「干天に慈雨」と呼んだら好いだろうか、朝から久しぶりに霧雨のようなか細い雨が降っている。一方で、北九州地方や、北陸・東北地方には豪雨が襲い土砂崩れや河川の氾濫などにより、甚大な被害が出たばかりである。
東京では、先週火曜日に突発的な雨が降ったが、このところまったく降雨がなく庭木に水をまかなければと考えていた矢先に、正に恵みの雨と言える。夕方には止んでしまったが、好いお湿りだったと思う。
今日の一時的な降雨程度では、水源地のダムの貯水がそれほど増えるわけではなく、まだ当分の間関東地方に出された給水制限が解除されることはないだろう。
古来農耕民族である日本人は、欧米のような狩猟民族とは異なり居住する土地にしがみついて農耕生活を営み、それがわが国を「瑞穂の国」と言わしめた要因である。それ故生活の中で農業と関係深い清らかな「水」に関わる表現や言葉が多い。ところが、イメージされる水は普通清流が多いが、どうも水に関する言葉はあまり好いイメージでないケースが多い。
例えば、「水くさい」「水をさす」「水掛け論」「我田引水」「水商売」「水の泡」「みずもの」等々、これだけ悪い意味で表されたら、日本独特の清流も汚水の濁流になってしまうのではないか。その点では、庭木に水をかけるのは、もちろん「水掛け論」とは違って樹木を蘇らせるための水である。
さて、昨年の今日、障害者施設「津久井やまゆり園」で戦後最悪と言われる殺人事件が発生し、19人の施設収容者が元施設員に殺害されてちょうど1年が経った。犯人は「身障者は生きている価値がない」とか、「障害者は死んだ方が好い」というような障害者を人間として見ていないような身勝手な暴言を吐いている。気の毒なのは犠牲者とその家族である。こういう人物が世にいる以上いつかまた同じような事件が起きる可能性がある。1施設だけの問題ではない。