充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
ブログ一覧
6036.2023年11月22日(水) 理不尽な明治神宮外苑再開発計画
東京都内や国内、のみならず海外からも再検討するよう求められている明治神宮外苑地区の再開発計画に対して、昨日ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の日本支部は、事業者や東京都に対して強い抗議を行った。イコモスは文化遺産が危機に陥っているとして事業者に計画撤回を求め、更に東京都に対して環境アセスメントの再審査を求め、先月10日までに回答するよう求めていたが、なしの礫だったことに、改めて強く回答を求めたものである。
事業者と東京都はこれまで反対や、異見に対して誠実に対応して来なかった。イコモスの要求に対しても誠実で常識的な対応をしていない。イコモスは当計画に対してこれまで10件以上の提言をしてきたが、事業者側はほとんど取り合って来なかった。卑しくも国連の一つの権威ある機関がルールに則って質問したことに対して、無視するかの如く知らんぷりをするのはあまりにも尊大ではないかと思考する。
イコモスは、環境アセスメントの審議に際しても、事業者のまとめた報告書の内容を問題視して、関連の東京都の審議会に出席し問題点を説明することを求めたが、東京都は拒否した。
この傲慢な事業者側の言動に対して10月に国会内で開かれた再開発に反対する国会議員や都議の会合に出席した、亀井静香・元自民党政調会長は、「外苑は国民の寄進により出来た。明治神宮の一存で再開発することは許されない」と述べたうえで、神宮には明治天皇が祀られている。そこを見下ろすような超高層ビルなどが建設される開発などは行うべきではないとも話した。
亀井氏の言うこともよく分かる。外苑は大正時代に明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を偲び、神社のある内苑とともに造営された。内苑は国の事業費によって賄われたのに対して、外苑は主に国民からの寄付や勤労奉仕によって造営された。それらの点を考慮すれば、地主である明治神宮の希望であるとか、造営に国民の声を無視するような言動は、とても受け入れられるものではない。
3月に亡くなったミュージシャンの坂本龍一氏は、亡くなる直前までこの計画の見直しを訴えていた。この他にも特に細野晴臣氏ら音楽家の中には、反対意見を述べている人が大勢いる。8月には、周辺住民らが再開発計画の手続きが違法であるとして、東京都に工事認可の取り消しを求め東京地裁に提訴している。
そもそもその再開発計画には、建築家らも環境破壊をもたらすと指摘している。三井不動産など三井グループが推進する再開発プロジェクトでは、老朽化した神宮球場などを解体して建て替え、近くに商業施設が入る高層ビル2棟を建設する計画である。しかし、神宮球場を秩父宮ラグビー場と土地を交代させるようだが、そこまでやる必要があるのだろうか。ラグビー場がリニューアルされたのは、昭和51年でそれほど古くはない。建て替えるまでもない。神宮球場だって第二球場を使用しながら交互に再建すれば、済むことではないか。また、高層ビルを神宮近くに建設するのは、お金目当てとしか思えない。無駄な投資をして、明治天皇の権威を蔑ろにし、緑の景観を台無しにするような計画に、小池都知事が賛意を示したことが理解出来ない。所詮東京都民ではなかった、学歴や成績詐称で顰蹙を買ったこともある、上から目線の知事のやることには、愛想が尽きる。
神宮外苑の再開発計画には、一都民としてその計画自体と都知事を始めとする関係者の対応がどうしても納得出来ない。
さて、60年前の今日アメリカのケネディ大統領が銃弾に撃たれ、亡くなった。当時見習い駅員として働いていたが、そのニュースはあまりにも衝撃的だった。早いものであれからもう60年も経った。正に「光陰流水のごとし」である。
6035.2023年11月21日(火) 大学運動部勢力図の変容と功罪
政治の世界と同じようにウィンタースポーツの華・ラグビー界でも栄枯盛衰が激しい。今年9月にフランスで開催されたラグビー・ワールドカップでは、残念ながら日本代表チームは、今一つ力及ばず、2大会連続での決勝トーナメント進出は成らなかった。それでも一昨日行われた2024年パリ・オリンピック出場を賭けた7人制ラグビー・アジア予選決勝で日本代表チームは男女ともに勝ち五輪出場を決めた。今はラグビー・シーズンたけなわで、明後23日には大学ラグビー伝統の早慶戦が行われる。その伝統ある大学も近年社会人チームには歯が立たなくなった。
そして大学ラグビー界の勢力地図の変わりようにも興味をそそられる。以前は伝統校である早慶明が圧倒していた大学ラグビー界も、新興の大学が外国人留学生を迎え入れるなどの強化策を講じて、今では勢力地図も大分変って来た。大学勢では、近年帝京大が断トツの力を示すようになり、これまで59回の大学選手権の内、15回優勝の早大に次ぎ、明大が11回であるが、成長著しい帝京大は最近15年の間に9連覇を成し遂げ、優勝回数も明大と同じ11回を誇っている。
実は、関西ラグビー界でも異変が起きている。関西の雄だった同志社大の凋落ぶりが甚だしい。かつては平尾、大八木ら往年のスター選手を輩出して3連覇を含む4度の優勝を勝ち取った同大が、今年は関西大学リーグで初めて最下位に落ちたのには、昔日の感がある。近日2部リーグ優勝校と屈辱の入れ替え戦に臨む。
「栄枯盛衰は世の習い」とは言え、あまりの変容に些か驚いている。
それにしても強かった同志社大に対して母校慶応が10-6で敗れた1977年の大学選手権決勝戦は、今以て忘れられない。後半慶応が中央を抜けゴールポスト直下にトライして逆転と思った直後に、慶応にスローフォワードがあったと判定され、トライの認定は成らず、試合はそのまま同大の勝利に終わったことである。あれが果たしてスローフォワードだったか、どうかについては、今のようにビデオで確認することは出来なかったが、ラグビーファンの間では、今も疑問として残っている。
その同志社大がアメフト部で不祥事があった。昨年5月、部員4人が女性に対して犯した性的暴行事件に、今日京都地裁で厳しい判決が言い渡された。4人に揃って3年6か月の懲役という過酷な実刑判決である。被告人弁護団は、社会で立ち直る機会を与えられるべきとして執行猶予を求めたが、あまりにも悪質と断定され実刑を課せられた。今話題となっている日大アメフト部員の大麻事件を始めとして、どうしてこうも大学運動部内の不祥事が多いのだろう。1大学だけに任せず、多くの大学が共同し一体となって不祥事を防止する抜本的な対策を講じなければ、いつまで経っても同じような事件が起きる。
大学、及び運動部の責任者は余程ふんどしを締めてかからないと、大学運動部は悪の温床になりかねない。
6034.2023年11月20日(月) 自民支持率低迷と学会・公明党間の溝
一昨日ブログに取り上げた池田大作・創価学会名誉会長の死去について岸田首相が哀悼の意を表明した。いずれ盛大に「偲ぶ会」を行うことだろう。公明党の支柱である池田氏が亡くなられたことにより、公明党は苦難の旅を続けることになろう。創価学会は最盛期に比べて会員数も827万世帯に減り集票力が落ち、衰退期に入った感がある。公明党はこれからの舵取りが難しくなるだろう。実際昨日の朝日朝刊には池田氏が公明党結党時に掲げた「平和」の金看板は、変質していると指摘している。かつて安倍政権時代に憲法解釈の変更をめぐって自公が協議を進めていた過程で、創価学会と公明党の間に解釈に齟齬が生まれた。学会が改憲手続きを経るべきだとの主張に対して、公明党は今では敵基地能力の保有を容認もしている。学会自体もやや平和の解釈が少々ずれつつあるが、党とは大きく溝が生まれている。精神的な支柱であった池田名誉会長の死によって、益々両者の溝が深まることになるのではないだろうか。
公明党の集票力が低下したのと並行して、自民党政権、とりわけ岸田内閣に対する支持率が、雪崩のように滑り落ちている。昨日発表されたNNNと読売新聞が行った世論調査によると、岸田内閣支持率は、過去最低の24%、不支持率は62%という体たらくである。これほどまで支持率が落ちるとは想像外である。比較的政府寄りのコメントが目立つ読売の支持率がこれでは、平素から自民党及び岸田内閣に対して批判的な見方の朝日や毎日は、もっと厳しいのではないかと考えていたが、調べてみると朝日の支持率は意外にも低いとは言え、読売より1%多い25%、不支持率は65%だった。しかし、毎日の岸田内閣支持率は何と21%で、不支持率は74%である。今や岸田内閣も末期的と言えるのではないだろうか。
岸田首相の余命がそれほど残されていないことを察知したのか、自民党内で見苦しい派閥争いや、露骨な首相批判をする幹部もいる。とりわけ先月参議院議員総会で「首相は内閣支持率が低迷している要因として、国民が期待するリーダーの姿を示せていない。現状において岸田総理の決断と言葉にはいくばくかの弱さを感じざるを得ない」と世耕弘成・参議院幹事長が岸田首相の政治姿勢を酷評した。だが、その後党内であまりにも露骨な詰問に対して、行き過ぎだとか、不快感を感じるなどと批判の声が挙がり、世耕氏は岸田首相に直接謝罪したという。世耕氏は狡い政治家らしく、苦言ではなく助言だとして、首相をしっかり支えていくつもりで質問した。
一方、創価学会と公明党は、いつまでもお互いに意見の相違を抱えているのか。池田名誉会長の死を機会に初志の「平和」についての解釈をまとめるべきであろう。さもないと一般会員の集票力が低下しつつある中で、学会、党ともに会員の信頼を失い、落ち目のまま下り坂を転がり落ちるばかりである。
さて、嬉しい話題として、今日行われた第54回明治神宮野球大会、大学の部決勝戦で母校・慶應義塾大学が青山学院大学を2-0で破り、4年ぶり5度目の優勝を飾った。先日の東京六大学秋季リーグ戦に続いての栄冠である。更に言えば、今夏甲子園の全国高校野球選手権で107年ぶりに優勝した弟分の慶應義塾高校とともに、今年度の大学、高校野球大会で大学、高校とも揃って慶應が日本一の座を掴んだ。メデタシ!メデタシ! 陸の王者 KEIO!
6033.2023年11月19日(日) 忘れられない大記録達成のプロ野球観戦
子どものころは野球が大好きだった。空き地で草野球もよくやっていたが、好きな巨人軍の試合を観戦するため、終戦直後から後楽園球場へもよく出かけたものである。初めてプロ野球を観戦したのは、終戦の翌年、小学校2年生当時疎開先の房州勝山町(現鋸南町)から父に連れられ、房総西線(現内房線)に乗って両国で乗り換え水道橋駅近くの後楽園へ行った時だった。それからは毎年兄弟だけで安房勝山駅から水道橋まで野球観戦に出かけた。それくらい見るのもプレーするのも野球が好きだった。
今から74年前の昭和24(1949)年の今日は、勝山小学校から幕張小学校5年に転入した2か月後だった。野球好きの仲間数人と後楽園に巨人戦を観戦に行った。友だちの中には前著「八十冒険爺の言いたい放題」の帯文に、推薦文を書いてもらった椎名誠氏の実兄・研二くんもいた。外野スタンドで背番号16のスター・プレイヤー川上選手や、青田選手らに声援を送っていたところ、場内アナウンスで他球場の試合結果を伝えた、その直後に突然どよめきが起きた。そのわけは、遥か遠い甲子園で行われた東急フライヤーズ対太陽ロビンス戦で、東急の大下弘選手が7打席7安打の大記録を打ち立てたと放送されたのだ。その時は、それが大騒ぎされる理由がよく分からず、きっとすごい記録なんだろうぐらいの軽い受け止め方だったが、それが何と今日に至るまで1試合の個人最多安打記録としてプロ野球界に燦然と残る偉大な記録となった。偶々その翌日は、鎌倉へ遠足の日で、大仏の前で撮った集合写真を今も大事に持っている。この2日間に体験したことは今も忘れてはいない。翌シーズンからプロ野球界は、セとパの2つのリーグに分かれ、今日まで引き継がれている。
そして、更にプロ野球界の珍しい記録をその場の臨場感で感じたのは、1957年7月7日七夕の日の同じ後楽園だった。この日は大洋ホエールズ対巨人戦が行われた。受験勉強だけに集中しなければならない浪人生が、予備校・研数学館の授業を終えてから帰宅せずに、その足で近くの後楽園球場へ寄り道して、それまで入ったこともない大洋側ベンチ裏で観戦した。この時ここで何が起きたのか。これも今日まで残っているプロ野球記録のひとつとである。
それは負の大記録と言えるかも知れない。大洋のエースだった権藤正利投手が、55年7月6日対広島カープ戦で敗れて以来、3シーズンに亘り28連敗を重ね、私が観戦したその日7月7日に巨人を相手に3年ぶりに完封勝ちを収め、エースも連敗記録を漸く脱出することが出来たのである。ゲームセットと同時に、私の目の前で権藤投手がチームの選手たちから祝福と歓喜の胴上げをされ、それを敗れた巨人軍の選手たちも祝福して見ていたほどだった。
権藤投手は、53年にプロ野球洋松ロビンスに入団するや、新人で15勝12敗の好成績を上げ、一躍エースにのし上がった。弱小球団に所属しながら、翌年も2桁勝利を上げたが、55年7月以降勝ち星に恵まれず、負け続けて28連敗を重ねた。私はこの日に権藤投手が登板するなどとは思ってもいず、巨人戦を受験勉強の合間に息抜きとして観戦しようぐらいの軽い気持ちだったが、思いがけずプロ野球の歴史に残る試合を目の前で見る幸運に浴したのである。近年プロ野球を観戦することはなくなったが、終戦直後から父に連れられて後楽園を訪れてから、毎年必ず観戦に訪れていた。その中で上記の2試合は、甲子園での高校野球観戦、及び大学在学中に体験した早慶6連戦とともに、私には強く印象に残っている。
6032.2023年11月18日(土) 池田大作・創価学会名誉会長死去
4週間に1度の間隔で糖尿病クリニックに通っている。一昨日東京医療センターで変形性手指関節症のその後の診察の際に受けた血液採取の結果、糖尿病の基準数値HbA1cが大分良くなったと言われたが、今日糖尿病の専門医からも、その数値を評価され、現在服用中のジャヌビア錠25㎎を半減するということで、今後12.5㎎の錠剤を服用することになった。その効用はどう表れるか分からないが、歩一歩と回復に向かっていることは間違いないので、楽しみにしている。
さて、創価学会の池田大作名誉会長が15日に亡くなっていた。享年95歳だった。創価学会という宗教団体なんてまったく知らなかったが、池田氏が60年安保闘争の激しくなった1960年に第3代会長に就任してから、創価学会の活動が大きく報道されるようになり、一応関心が集まるようになった。64年には現在の公明党を創設し、創価学会は政治活動にも積極的に関与するようになった。その後創価学会員の熱心な選挙運動により、学会員が国政にまで進出するようになり、65年には初めて11名が参議院議員に当選し、公明党が初めて国政の場に登場した。67年には衆議院にも進出し、23人を当選させた。このころより国会の内外において影響力を発揮し始め、翌々年の69年の衆議院選では、47議席を獲得して、衆議院第3党となった。その後若干の増減はあったものの、83年には結党以来最大の59議席を得るまでになった。そして93年の細川連立内閣では、公明党から6人が入閣するようになった。その後分裂、中小政治党派と合併を繰り返していたが、99年に自民党、自由党、公明党により「自自公」連立内閣が成立し、爾来形は変われども自民党との連立内閣は今日まで続いている。この公明党の基盤を強化させた人物こそ、池田大作その人であった。創価学会を国際的な創価学会インターナショナル(SGI)にまで育て上げ、海外普及にも力を入れ、世界の要人とも会談して独自の民間外交を展開した。
79年に一応会長職を退き、名誉会長に就任したが、実権を握り続けていた。今創価学会では「永遠の師匠」と呼ばれ、政治的には公明党を創設した絶大な権力を握っていた名誉会長が、この世から去ったことは、創価学会にとってはもちろん、公明党にとっても大きな痛手であり、厳しい試練を迎えることになったと考えても好い。
実際党勢拡大を図っていた政治的には、まだ初期の時代には、一般的に生活向上とか、平和憲法順守のようなリベラルなスローガンを掲げて会員を増やしていたような記憶がある。ところが、今では自公連立内閣の一翼を担うようになったことで、保守的で右翼的な自民党に同調し平和憲法改正や自衛隊増強、防衛費増額など公明党創設時のスローガンと矛盾するような動きを示すようになった。これでは初期の学会員の純真な気持ちを裏切る行動ではないかと不審感を覚える。
現在の党執行部が池田名誉会長とその辺りの整合性について、話し合ったのかどうかは不明であるが、池田氏の初志から考えると納得されたとは思えない。偉大な創設者亡き後、今後公明党はどのような路線を進むのか、明確にすべきではないだろうか。