「構想日本」の懇親会が帝国ホテル系のグランドアーク半蔵門であり、予定より早めに出かけた。「構想日本」は、1997年に現代表の加藤秀樹慶大教授を中心に設立され、各界へ積極的に意見を発信して政界、地方自治体に少しずつ影響力を強めている。ニュートラルな立場から問題点に切り込んでいくので、好意的な意見が多かったり、事業仕分け等で効果の表れた分野では評価される半面、反対派の人からは抵抗も多いのではないかと思う。加藤代表には新年の挨拶をした。代表は細い身体にも関わらず、日ごろからかなりエネルギッシュに活動されておられるので、そのパワーには敬服する。存じ上げなかったが、昨年から財団法人・東京財団会長もされておられるという。日本財団の下部組織である。
着席スタイルでブッフェ形式の会場だったが、右隣は沖縄4区選出の西銘恒三郎自民党代議士、左隣は48歳の若い海東英和・滋賀県高島市長だった。琵琶湖畔の高島市は「構想日本」の事業仕分けに熱心に取り組んでおり、大分成果も出ているようだ。東海道沿線ではないので、一般にはあまり馴染みのある都市ではないが、合併当初は歳入50億円、歳出300億円で完全に再建団体間違いなしだったが、歳出削減に努め、近年ようやく光が見えてきたとの話だった。江戸時代の陽明学者・中江藤樹の出身地で、今年は生誕400年を迎え、記念行事が開催されるという。小学5年の学芸会で幼少期の中江藤樹に母親からの手紙を届ける飛脚役を演じたことがあり、その話で盛り上がった。前滋賀県知事の国松氏とは遺骨収集で出かけるときに度々お会いしたが、市長も国松氏にはお世話になったと話していた。市長とは、少々時間はかかるが高島市の紹介PR図を作成すると約束した。その他にも大勢の方々とお話出来て、中々実りのある懇親会だった。
さて、インドネシアのスハルト元大統領が亡くなった。86歳である。もちろん実際にお会いしたことはないが、印象に残る世界的な政治家のひとりである。
初めてインドネシアを訪れた1966年、スハルト氏はインドネシア国軍の最高位にあった。しかし、その前年9月国軍による当時のスカルノ政権に対するクーデターを計画したのは、別人ウントン中佐だった。一時は流れがウントン氏へ傾きかけたが、軍を掌握していたスハルト氏が巻き返しスカルノを傀儡大統領の座へ追いやり、68年3月自ら大統領の実権を握った。私自身インドネシアで随分危ない経験もしたこともあり、その後インドネシア政界の動きから目を逸らさず注視していた。ついに戦後一貫して長期政権を維持していたスカルノ大統領は、まもなく失脚した。汚職と不正蓄財の代名詞だった「建国の父」スカルノ大統領の晩年は惨めなものだった。清廉潔白を謳い汚職の追放を旗印にスカルノ大統領を追放した軍人スハルト氏が、いままた同じような道を辿った。共産党員を含め相当数の虐殺の罪でも、世界中から糾弾されていた。ついにスハルト氏の罪が裁かれることはなかった。発展途上国にありがちな典型的な権力者交代の構図である。
初めての海外旅行でまだ若かった当時、スカルノ贔屓のマスコミ報道に乗せられ、一時スカルノ大統領をインドネシア独立の功労者として尊敬すらしていたが、現地でその評判と実態を見聞すると、大違いであることを悟らされ、少なからずショックを受けたことがある。あれが、現地で「YK」=空気が読めないとダメ、つまり臨場感が分からないと実態も分からないと悟ったきっかけとなった。その意味では、スカルノとインドネシアは臨場感の大切さを教えてくれた反面教師と言えるのかもしれない。