今から半世紀前の1975年の今日、10年以上に亘って南北ベトナムが争っていたベトナム戦争が、北ベトナム軍戦車部隊の南ベトナムの首都サイゴンへの進軍により陥落し戦争は終結した。多少なりとも実戦の怖さを知っている者として、やれやれやっと和平が訪れたのかと待望していた終戦という安堵感に心から良かったと感動したものである。ベトナム戦争については、当初欧米ではパレスチナほど関心を抱かれてはいなかった。しかし、それまでの戦争とは少し概念が異なるベトナム戦争の実態については、あまり関心が向いていなかったようだったが、終戦により東西対立時代の米ソをはじめ、世界的に広く関心を持たれるようになった。
私は1960年「60年安保闘争」に当時の全学連清水丈夫書記長に誘われ、反対闘争に参加して都内デモ行進にも加わり、新聞にも写真が載るようになった。それが、後々就職運動の際マイナスとなったが、当時は熱中していた。しかし、安保は学生、労働者らの希望通りにはならず、日本は終戦直後とまったく同じ米軍による被占領国と変わらない状態のままだった。安保闘争で希望成らず、当時並行的に進められていたベトナム反戦運動に参加するようになった。それには小田急町田駅で駅員として改札口に立っていて、何人かのアメリカ軍のベトナム帰休兵と知り合い、彼らから戦争は怖い、戦場にはもう戻りたくないと彼らの本心を聞き、同時に戦場に行ってみろと言われたことから、実際に戦場へ行ってみようと思ったのである。
昭和20年太平洋戦争終戦の年に疎開先で国民学校(現小学校)に入学したが、ほとんど連日のように空襲があり、その都度近くのミカン山に掘られた横穴式の防空壕に逃げ込んで、「空襲警報解除!」の知らせを待ち望んでいたものである。学校の近くで米戦闘機編隊に襲われかかったこともある。その心臓に良くない恐怖感は、今以て忘れられない。
ベトナム帰休兵のベトナムの戦地へ足を踏み入れてみよとの声に誘われるように、1967年1月南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を訪れた。激しい戦時下だった。空港では観光客の姿を見ることはなく、軍服を着た米兵からは怖い目つきで睨まれる感じだった。空港でホテルを紹介してもらい、シャトルバスで市内のホテルに到着したが、カウンターで手渡されたのが部屋のキーの他に、マッチとロウソクだった。その理由を尋ねると、夜中に停電が多いので枕元に置いて必要の時に使うようにとのアドバイスだった。事実停電は頻繁に起きたし、郊外から大きな爆音が何度も聞こえた。翌日市内で米兵に銃を向けられるなど生身に危機感を感じる体験をいくつも味わった。ベトナムを去って間もなく外国人の入国は認められないほど双方の攻防は激しく、1年後にはテト攻勢が起きた。その戦場体験からつくづく知ったことは、戦場の怖い体験を実際に味わわないと戦争の怖さ、危険というものを本当に知ったことにはならないということだった。
現在の国会議員にはすべて戦争体験がない。二階俊博元自民党幹事長が最高齢であるが、その二階氏ですら、私より若い。太平洋戦争の実体験がなく、況してや海外の戦争に触れたことがない政治家が、無節操に再軍備とか、憲法改正、敵基地攻撃能力などと言う言葉を安易に口走るのは、戦没者やその遺族の気持ちをまったく考えていないからである。
ベトナム戦争終結50周年記念に当たり、改めて想ったことはいっぱいある。