死者記念碑が建立された際に、小田さんが訪れた時の回想シーンや、胃癌で聖路加病院へ入院していた時の映像をコンパクトに1時間分をまとめたもので、葬儀の最後の感動的なシーンも入っていた。小田さんを乗せた車が葬儀所を出る時、期せずして参列者から湧き上がった拍手である。また、最後の力を振り絞るようにベッドから、日本は「自由」「民主主義」「平和憲法」の三つを結んだ唯一の国であると強い口調で話し、当時の安倍首相の進める憲法改正の動きを強く警戒していた。実に小田さんらしい最期であったと思う。市販のDVDではないので、小田実さんの良い思い出になり、私にとってもお宝になる。

2008年1月27日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com