充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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6660.2025年8月7日(木) 昨日の広島市平和記念式典について
昨日広島市平和公園で開かれた原爆投下80年の平和記念式典が、少なからず反響を呼んでいるようだ。それは、原爆投下・終戦80年というひとつの節目の年ということもあると思うが、5万5千人もの人々が参加したという式典の意気ごみと盛り上がりがあったからだとも思う。私自身式典で話された主催者らの挨拶の内容には、これまでになく関心を抱かされた。
中でも興味を惹かれたのは、今日のネットに見られるように石破首相の挨拶がこれまでの首相の挨拶に比べて大分好評であることである。それは、2020年の安倍首相、21年の菅首相、22年の岸田首相の挨拶が、秘書が作成した文を読んでいるだけのコピペであることもある。特に安倍首相の挨拶は、広島と長崎でほぼ同じ、しかも18年、19年のそれも内容的にはほとんど同じだったという。どうしてこうも不誠実な挨拶を行うのだろうか。平和記念式典の主旨・目的を充分理解していないせいと、聞く人があまり真剣に聞いていないと思い込んでいるせいではないだろうか。菅首相に至っては、挨拶の一部を読み飛ばしたが、後に問われた菅首相は、原稿がノリでくっついて剥がれなかったと言い訳にもならない馬鹿げた釈明をしていたそうである。岸田首相も安倍首相同様に、広島と長崎でほぼ同じ内容の挨拶で真剣さが足りないように思う。
これらのスピーチは、自分が主体的に考えた内容でないので、あまり本心や願いも届かず、ある被爆者団体の関係者のように、毎年同じなのであまり聞いていないと言われるような始末である。専門家も大分厳しい指摘をしている。
その点で、石破首相が珍しくも評価されたのは、他人のコピペではなく、自分自身が2年前に広島原爆記念館を訪れた時の印象を交え、自分の言葉で語っていたことが他の首相に比べて評価されたようである。その全文が公表されるやSNS上で内容を評価する声が大分上がったという。ただ、私は核兵器禁止条約とは距離を置いたまま、同条約締約国会議へのオブザーバー参加も見送り続けていることにコメントせず、問題を回避しようとしている点はどうしても物足りないし賛同出来ない。
さらっと石破首相、松井一美・広島市長、湯崎英彦・広島県知事、グテーレス国連事務総長(中満泉事務次長代読)のスピーチを聴いていたが、特に湯崎知事のスピーチ内容に心を打たれた。核戦争になれば、「国破れて山河あり」が、「国守りて山河なし」になると強調していた。久しぶりに印象的な平和式典だった。
ついては、昨日のブログの後半部分に書いた広島へ原爆投下したB-29「エノラ・ゲイ」が飛び立ったテニアン島の旧飛行場について、昨日その旧飛行場で2005年以来の式典がテニアン市主催で開かれたとの今朝の朝日朝刊1、2面の記事に些か驚くとともに、意外な感がしている。式典に出席した現役の米大佐は原爆投下の正当性について、「答える気にはなれない。太平洋戦争で亡くなった人々を追悼し、現在のパートナーシップを確認する行事だと考えたい」と話していたようだが、原爆投下を間違いとは思えないが、大きな声では言えないと答えていたように思えた。あまりにも現実感があり、本音を吐露することは出来なかったようだ。
ほぼ半世紀前に、戦没者のご遺骨を乗せた上陸用舟艇に乗船してテニアン島から、サイパン島へ辿り着いた記憶が懐かしい。
6659.2025年8月6日(水) 広島へ原爆投下して80年、非核3原則は?
80年前の今日午前8時15分広島へ原爆が投下され、一瞬のうちに約10万人の罪のない市民が命を奪われた。今日は広島市内の平和公園で平和祈念式典が行われ、石破首相をはじめ、過去最多120の国と地域から大使や外交官などを主に、5万5千人もの人々が参列したのには些か驚いている。「平和」を名乗るイベントにこれほど多くの人が参加するのは珍しいのではないだろうか。
原爆を投下し、多くの後遺症を残すような死傷者を生んで、今や世界的に非難され核兵器使用反対運動を起こさせるきっかけを作ったアメリカに、果たしてどれほど加害者意識があるのか、アメリカは毎年出席するに際していつも消極的な姿勢である。今年6月にもイスラエルのイラン攻撃に続き、アメリカがイラン国内3カ所の核施設を空爆したことを、事もあろうにトランプ大統領は、広島と長崎への原爆投下が第2次世界大戦の終結につながったような発言をして、日本国内から憤りの声が上がった。トランプ大統領を始め、大方のアメリカ国民はトランプ氏と同じような考えなのではないだろうか。原爆投下により広島で約14万人、長崎で約7万人が亡くなった。原爆関連で亡くなった349,246人の犠牲者の名前が平和公園内の原爆慰霊碑に納められているが、今日この1年間に亡くなった人や、死亡が確認された4,940人の名前が書き加えられた。これほど多くの犠牲者を生んだ原爆投下について、残念ながら加害者側にはあまり反省の気持ちが見られない。今や被災者の平均年齢は86歳を超えてしまった。
現在の好戦的な世界情勢と、事態解決のためには原爆使用も認められるとのトランプ大統領が考える主張は、単に大国の身勝手な独善的考えであって、これでは戦争が止むことはない。
実際トランプ大統領は、いかなるシチュエーションでこんな原爆犠牲者や被災者の気持ちを無視するような発言を行ったのか。トランプ氏は、先日オランダで開かれたNATO(北大西洋条約機構)の首脳会談で、まずルッテNATO事務総長にイランへの核施設攻撃について「広島や長崎を例として使いたくないが本質的には同じだ。戦争を終わらせた」と述べた。そして、同じ日に行われた記者会見でも「広島や長崎を見れば、あれが戦争を終わらせたことが分かる。これは違う形で戦争を終わらせた」と別の本音を述べている。これに対して被爆者の受け止め方は、「アメリカの大統領からどうしてこういう乱暴な発言が出るのか不思議で仕方がない」、「大統領は被爆者がこの80年間どれだけ苦しんできたか理解していない」、「原爆投下はいかなる理由があってもやってはいけないことで、正当化するような発言には怒りしかない」と厳しい批判的な反論が出ている。
今から半世紀ほど前に旧厚生省の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に関わっていた当時、毎年ミクロネシア連邦を訪れていたが、その折に広島へ原爆投下したB-29 爆撃機「エノラ・ゲイ」が飛び立ったテニアン島北飛行場滑走路に小さな記念碑が建てられているのに気づかされた。正にここから原爆を積んだB-29が広島へ向けて離陸したのである。その結果が、80年経っても解決しない核賛否論を繰り広げているのだ。その場にいた時は、へぇ~こんな小さな飛行場から飛び立ったのだという事実だけに驚いたものだが、その後その重大さが募って頭から消え去らない。ほとんどの日本人は知らないが、日本人にとっては恨み骨髄の飛行場であることをアメリカ人はどこまで知っているだろうか。恐らくトランプ大統領も知らないのではないだろうか。
6658.2025年8月5日(火) 伊勢崎市で史上最高気温41.8℃を記録
今日も暑い。4日間連続で40℃を超えていた気温が昨日は途切れたが、今日は何と全国14地点で40℃を超えた。その14地点はすべて関東地方であるから、今までの常識ではとても考えられないことである。東京都心は36.6℃の今年の最高気温である。東京都下でも暑く、14地区の中に八王子市と青梅市が入っている。それでは今日の最高気温はどこかと言えば、群馬県伊勢崎市の41.8℃で、これは全国的にも史上最高気温である。現象とは、1度壁を乗り越えると怒涛のように壁を突き破るものだが、気象状況も同じようで今後もっと高温の日が出現するだろう。そして怖いのは、この暑さに対して余程有効な手段を講じない限り、来年以降も猛暑が繰り返されることである。
ところで、「高知県宿毛市愛媛県南宇和郡愛南町篠山小中学校組合立篠山小学校・篠山中学校」という長い名前の学校が、現実に存在するそうである。これが、現在日本で一番長い校名の学校である。全国でも珍しい2県にまたがる公立小中学校であるが、残念ながら生徒数の減少により2027年3月限りで閉校となる。現在の在籍生徒数は、愛南町からの小学生3人と、同町からの中学生4人、そして県を超えて高知県宿毛市から中学生2人の全校僅か9人の小規模の学校である。何となく寂しい印象を受ける。廃校後に彼らが適する学校へ転入できるだろうか、そして小学校入学年齢を迎える子どもたちはこれからどうなるのだろうか、少々気になる。
これと同時に、別の問題がある。今では過疎の集落が目立ち出し、今後自治体としては生活に欠かせないインフラ整備はそのまま続けなければならず、小さな町村では財政的にも厳しい問題を抱えることだろう。
また、国立大学でも北大、東北大、京大、阪大の医療技術短期大学部のような特殊な短大を閉校決定したところが増えてきた。一方で、少子化の影響により閉校となる私立大学がこのところ目立ってきた。特に女子高生が女子短大に進学せずに、4年制共学大へ進学する傾向が強くなり、このため閉校する私立女子短大、女子大が目立っている。妻が卒業した山脇学園短大や、東京女学館大もすでに閉校した。東洋英和女学院大や恵泉女学園大などもすでに募集を停止している。かつてのように黙っていても学校には生徒が来る時代は去りつつある。生き残るためには今後益々厳しい生存競争を勝ち抜いていかなければならないだろう。
さて、今日から真夏の年中行事のひとつである全国高校野球大会が、甲子園で始まった。この炎天下では選手の健康面が懸念され、数年前からその点も大会本部で考慮されるようになった。かつて息子たちが小学生のころ彼らを連れて観戦に出かけたこともある開会式は今日行われたが、以前とは全く様子が変わってしまった。開会式は午後行われ、その後に試合は1試合だけしか行われなかった。開会式の観衆も少なくイメージが随分変わったものである。試合中もクーリング・タイムと称して8分間は選手たちが身体を冷やすための休憩時間とされた。炎天下に4試合も連続的に実施されることなんて過去の話である。春の選抜大会で優勝した神奈川県代表の横浜高校が、春夏連覇を果たすことが出来るかが、注目されている。これから当分の間日中は高校野球で賑やかになることだろう。
6657.2025年8月4日(月) 「真相報道バンキシャ!」の学校日誌に衝撃
今年は太平洋戦争終戦80年になる。特に8月は6日に広島、9日には長崎へ原爆が投下され国土は壊滅的損壊を受けた。そして原爆投下から間もない15日に終戦を迎えることになった。いろいろ終戦記念行事やら、特別企画が行われるようだが、昨日日本テレビの「真相報道バンキシャ!」を観ていて、身に詰まらされる思いがした。
私は、終戦4か月前の昭和20年4月に千葉県勝山町の町立勝山国民学校初等科へ入学した。3月に湘南藤沢から引っ越してきたばかりで、近所に知り合いは誰ひとりいなかった。父は片道2時間半かけて列車で千葉市内の会社へ通い、母は終日勤労奉仕に駆り出されて近所のお付き合いなどに忙殺され、幼い男兄弟4人の面倒までは充分手が回らなかった。そのため両親は時間が取れず、学校へは父の会社の勝山工場で馬車引きをしていた黒川さんというおじさんに連れて行ってもらった。担任の先生は青木先生と仰り、ご主人はすでに戦死されておられ、息子が我々と同じ同級生の中にいた。
「バンキシャ」でショックを受けたのは、我々が小学生の当時日本の各小中学校では、学校と生徒たちの行動を先生が記録した「学校日誌」という日誌を毎日書いていて、その中に私自身の経験に似た出来事があったことである。長野県安曇野市と宮崎県小林市の小学校にはそんな「学校日誌」が明治以来100年間に亘り書き残されていて戦時中の学校の様子がよく分かる。宮崎の学校では、学校を将校用施設、兵士用宿舎、そして残りを学校として使われ、学校が兵営化していたことである。そのため学校が米軍機に狙われ、空襲により何人かの生徒たちが命を落とす羽目になった。
私の初等科1年生時に、同級生とともに青木先生に連れられ畑へ郊外学習に出かけた。丁度その時米空軍戦闘機編隊が轟音を響かせながら低空飛行して我々を目指して近づいて来た。青木先生はそれを知るや大きな声で「皆さん!伏せなさい!」と両手を上下に大きく振り大声で叫んだ。戦闘機編隊の先頭機に搭乗していた戦闘隊長の顔が見えるほどの距離まで接近して来た時、戦隊長機は不意に機首を上に向け、上空に向け飛び去り他の戦闘機もそれに付いて行った。恐らく戦隊長が、我々子どもたちが恐怖心から右往左往している様子を見て、故国に残した我が子の姿でも思い出したのであろうか、爆音だけを残してその場を去って行った。しばらくして先生が皆さん、もう心配ないから立ち上がりましょう、と言ってその場の危機一髪のドキュメントは終わった。
この恐ろしかったシーンは80年経った今でも忘れられない。戦隊長の機転さえなかったなら、我々も被害を被ったかも知れなかった。長野や宮崎の学校のように兵舎と見られなかったことは幸いだった。戦時中の子どもたちは随分怖い想いを経験していたのだなぁということと、よくぞ生々しい学校日誌のような記録を残しておいてくれたものだと感謝の気持ちすら感じている。今パレスチナ・ガザ地区の子どもたちが死の危機に瀕しているTV画像を見ると、つい自分自身も怖い想いを味わされた戦時中の身の毛もよだつあの臨場感を想い出す。戦争は何が起こるか分からない。ふとしたことから大事に至るようなこともある。
戦争好きな世界のリーダーや、戦争の怖さを知らない戦争知らずの政治家たちが、心から戦争の危険を臨場感的感覚で知り、戦争を止める真剣な努力をしてもらいたいものである。
6656.2025年8月3日(日) 猛暑は二酸化炭素排出が最大の原因
昨日まで4日間連続して国内の最高気温が40℃を超えたほど猛暑が続いていたが、今日は1歩手前の39℃台だった。このほど公表された今年7月1カ月間の平均気温は、基準値から+2.89℃だった。統計を開始した1898年以降7月としては最も高くなった。特に気温が上昇したのは、地形的に見ると北日本を主に日本列島で全般的に上がっているが、沖縄、奄美では大きな変化はない。この調子で高気温が続くようなら来年以降が心配である。
健康維持のためにほぼ毎日ウォーキングを30分ほど心掛けているが、この炎天下に日差しを避けるのは難しく、夕陽が落ちた6時ごろに外出している。すると風も涼しく日射もなく、あまり暑さを気にしなくても済む。
今や地球温暖化現象が進行し世界的に気温が上がっている。気温は世界平均で過去100年に約0.74℃上昇し、近年その傾向が加速している。このため最近言われ出した海面の水面も上昇し過去100年で約17cmも上昇して、南太平洋の島々には海面上昇により島自体が水没する恐れが出ている。氷河も少しずつ溶け、今最も懸念されているのは、異常気象による熱波、豪雨、干ばつなどの頻度や、激しさが増していることである。
今問題となっている米需給から発生した米価の高騰は、米の生産量が少ないために需要に追い付かないからと言われているが、過去に何度か米の生産調整を行ったことが、一番効いている。最近のTVニュースなどを観ていると米が不作になったことで供給が追い付かないと言われているが、不作に陥った原因に高温障害、干ばつによる水不足、品質低下、害虫の活性化などがあるが、基本的には水不足である。これまで政府の農業政策では水対策はほとんど無視されて来たとも言える。毎年自然現象はあり、政府は農業用水に抜かりのないよう灌漑整備に力を注ぐべきではないかと思う。
地球温暖化の最大の原因となっているのは、二酸化炭素が増え、その濃度も増加していることである。その最大の排出国がアメリカと中国である。残念ながらこの両国が、自国の二酸化炭素排出量の削減にそれほど力をいれていないことが他の国々へ影響が及んでいることである。今世紀末までに地球上の気温は、3.3~5.7℃の上昇が見込まれているようで、聞くだけでもぞっとする。こうなると農作物に対する暑さ対策が国家としても重要な政策になるだろう。暑さ対策にまったく無策だった自民党が今日米問題で大きな壁に突き当たっているが、今の自民党政権が米問題を解決することが出来るだろうか。