充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
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7034.2026年8月16日(日) 戦争の反省が感じられない高市内閣
予想されていた通り昨日の終戦記念日に関連した話題がメディアでかなり取り上げられている。高市首相が全国戦没者追悼式で述べた式辞の中に「反省」という言葉がなかったことが、特に批判されている。「我が国の平和と繁栄は、戦没者の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものであることを私たちは決して忘れない」と述べたが、かつて村山富市首相が、先の戦争について日本の言動を「反省する」と語って以来、歴代の首相は「反省する」ことに触れなかった。昨年13年ぶりに石破茂・前首相が式辞で述べたが、その他の首相らの胸中には反省する気持ちがなかったようである。
自民党内には、「戦争を反省する」気持ちが薄いようで、小泉防衛相以下数人の閣僚が続々靖国神社へ参拝している。案の定、直ちに中国と韓国両政府が彼らの行動を非難する声明を発表した。
原水爆禁止へ向けて行動している日本国民にとって、唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約を批准しようともしない日本政府の姿勢には、国民はもとより、核兵器反対の多くの国々が失望している。日本政府は戦争に関する行動には前向きであるが、反戦的な行動には背を向けている。これでは毎年行っている広島、長崎の平和と原爆廃絶を願う主催者らの気持ちに水を注すものである。
先の対戦に外地で亡くなった日本人の遺骨収集が以前から行われているが、国際関係もあり、日本の思うようには中々進まない。海外における戦没者の数は、約240万人といわれている。これまで127万人の遺骨が帰還したが、まだ約112万柱の遺骨が現地に残されたままである。私も厚生省主管の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に、20年近く関わり、毎年のように中部太平洋方面の事業に下働きとして参加した。お陰で日本軍が進出した国々には、訪れる機会が多かった。あまり普通の観光客が訪れないような、パラオ、ミクロネシア、ニューギニア、ガダルカナル、ラバウル、インドネシア、フィリピン、ビルマ、ベトナム、中国、シベリア、サハリン、などの国々を遺族の方々と、或いはひとりで訪れる機会を得た。
今当時に比べて遺骨収集事業自体はあまり大きな規模では行われていないようだ。こういう戦争によって家族との結びつきを無為に切り離された故人の御霊を、母国、実家へ帰してあげる計画に取り組むのは政治家らの責務ではないだろうか。靖国神社への参拝ばかりを優先させ、それが本音かどうかは分からないまま、戦争で犠牲になった方々への面倒を見ることには熱意が感じられない。小泉進次郎防衛大臣のように親の七光りで、閣僚にまでなっていながら遺族や国民の信頼を裏切り、靖国神社に参拝してまでA級戦犯に誠を捧げつつ、軍備の拡張に邁進しようとしていうのはいかなる料簡であろうか。国民は信頼感を抱くことは出来ない。
高市内閣閣僚らは戦後処理が終わったと考えているようだが、遺骨収集は道半ばで、核兵器廃絶についてはソッポを向き、防衛予算を毎年膨らませているようでは、もう戦争は繰り返しませんと誓ったふりをしても信用できない。
7033.2026年8月15日(土) 戦争再発懸念の中、終戦記念日を迎える。
今日は81年目の太平洋戦争終戦記念日である。正午には日本武道館で天皇、皇后両陛下をお迎えして「全国戦没者追悼式」が行われた。こんな時午前中に右翼的な小泉進次郎・防衛相は靖国神社に参拝した。昨年まで毎年参拝していた高市首相に代わって、鈴木俊一自民党幹事長が首相の代理として、有村治子総務会長、西村康稔選対委員長とともに玉ぐし料を収めた。高市首相は、首相就任前は毎年恒例の春秋例大祭と合わせ、終戦記念日にも欠かさず参拝しており、首相になっても参拝し続けると語っていたが、流石に険悪な日中関係や韓国との外交関係を考え、本人としては不本意ながら今年は参拝を差し控えた。
81年前と言えば、湘南鵠沼から千葉県勝山町(現鋸南町)へ疎開も考えて転居し、勝山国民学校(現小学校)へ入学してまだ日も浅かった。鋸山方面からしばしば米軍航空機が飛来し、その都度自宅近くの山に掘られた横穴式防空壕へ逃げ込んだ。日本の形勢も日に日に悪くなり、校外学習で先生に連れられクラス仲間揃って校門を出てからしばらくして、米軍戦闘機編隊に襲われかかったこともあった。それでも暑い夏休み中は、昼間は港の近くの浜辺で海水浴をしていた。そして8月15日からしばらくして父親から、怖い戦争は終わったから安心しろ、もう防空壕に隠れることもないと言われた。それが終戦だった。主要道路を戦車が走行することもあったが、終戦となってからしばらくして米軍兵士の姿を見て彼らの眼が青いことに驚き、母親に話したこともあった。
とにかく怖かった戦争が終わったことで、周囲は明るくなったような気がした。その後、小学校5年生時に朝鮮戦争が始まり、教師から度々朝鮮戦争について講義をしてもらった。戦争に首を突っ込みだしたのは、60年安保闘争終了後にベトナム戦争反対運動に参加してからである。戦争の実態を知ろうとひとりで1967年ベトナム戦争が激しい中を南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチーミン)へ出かけ、何度か怖い思いをした。それから第3次中東戦争、アデン独立戦争、9.11テロなどと少しずつ戦争を臨場感を通して知るようになった。そして、その過程で戦争の残酷さと恐怖を知り、一層戦争に反対する意思を強く持ったのである。戦地で危険な目に遭ったこともあり、また戦友会の戦跡巡拝団とともに戦地を訪れ、戦友の方々の辛い気持ちをお察しすると反戦の気持ちは益々強まった。
その点では、自民党政権が年々戦争へ近づきつつある政策には、絶対反対である。自民党政権はもとより、国民の生命を預かっている国会議員の間には、戦争体験がなく戦争の怖さを実感で分からず、戦争を世間話のように捉えているのが許せない。彼らが、戦争は酷いもので残酷であり、社会も個人の人生も壊してしまうということを知らないのが心配でならない。
宮城県柴田町のホームページに、「~正午になりましたら、戦没者を追悼し、平和を祈念して、それぞれのご家庭や職場で1分間の黙祷をお願いします」と訴えていた。NHK・TVで中継された「全国戦没者追悼式」に合わせて1分間黙祷をした。もう戦争とは永遠におさらばしたい。
7032.2026年8月14日(金) ルパング島帰りの小野田寛郎元少尉
逆行した台風15号の置き土産だろうか、昨日千葉県を中心に関東地方を襲った大雨は、雷雨を伴う豪雨となって各地に大きな爪痕を残した。県内では、南房総地方を除いて道路の冠水、道路遮断、鉄道運行停止などで県民ばかりでなく千葉を訪れた多くの人々を戸惑わせた。その典型は、最高のレベル5「大雨特別警報」や、同じくレベル5「土砂災害危険警報」が発せられ、東京~成田間の鉄道や、定期バスが運休したこともあり、海外から到着した内外の搭乗客が、空港から出かけられず、7千人もの人たちが空港ロビーに寝泊まりする事態となった。都内23区にも警報が出されたが、地域によって、また時間によって降雨の激しい度合は異なった。
実は、昨晩も南房総方面以外は、広域的に豪雨に襲われ上空から見るとどこの市町村も道路が冠水していた。特に千葉市内の幕張小学校は母校であり、元々幕張は土地が低いだけに校庭も水浸しではないかと気をもんでいる。
気象庁は、千葉県の昨日の記録的大雨を「令和8年8月千葉豪雨」と名付けることにした。このように豪雨に名称を定めるのは、「平成29年7月九州北部豪雨」以来のことである。
今日も千葉県には大雨が降っているようだから、県民の気持ちも落ち着かないだろう。とんだお盆休みとなってしまった。
さて、一昨日夜NHK・BSで「小野田少尉帰還」が放映された。フィリピン・ルパング島ジャングル内で戦後29年間も終戦を知らずに生き抜いてきた小野田寛郎元少尉のドキュメンタリーである。実際には、小野田は終戦を知ってはいたが、根っからの職業軍人だったので、上官の命令がなければ終戦を認めないと考えたようである。偶々日本人青年とジャングル内で出くわしたことが帰国への道を開いたが、上官から軍務解除の命令がない以上公に姿を現さないということから、元上官をフィリピンに派遣し、目の前で上官が終戦と命令解除を通達して軍人から一般人に戻った。
小野田が帰国したのは1974年3月12日であるが、その日私は偶々ミヤンマーへ向かう陸軍航空飛行第12戦隊の第一次南方基地慰霊団とともに羽田空港にいた。その時、小野田と鉢合わせした。翌朝のスポーツ紙に「往く人、帰る人」の見出しで紹介された。
ひとりの軍人として小野田は、予備士官学校、中野学校などを経た生粋の軍人だけに、戦後もフィリピンの山中で現地人とは接触せず、食糧用に彼らの家畜を殺害したことなどが、現地の人からは厳しく非難されていた。しかし、誰の援助も支援もなくひとり野外で生き延びるには、彼のような破天荒な意志と行動力がないと難しいだろう。いろいろ批判も受けたようだが、帰国しても当時の日本で生きて行くために自力では難しいと判断し、僅か半年後にはブラジルに渡り、自ら牧場を経営しながら、その後しばらくして日本で1年の半分を過ごし、その時間を日本の子どもたちにキャンピング生活を指導した。普通の日本人の生き方とは、考え方もスケールも大きく異なる。
厚生省の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に関わっていた当時、サイパンで救われた横井庄一とは軍人として、また人間として大分違うということを団長だった厚生省課長から随分聞かされたことを想い出す。戦争によって得をした国、人はほとんどいない。むしろ悲しみを味わった国や、人がその何倍も多いかということを考えるといつも戦争に顔を向けている人間がいるのが不思議なくらいである。
明日は81回目の終戦記念日を迎えることになる。
7031.2026年8月13日(木) ヨーロッパで27年ぶりに皆既日食
今日日本時間の未明にヨーロッパで27年ぶりに皆既日食が見られたそうである。27年前の皆既日食と言えば、1999年8月11日にヨーロッパから中近東にかけて見られた20世紀最後の皆既日食として知られる。この年の皆既日食は、6月29日にイギリスで、7月22日にはヨーロッパ大陸で見られ、そして8月11日にも中近東で見られた。人口過密地帯を通過したため、人類史上最も多くの人々に観測された皆既日食とも言われている。ドイツの高速道路では、これを見るために道路上に停車した車の列が、数百㎞になったというから大変なものである。
私はその時ちょうどトルコへ出かける準備をしていて17日にイスタンブールへ着いた。その夜のことである。ホテルで疲れを癒して寝ていた最初の晩に、何と20世紀最後の大地震と言われる震度7.6のイズミット地震が勃発したのである。犠牲者は1万7千人だったが、どうしてこのような自然現象が重なって起きるのだろう。
今年のヨーロッパは40℃を越える地域や、酷暑の日が格別目立つ。ただ、皆既日食のように気持ちが涼しくなる現象なら由として、エアコン設備のある家庭はほんの僅かであると聞くので、暑さ対策を考えなければいけない。。
今世界では、南米のベネズエラに続いて、隣国コロンビアでも大地震が起きたばかりで両国ともに復旧作業に懸命である。日本でも熊本地震の復旧に忙殺されている。
その一方で、日本には同時に熱波と台風が襲っている。熊本では復旧作業に当たっている人たちの頭上から太陽の光が降り注ぎ、連日猛暑である。熊本市では、観測史上最高の40.3℃を記録した日もある。
今朝の「天声人語」に信じられない話が現実味を帯びて書かれていた。地球温暖化対策の「気候工学」の分野の話題である。二酸化炭素の削減が思うように進んでいない。地球の温暖化が止められないのなら、直接地球を冷やしてしまう研究が東大で進んで一部ではすでに実証実験が行われていると知り、目をパチクリさせられた。その実験というのは、成層圏に微粒子を撒き、人工的に薄い雲を作って太陽の光を反射させる。また、下層の雲の粒子を増やし、より白くすることで反射率を上げ、地球の温度を下げる手法もあるそうである。ただ、問題は山積みのようで、一部の地域を冷やすために作った雲が、別の場所で熱波を増やす恐れもある。これでは現実的ではない。
折角のアイディアではあるが、こんなことを考えるなら、一部の国が反対している二酸化炭素を生み出す排出ガスを削減する方が、問題が少なく簡素であると思う。自然現象が人類を悩ませているというより、人類が出来ることをやらずに難しいことを試行できるよう考えることに軸足を置いている。これこそ余程馬鹿げていると思う。結局人間は愚か者だということになる。
7030.2026年8月12日(水) 日航機御巣鷹山墜落事故から41年
昨晩茨城県南部に上陸した台風15号は、本州を真西へ進み今朝福井県敦賀市を通過して日本海へ抜けた。これまでなかった逆走という変則ルートで走り抜けたのである。台風15号は関東各地に激しい豪雨をもたらした。一難去ってまた一難とも言えるだろうか、今熱帯性低気圧が南方洋上に蠢いている。次の台風として16号の襲来が一時予想されたが、次第に東へ逸れて熱帯性低気圧に変わってしまった。だが、もうひとつ隠れた熱帯性低気圧が南に発生し、台風17号に変わった。これも現在小笠原諸島の東を北上し、その後進路を北西に変え、16日(日)には関東沖へ達すると見込まれている。元々8月は台風の発生が多いが、今年は特に大きな台風が日本各地を荒らしまわっている。
実は、お盆の時期でもあり、各地で花火大会や、お祭りなどの行事が予定されているが、当日になって中止になるケースが多く、関係者は事後処理やら予想外の出費に頭を痛めている。
さて、8月と言えば、太平洋戦争関連のニュースが多く聞かれるが、特に大きな航空事故があった。41年前1985年の今日、日本航空ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹山中に墜落し、お盆の帰省客など520人が犠牲となり、単独機の航空事故としては世界史上最悪の犠牲者数となった。乗客の中には♪上を向いて歩こう♪のような世界的ヒット曲を飛ばした歌手の坂本九さんが犠牲になり、いつまでもその悲しみは後を引いた。幸い後部座席にいた女性4人だけが重傷を負いながらも助かった。
この時間に別の会社の蘭の展示会に関する会議で、関係の会社の人たちと打ち合わせていたところに、その会社の係員から事件を知らされ、帰社後にテレビで大きなニュースになっていることを知った。
その後遺体収容とか、遺物の捜索や遺族との対応などで日航では、勇退したOBらにも応援を頼み込んで人海戦術で作業に携わってもらっていたが、すでに退職した日航のパイロットで元陸軍航空隊隼戦闘機の操縦士だった知り合いも、日航から頼まれ捜索に当たっていたが、現場で随分多くの人から酷いことを言われたと嘆いていたことが印象に残っている。
日航機の墜落事故として忘れられないのは、日本の航空会社が海外で起こした初の墜落事故で、乗員乗客89名中86名が死亡した1972年年6月インド・ニューデリー空港で羽田発ロンドン行航空機が、夜間に砂塵で視界不良の中を堤防に激突した「日航機ニューデリー墜落事故」である。亡くなった日本人の中にインドでは知らぬ人もいないほど、インド人のためにライ病患者病院を建設し、多くのインド人の生命を救って知られたハンセン病専門医の宮崎松記医師がいた。今もアグラのタージ・マハールへ向かうストリートは、「マツキ・ミヤザキ通り」と名付けられ、大きく立派な案内板が道路脇に掲げられ、その突然の死が惜しまれている。
太平洋戦争犠牲者、航空事故犠牲者の方々のご冥福をお祈りしたい。