ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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6563.2025年5月2日(金) メキシコ・アカプルコにある支倉常長像

 世界の国々と同様に日本の政治、経済も、今トランプ政権の関税問題に振り回されている感じで、昨日再び訪米した赤澤経済再生相が日本時間の今朝アメリカの財務長官と話し合いを持ったところである。

 しかし、国内に与える社会的な影響が大きいのはお隣の韓国で、昨日韓国大法院(最高裁)によって降された判決で大きな話題になっている。その韓国の最高裁判決とは、次期大統領選の最有力候補者である「共に民主党」の李在明前代表に対して公職選挙法違反の二審無罪判決を破棄し、高裁に差し戻した件である。大統領選は、来る6月3日に行われるが、現状で李在明氏が立候補出来るかどうか、微妙な判断となった。世論調査によれば李在明氏への支持は38%を獲得し、現与党の「国民の力」の韓東勲前代表の8%と金文洙前雇用労働相の6%を完全に圧倒している。李在明氏が大きくリードして李氏のほぼ独走状態だった。この他にも「国民の力」の韓悳洙前首相が出馬を検討しており、当分の間韓国の政界は穏やかならぬ政争が熱を帯びることだろう。大統領選まで残り1か月となったが、これから先の争いに注視したいと思っている。

 さて、あるところから依頼されて、他愛もないテーマであるが、今「銅像」について書いている。いろいろ調べてみると「人間の像」も興味深い。我々の小学生時代には、ほとんどの学校に本を読みながら、背に薪を背負って歩いている勤勉な二宮金次郎像が建てられていた。私が通った2つの小学校にも校門を入った正面と、教職員室の前にそれぞれ金次郎の立像があった。それが、最近どこの小学校の校庭にも見られない。金次郎の実像は、戦後の民主主義教育の方針に合わないという背景があるらしい。「子どもが働く姿は勧められない」とか、「歩きながら本を読むのは危険」というように戦前の軍国教育では、むしろ推奨された教育の一環であるが、今日でもケースによっては十分受け入れることは考えられると思う。しかし、現代では歩きスマホに似た行為は認められないというのは当然であるが、こうして小学校唱歌に唄われた♪~親を助け、弟を世話し、兄弟仲良く孝行をつくす、手本は二宮金次郎♪が、唄われなくなり、その像も消えていく運命となったのには、若干寂しさを感じる。

 仏教国日本では古来大きな大仏像などが多くの国民から崇められ、奈良や鎌倉の大仏座像が広く知られているが、近年になって大仏への視点が変わり、大きな大仏像が建設される事情には、宗教的に仏様に祈り教えを乞うような精神的なことよりも、外形的に大仏の大きさを競うような傾向が現れ、座像より立像が各地に建造されるようになった。世界的に見てもベスト10に入る大きな像の中には、120mの牛久大仏や、100mの仙台大観音の立像がある。ただ、これらは観光客を引き寄せる目的があるように思えて奈良や鎌倉大仏のように崇められる存在とは大分かけ離れているような気がする。

 日本人の石像で、私自身一番驚いたのは、メキシコのアカプルコ市の海岸に海を背に建てられた支倉常長の立像を目にした時だった。確かに支倉常長は、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団で太平洋を横断し、その最初の上陸地がアカプルコだった。

 その支倉常長像は、1973年に、常長生誕400年の翌年に仙台市がアカプルコ市に寄贈したものだったが、その後市内大通りに移転された。しかし、風化して、日系人がこれを心配して現地で運動して2010年再び海岸のPLAZA JAPON(日本広場)に、海を背に建てられた。

 初めて見た時は、海岸砂浜のPLAZA JAPONに建っていたが、こんなところに地味な支倉常長の立像があることに感動したことも事実である。出来るならば、今一度想いを噛みしめながら支倉常長像を訪れて見たいものである。

2025年5月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

6562.2025年5月1日(木) 実兄がプロ入りした投手と対決した神宮大会

 今日はメーデーらしからぬメーデーで連休も真っただ中にあり、各地から悲喜こもごものニュースが伝えられてくる。観光の名所・古都京都には多くの外国人観光客が訪れている。その京都の中心街とも言える五条通り高倉の交差点で、昨日未明に水道管から大量の水が道路上に溢れ出し、道路が冠水し、地下に水が流れ込み地下駐車場の車が水浸しになる有様だった。夕方には周辺地域で水道は使用出来るようになった。京都市の言い分は、1959年に水道管敷設以来、交換の目安である60年を過ぎたので、今年中には撤去する予定だったとこじつけるような後追いの説明をしている。

 今年1月下旬には、埼玉県八潮市内で道路陥没事故によりトラックが転落して、今日まで運転士の行方が分からない。今日初めて消防員が下水道に入り運転士を探したが、それらしい姿が見えたと言い、明日から本格的に探索するようだ。ここでは事故周辺ばかりでなく、この機会に広く上下水道菅工事を行う計画のようだが、完成までに5~7年を要するというから今まで耐用年数を超えて使用してきた他の下水道工事も見直す必要がある。長年に亘って使用した上下水道管は、全国で延約75万㎞もあり、そう簡単に工事を終えられるわけではないが、計画性を持った総合的な対策を立てる必要があると思う。 

 さて、懐かしい野球の話題に切り替えてみよう。昨日プロ野球巨人軍の山崎伊織投手がシーズン開幕以来連続35イニングを無得点に抑えて、過去のセ・リーグ記録を更新した。過去の記録としては1963年の阪神・中井悦雄投手と昨年同じ阪神・村上頌樹投手の連続31イニングが残っていた。中井投手は、阪神では同じ関大先輩の村山実投手と並んで二枚看板として活躍した。これも何かの縁としか言いようがないが、実は、中井投手が61年秋に神宮球場で行われた全国大学野球選手権に関西地区代表・関西大学のエースとして出場した1回戦の相手チームが、私より1歳年長の兄が出場した東北地区代表・東北大学だった。

 今では国立大学の東北大が地区代表として全国大会に出場するなんてとても考えられないが、当時は地区に現在の東北福祉大学のような強豪大もなく、2年連続で出場することが出来た。兄は二塁手で九番打者だったが、期待に応えられず、その剛腕中井投手に対して3打席すべて内野ゴロに打ち取られた。試合も確か3-0で東北大が敗れたように記憶している。兄は子どものころから足こそ早かったが、高校で硬式野球部に所属していたわけではなく、中学時代まで私らとともに草野球をやっていた素人上がりだった。それでも全国的にはレベルの低い国立大野球部の選手としては、それなりに活躍していたようで、地元の新聞には試合中の兄のプレイが写真入りで取り上げられたこともある。図らずも兄と間接的につながりのある往年の剛球投手・阪神の中井投手と接点があったとは奇縁であろうか、名誉なことでもある。実は、幸運なニュースについ心が時めいたのも、その兄が最近あまり優れない健康状態があったからである。

 兄は残念ながら2年ほど前から認知症の入り口にたどり着き、幸い息子や、娘が近くに住んでいて常時見守ってくれているが、すでに妻を7年前に喪い、日常生活でも中々目が離せない状態である。この自慢できる話は彼らも知らない筈なので知らせてやれば、疲労気味の息子と娘の気休めにもなると思うので、少しは2人の慰めになるかも知れないと思っている。 

2025年5月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

6561.2025年4月30日(金) ベトナム戦争終結50周年に想う。

 今から半世紀前の1975年の今日、10年以上に亘って南北ベトナムが争っていたベトナム戦争が、北ベトナム軍戦車部隊が南ベトナムの首都サイゴンへ進軍し、サイゴンが陥落して戦争は終結した。多少なりとも実戦の怖さを知っている者として、やれやれやっと和平が訪れたのかと待望していた終戦に心から良かったと感動したものである。ベトナム戦争については、当初欧米ではパレスチナ紛争ほど関心を抱かれてはいなかった。ベトナム戦争は、それまでの戦争とは少し趣が異なる戦争だったが、終戦により国際的に広く関心を持たれるようになった。

 私は「60年安保闘争」には、高校ラグビー部の1年先輩である当時の全学連清水丈夫書記長に誘われ参加したが、反対闘争に参加して都内デモ行進中の写真が新聞に掲載されるようになった。それが、後々就職運動の際マイナスとなったが、当時はそれほど熱中していた。しかし、安保は我々学生や、労働者らの希望通りにはならず、日本は終戦直後とまったく同じ米軍による被占領国家と変わらない状態のままだった。安保闘争で希望は成し得ず、当時並行的に進められていたベトナム反戦運動に参加するようになった。それには小田急町田駅で新人駅員として改札口に立っていて、何人かのアメリカ軍のベトナム帰休兵と知り合い、彼らから戦争は怖い、戦場にはもう戻りたくないと彼らの本心を聞き、同時に彼らから戦場に行ってみろと言われたことから、実際に戦場へ行ってみようと思ったのである。

 昭和20年太平洋戦争終戦の年に疎開先で国民学校(現小学校)に入学したが、ほとんど連日のように空襲があり、その都度近くのミカン山に掘られた横穴式の防空壕に逃げ込んで、「空襲警報解除!」の知らせを待ち望んでいたものである。学校の近くで米戦闘機編隊に襲われかかったこともある。その心臓に良くない恐怖感は、今以て忘れられない。

 ベトナム帰休兵のベトナムの戦地へ足を踏み入れてみよとの声に誘われるように、1967年1月南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を訪れた。激しい戦時下だった。空港では観光客の姿を見ることはなく、軍服を着た米兵からは怖い目つきで睨まれる感じだった。空港でホテルを紹介してもらい、シャトルバスで市内のホテルに到着したが、カウンターで手渡されたのが部屋のキーの他に、マッチとロウソクだった。その理由を尋ねると、夜中に停電が多いので枕元に置いて必要の時に使うようにとのアドバイスだった。事実停電は頻繁に起きたし、郊外から大きな爆音が何度も聞こえた。これこそが戦時下の状態なのだと知った。翌日市内で米兵に銃を向けられるなど生身に危機感を感じる体験をいくつも味わった。ベトナムを去って間もなく外国人の入国は認められないほど双方の攻防は激しく、1年後にはテト攻勢が起きた。その戦場体験からつくづく知ったことは、戦場の怖い体験を実際に味わわないと戦争の怖さ、危険というものを本当に知ったことにはならないということだった。

 現在の国会議員にはすべて戦争体験がない。中でも二階俊博元自民党幹事長が最高齢であるが、その二階氏ですら、私より若い。太平洋戦争の実体験がなく、況してや海外の戦争に触れたことがない政治家が、無節操に再軍備とか、憲法改正、敵基地攻撃能力などと言う言葉を安易に口走るのは、戦没者やその遺族の気持ちをまったく考えていないからである。

 ベトナム戦争終結50周年記念に当たり、改めて想ったことはいっぱいある。

2025年4月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

6560.2025年4月29日(火) 「昭和の日」、ベトナム戦争終結半世紀を前に

 今日は祭日、「昭和の日」である。今年、令和7年は、昭和100年でもある。昭和64(1989)年1月8日、昭和天皇が崩御され、和暦は昭和から平成に変わった。その年から昭和天皇の「天皇誕生日」が、「昭和の日」となった。世界的に見てもその年は、11月に東西冷戦の象徴とされていた「ベルリンの壁」が破壊され、その後一方のリーダー国だったソビエト連邦が崩壊し、グルジア、ウズベキスタン、モルドバ、ウクライナ等ソ連邦の連邦国が次々とソ連から離れ独立した。世界の勢力図は大きく変わった。

 2019年には、平成天皇が生前譲位されて上皇になられ、皇太子殿下浩宮様が天皇に即位なされ、和暦は平成から令和となって今年は令和7年である。日本では、幸いにもこのところそれほど大きな社会的事件などはないが、外国では戦争や、内戦、地震、戦争一歩手前の同国人同士の争いで多くの人命が危険に曝されている。

 ついては、明日はベトナム戦争が終結してちょうど半世紀、50年になる。実に早いものだ。ベトナム戦争終結の一報を耳にした時、社会人として働きながら、ベトナム反戦運動に関わっていたこともあり、漸く戦争が終わったのかというホッとする嬉しい気持ちで胸の内は感慨無量だった。10年前の戦後40周年の際には、昨年12月亡くなられた小中陽太郎氏らとともに港区芝公園で集会を開き、ジャパン・タイムズや、ベトナム・ニュースからインタビューを受け、それは新聞紙上に載り、テレビでもベトナム全土に放映された。それに比べると、国内では今年はベトナム戦争に関する情報が報じられて来ない。

 それは戦争の当事国であるアメリカについても言える。そもそもベトナム戦争が始まったのは、1954年のジュネーブ協定でベトナムが南北に分断されたことに端を発し、1960年ごろから南北の争いは激しくなった。65年には米空軍が北爆を開始して、世界中に大きな衝撃を与えた。私も67年に激しい戦時下のサイゴン(現ホーチミン)へ出かけ、怖い目にあったこともある。それが一方の旗頭だったアメリカ国内ではどう受け取られているのだろうか。ベトナム戦争終結記念の明日、首都ホーチミン市で開かれる終戦記念式典に、トランプ政権は駐ベトナム米大使を含むアメリカ外交官に出席しないよう指示したことが波紋を呼んでいる。アメリカ軍を退役した軍人らからも失望の声が上がっている。ベトナム戦争は、一般的にはアメリカの敗戦で決着が付いたと見られている。ベトナム戦争をアメリカの敗北の象徴とみる見方もある。当事国ではあるが、アメリカにとっては不名誉なことでもあり、あまり派手に取り上げてもらいたくない事件である。しかし、アメリカ国内では大学教授らが、この判断は大きな間違いだとして、「ベトナム、アメリカ両国の関係を後退させるだけでなく、新たな両国関係を歓迎してきた退役軍人を侮辱するものだ」と厳しく批判している。

 昨日の本ブログにも採りあげたように、今日就任100日を迎えたトランプ大統領の支持率が漸減傾向にあり、ワシントン・ポスト紙の世論調査では39%というルーズベルト大統領以来最低の支持率に低下したが、ニューヨーク・タイムズ紙の調査でも42%という低率に終わった。これには負けず嫌いのトランプ氏が黙ってはいないだろうと思っていたところ、案の定トランプ氏はSNSで「この国に自由で公正な報道機関はない。世論調査において、悪い記事を書き不正をする報道機関がある。悲しい」と、いつも通り自らは反省することなく、開き直るばかりである。自らの言動を反省することもなく、誹謗中傷を繰り返すようでは、今後支持率は限りなく0%に近づくことだろう。身から出た錆とは言え、こういう身勝手な大統領を選んだアメリカ人にとっても恥ずかしいことだと思うが、どうだろうか。

2025年4月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

6559.2025年4月28日(月) 常識に欠けるトランプ氏の不評と不人気

 去る21日に亡くなったフランシスコ・ローマ教皇の葬儀が、昨日晴天の下にバチカンのサンピェトロ広場で行われた。160か国以上の国家元首や首脳らが出席された。沿道に詰めかけた市民らを合わせると約40万人が教皇に別れを告げたことになるようだ。

 この厳粛な場においても弔問外交が行われ、「吐乱夫」大統領とゼレンスキー大統領がサンピェトロ大聖堂内で向かい合って15分間の電撃的な会談を行った。何とこの2人は服装でも物議を醸したようだ。日本でもエチケットとして当然葬儀の服装についてドレスコードがあるが、ご両人は知ってか、知らずか、葬儀の際の喪服を着ていなかった。コードには、黒装束に、白いワイシャツ、黒ネクタイ着用と決められているが、「吐乱夫」は、青いコートに青いネクタイ、ゼレンスキー氏は黒一色だった。これには、メディアの間からも疑念を呈されている。

 「吐乱夫」は葬儀場の位置でも注文をつけていた。事前に最前列の目立つ位置でなければ、葬儀に出席しないと強硬に主張していた。フランス語のアルファベット順に並ぶ参列者の順序から考えて、アメリカ(les Etats-Unis)は本来3列目の筈だったが、関係者はその強引さに負け、「吐乱夫」は最前列に並ぶことが出来た。ルールとか、世話人の苦労を顧みず、いつでも非常識な自己主張を通して周囲を悩ませ困惑させる「吐乱夫」大統領らしいと言えば、そうも言える。この他人に迷惑をかけ我が物顔の図々しさに、昨日ワシントン・ポスト紙が報じた最新の世論調査では、明日トランプ政権が発足してから100日を迎える大統領の支持率が、39%に下落してフランクリン・ルーズベルト以降歴代で最も低い支持率となった。

 しかし、これほど自己主張で世間を煙に巻く人物も珍しいと思う。とてもまともに話し合える人ではないと思う。まだこの先3年9か月も大統領の座に留まっていると考えると、各国が我慢できるだろうか。 

 さて、今日からちょうど1か月前にミヤンマーに大地震が発生した。元々貧しい国で、そこへ2021年2月国軍の軍事クーデターにより民主派政府が崩壊させられ、国内は混乱の最中にある。地震発生直後から国軍のミンアウンフライン最高司令官は、国際社会の支援を要請したが、必ずしも全面的な支援の恩恵には浴していない。厳しい目を注がれている国際社会からの支援は、充分とは言えず、貧しい国民は援助物資を得られない中で貧窮生活を送っている。国軍と少数民族武装勢力との内戦も止む気配はなく、それが海外からの支援を充分受け入れられない原因のひとつにもなっている。国連開発計画が2024年に公表した世界の最貧困国30か国のうち、28か国がアフリカの国々であるが、残り2か国がアジアで、ミヤンマー23位、ネパール29位で、その前年2023年のミヤンマーの貧困率は、49.7%である。地震により貧困率は更に悪化しているのではないかと気がかりでならない。ミヤンマー近現代史を専攻されている長田紀之・九州大准教授は、震災は国軍にとって「棚からぼた餅だった」と穿った見方をしている。というのは、「国軍は自らの正当性を主張すると同時に、対立勢力が正当性を得る状況を防ぐ狙いがあった」、「国際社会がミヤンマーに手を差し伸べざるを得ない状況を、国軍は利用できる」と考えたとみている。しかし、国軍強奪した現在の国の現状を国際社会は、必ずしも支援に値する状況にはないとみているようだ。ミヤンマーの復興はまだ遥か遠い彼方にある。

2025年4月28日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com