充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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7036.2026年8月18日(火) プーチン大統領の択捉島訪問の意図は?
去る13日にロシアのプーチン大統領が北方領土4島の択捉島へ上陸して施設を見学したり、住民と会話をしている姿が伝えられた。プーチン氏が北方の島を訪れるのは初めてであるが、ウクライナ戦争の状況もあまり芳しくない中で、敢えて旧日本領だった択捉島を訪れたのには、当然ながらプーチン氏とロシアの日本への思惑があるのだろう。
このニュースを受けて高市首相は、「北方領土は歴史的にも国際法上もわが国固有の領土であり、日本国民の感情を傷つけるものであり、断じて容認できない」と強く抗議した。茂木外相も駐日ロシア大使を外務省に呼び出し、強く抗議した。これに対してロシアは、ラブロフ外相が日本の批判は明らかに礼儀の一線を越えたとして武藤駐ロシア大使を呼び出し、協議するとしている。
ロシア側の言い分は、日本が承認した第2次世界大戦降伏文書には、北方領土を戦勝国である旧ソ連が戦後支配することが記載されているという。しかしながら、この降伏文書がミズーリ号艦上で交わされたのは、1945年9月2日のことであり、日本の降伏と半月以上のずれがある。旧ソ連が択捉島など4島を占領したのは、その降伏文書調印直前の8月28日から9月8日までの期間である。その一方、日本は、8月6日と9日に広島と長崎に原爆が投下され、日本の戦闘能力はほぼ無力化した。そのうえ8月15日に天皇の玉音放送により日本は降伏したことを全国民に周知させた。そのような事実があって日本は最早降伏したことが明かされたにも拘らず、旧ソ連は4月に日ソ中立条約を一方的に破棄して、8月9日より対日戦争を開始すると独善的なアナウンスをした後に、日本が降伏文書に署名して北方領土が旧ソ連の領土であるということを承認させられたとしても筋が通らない。おかしいし、誰が認めるだろうか。全てに利己的なロシア政府は、常に自国の都合により自国優位な持論を相手国に押し付ける傲慢さをむき出しにするのだ。
今回のプーチン大統領択捉島訪問には、国内外に行き詰ったプーチン側の苦肉の策と、ウクライナ侵攻に日本がロシアに経済制裁を課したことに対する対日牽制があったと考えざるを得ない。北方領土問題が一向に活路を見いだせないのは、この辺りの経緯を国際的に訴える宣伝活動が、従来の日本政府にも欠けているからである。交渉相手国のペースに巻き込まれず、主張すべきは主張するとの一貫した信念のもとに日本の持論主張を展開することを考えないといけないと思う。現在の政治、外交の方針では相手国の言いなりになるばかりである。
さて、今日甲子園で高校野球準々決勝が行われ、優勝候補の横浜高校は順当に大谷翔平選手の母校・花巻東高を6-0で下した。その横浜高校を強豪校に育て、監督として春夏合わせて5回もの優勝を飾った渡辺元智氏が昨日死去されたことが分った。渡辺氏の功績により、今や横浜高校は全国的な野球強豪校となった。今日の横浜高の試合をTV観戦していたが、エース織田翔希投手が156㎞のプロはだしの速球を投げたが、いつも明るい顔をしてスマイルを見せていたことと、攻守交代時に相手校選手からボールを手渡してもらった際に丁寧に帽子を脱ぎ、礼をしていた姿に見惚れた。野球だけに卓越しているのではなく、人間的にも優れた選手だと感心した。たかが高校野球であるが、教えられるところも多いものである。
7035.2026年8月17日(月) 予想外だった千葉豪雨による被害
13日に千葉県内を襲った豪雨がこれまで考えられもしなかったような甚大な被害を与えている。道路上に動かなくなった車が約2,700台も放置されており、交通障害にもなるので、県は取り除く方針のようだ。被災した住宅も床上浸水、床下浸水を合わせて2,000軒もある。専門家の話では、台地と低地が隣り合わせにあって台地が水没するとすべてが水没したように見える。千葉市周辺は海岸を埋め立てした土地が多く、元々土地自体が低いところにあるので、水が流れ込んでくる。驚いたのは大網白里市が上空から見下ろすと水の中に孤立した家屋が残っているようだ。実は、この市にはまだ町だったころに3度ほど講師を引き受け出かけたことがある。上空からの鳥観図で知る市街地の様子は分からなかったので、このような低い市街地であることに思わずため息が出る。
また、千葉市内で最も東京寄りの花見川区幕張町は、小学生時代を過ごしていた旧幕張町で今のビル街の沿岸は潮干狩りが出来るような場所だった。それが知らない数十年の間に高層ビルが建ち、JR京葉線も新たに敷設され、当時のイメージはまったく変わってしまったようだ。幸いこの度の豪雨による被害が伝えられていないので、卒業した創立155年の伝統校・幕張小学校も被災せずに無事であることを願っている。
その後熊本地震は、連日のように余震が続いている。海外でも先日ベネズエラ地震に続いて、隣国コロンビアでも大きな地震が起きたばかりだが、昨日インドネシア東部でもM7.7 の巨大地震が起きた。その内地球上は自然災害で住める場所が亡くなるのではないかとも思える。
余震の続く熊本では、酷暑の中で復興作業に懸命のようだが、明るいニュースもある。昨日甲子園で開催中の高校野球大会で、県代表として初出場の有明高校が3試合連続して逆転勝ちで3回戦を勝ち上がりベスト8へ進出した。救護施設などに避難している高齢者らも感激して涙を流していた。それほど高校生の真剣な戦いぶりが被災した人々を精神的に慰め力を与えているのである。
7034.2026年8月16日(日) 戦争の反省が感じられない高市内閣
予想されていた通り昨日の終戦記念日に関連した話題がメディアでかなり取り上げられている。高市首相が全国戦没者追悼式で述べた式辞の中に「反省」という言葉がなかったことが、特に批判されている。「我が国の平和と繁栄は、戦没者の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものであることを私たちは決して忘れない」と述べたが、かつて村山富市首相が、先の戦争について日本の言動を「反省する」と語って以来、歴代の首相は「反省する」ことに触れなかった。昨年13年ぶりに石破茂・前首相が式辞で述べたが、その他の首相らの胸中には反省する気持ちがなかったようである。
自民党内には、「戦争を反省する」気持ちが薄いようで、小泉防衛相以下数人の閣僚が続々靖国神社へ参拝している。案の定、直ちに中国と韓国両政府が彼らの行動を非難する声明を発表した。
原水爆禁止へ向けて行動している日本国民にとって、唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約を批准しようともしない日本政府の姿勢には、国民はもとより、核兵器反対の多くの国々が失望している。日本政府は戦争に関する行動には前向きであるが、反戦的な行動には背を向けている。これでは毎年行っている広島、長崎の平和と原爆廃絶を願う主催者らの気持ちに水を注すものである。
先の対戦に外地で亡くなった日本人の遺骨収集が以前から行われているが、国際関係もあり、日本の思うようには中々進まない。海外における戦没者の数は、約240万人といわれている。これまで127万人の遺骨が帰還したが、まだ約112万柱の遺骨が現地に残されたままである。私も厚生省主管の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に、20年近く関わり、毎年のように中部太平洋方面の事業に下働きとして参加した。お陰で日本軍が進出した国々には、訪れる機会が多かった。あまり普通の観光客が訪れないような、パラオ、ミクロネシア、ニューギニア、ガダルカナル、ラバウル、インドネシア、フィリピン、ビルマ、ベトナム、中国、シベリア、サハリン、などの国々を遺族の方々と、或いはひとりで訪れる機会を得た。
今当時に比べて遺骨収集事業自体はあまり大きな規模では行われていないようだ。こういう戦争によって家族との結びつきを無為に切り離された故人の御霊を、母国、実家へ帰してあげる計画に取り組むのは政治家らの責務ではないだろうか。靖国神社への参拝ばかりを優先させ、それが本音かどうかは分からないまま、戦争で犠牲になった方々への面倒を見ることには熱意が感じられない。小泉進次郎防衛大臣のように親の七光りで、閣僚にまでなっていながら遺族や国民の信頼を裏切り、靖国神社に参拝してまでA級戦犯に誠を捧げつつ、軍備の拡張に邁進しようとしていうのはいかなる料簡であろうか。国民は信頼感を抱くことは出来ない。
高市内閣閣僚らは戦後処理が終わったと考えているようだが、遺骨収集は道半ばで、核兵器廃絶についてはソッポを向き、防衛予算を毎年膨らませているようでは、もう戦争は繰り返しませんと誓ったふりをしても信用できない。
7033.2026年8月15日(土) 戦争再発懸念の中、終戦記念日を迎える。
今日は81年目の太平洋戦争終戦記念日である。正午には日本武道館で天皇、皇后両陛下をお迎えして「全国戦没者追悼式」が行われた。こんな時午前中に右翼的な小泉進次郎・防衛相は靖国神社に参拝した。昨年まで毎年参拝していた高市首相に代わって、鈴木俊一自民党幹事長が首相の代理として、有村治子総務会長、西村康稔選対委員長とともに玉ぐし料を収めた。高市首相は、首相就任前は毎年恒例の春秋例大祭と合わせ、終戦記念日にも欠かさず参拝しており、首相になっても参拝し続けると語っていたが、流石に険悪な日中関係や韓国との外交関係を考え、本人としては不本意ながら今年は参拝を差し控えた。
81年前と言えば、湘南鵠沼から千葉県勝山町(現鋸南町)へ疎開も考えて転居し、勝山国民学校(現小学校)へ入学してまだ日も浅かった。鋸山方面からしばしば米軍航空機が飛来し、その都度自宅近くの山に掘られた横穴式防空壕へ逃げ込んだ。日本の形勢も日に日に悪くなり、校外学習で先生に連れられクラス仲間揃って校門を出てからしばらくして、米軍戦闘機編隊に襲われかかったこともあった。それでも暑い夏休み中は、昼間は港の近くの浜辺で海水浴をしていた。そして8月15日からしばらくして父親から、怖い戦争は終わったから安心しろ、もう防空壕に隠れることもないと言われた。それが終戦だった。主要道路を戦車が走行することもあったが、終戦となってからしばらくして米軍兵士の姿を見て彼らの眼が青いことに驚き、母親に話したこともあった。
とにかく怖かった戦争が終わったことで、周囲は明るくなったような気がした。その後、小学校5年生時に朝鮮戦争が始まり、教師から度々朝鮮戦争について講義をしてもらった。戦争に首を突っ込みだしたのは、60年安保闘争終了後にベトナム戦争反対運動に参加してからである。戦争の実態を知ろうとひとりで1967年ベトナム戦争が激しい中を南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチーミン)へ出かけ、何度か怖い思いをした。それから第3次中東戦争、アデン独立戦争、9.11テロなどと少しずつ戦争を臨場感を通して知るようになった。そして、その過程で戦争の残酷さと恐怖を知り、一層戦争に反対する意思を強く持ったのである。戦地で危険な目に遭ったこともあり、また戦友会の戦跡巡拝団とともに戦地を訪れ、戦友の方々の辛い気持ちをお察しすると反戦の気持ちは益々強まった。
その点では、自民党政権が年々戦争へ近づきつつある政策には、絶対反対である。自民党政権はもとより、国民の生命を預かっている国会議員の間には、戦争体験がなく戦争の怖さを実感で分からず、戦争を世間話のように捉えているのが許せない。彼らが、戦争は酷いもので残酷であり、社会も個人の人生も壊してしまうということを知らないのが心配でならない。
宮城県柴田町のホームページに、「~正午になりましたら、戦没者を追悼し、平和を祈念して、それぞれのご家庭や職場で1分間の黙祷をお願いします」と訴えていた。NHK・TVで中継された「全国戦没者追悼式」に合わせて1分間黙祷をした。もう戦争とは永遠におさらばしたい。
7032.2026年8月14日(金) ルパング島帰りの小野田寛郎元少尉
逆行した台風15号の置き土産だろうか、昨日千葉県を中心に関東地方を襲った大雨は、雷雨を伴う豪雨となって各地に大きな爪痕を残した。県内では、南房総地方を除いて道路の冠水、道路遮断、鉄道運行停止などで県民ばかりでなく千葉を訪れた多くの人々を戸惑わせた。その典型は、最高のレベル5「大雨特別警報」や、同じくレベル5「土砂災害危険警報」が発せられ、東京~成田間の鉄道や、定期バスが運休したこともあり、海外から到着した内外の搭乗客が、空港から出かけられず、7千人もの人たちが空港ロビーに寝泊まりする事態となった。都内23区にも警報が出されたが、地域によって、また時間によって降雨の激しい度合は異なった。
実は、昨晩も南房総方面以外は、広域的に豪雨に襲われ上空から見るとどこの市町村も道路が冠水していた。特に千葉市内の幕張小学校は母校であり、元々幕張は土地が低いだけに校庭も水浸しではないかと気をもんでいる。
気象庁は、千葉県の昨日の記録的大雨を「令和8年8月千葉豪雨」と名付けることにした。このように豪雨に名称を定めるのは、「平成29年7月九州北部豪雨」以来のことである。
今日も千葉県には大雨が降っているようだから、県民の気持ちも落ち着かないだろう。とんだお盆休みとなってしまった。
さて、一昨日夜NHK・BSで「小野田少尉帰還」が放映された。フィリピン・ルパング島ジャングル内で戦後29年間も終戦を知らずに生き抜いてきた小野田寛郎元少尉のドキュメンタリーである。実際には、小野田は終戦を知ってはいたが、根っからの職業軍人だったので、上官の命令がなければ終戦を認めないと考えたようである。偶々日本人青年とジャングル内で出くわしたことが帰国への道を開いたが、上官から軍務解除の命令がない以上公に姿を現さないということから、元上官をフィリピンに派遣し、目の前で上官が終戦と命令解除を通達して軍人から一般人に戻った。
小野田が帰国したのは1974年3月12日であるが、その日私は偶々ミヤンマーへ向かう陸軍航空飛行第12戦隊の第一次南方基地慰霊団とともに羽田空港にいた。その時、小野田と鉢合わせした。翌朝のスポーツ紙に「往く人、帰る人」の見出しで紹介された。
ひとりの軍人として小野田は、予備士官学校、中野学校などを経た生粋の軍人だけに、戦後もフィリピンの山中で現地人とは接触せず、食糧用に彼らの家畜を殺害したことなどが、現地の人からは厳しく非難されていた。しかし、誰の援助も支援もなくひとり野外で生き延びるには、彼のような破天荒な意志と行動力がないと難しいだろう。いろいろ批判も受けたようだが、帰国しても当時の日本で生きて行くために自力では難しいと判断し、僅か半年後にはブラジルに渡り、自ら牧場を経営しながら、その後しばらくして日本で1年の半分を過ごし、その時間を日本の子どもたちにキャンピング生活を指導した。普通の日本人の生き方とは、考え方もスケールも大きく異なる。
厚生省の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に関わっていた当時、サイパンで救われた横井庄一とは軍人として、また人間として大分違うということを団長だった厚生省課長から随分聞かされたことを想い出す。戦争によって得をした国、人はほとんどいない。むしろ悲しみを味わった国や、人がその何倍も多いかということを考えるといつも戦争に顔を向けている人間がいるのが不思議なくらいである。
明日は81回目の終戦記念日を迎えることになる。