3653.2017年5月14日(日) 恩師・飯田鼎教授7回忌墓参

 大学ゼミの恩師・飯田鼎教授が永眠なされて早や7回忌を迎える。以前からゼミ会員の間から最後のお別れにお墓参りをしようとの声が挙がっていたが、諸々の準備を整え、今日先生のご実家近くの千葉県鎌ケ谷市内の墓地にゼミ会員11名でお参りした。遠路秋田から来てくれたゼミ会員もいた。学生時代、そして卒業後も何度となくお邪魔しているご自宅は、東武野田線鎌ヶ谷駅から徒歩で行ける距離にある。度々訪れていた半世紀以上も前に比べると駅前の開発が進み、ちょっとした文化都市に変わった。東武線もかつては地上を走っていたが、今では高架線となった。お墓が少々分かり難い場所にあるので、駅前からタクシーを3台チャーターして、墓地で待機してもらい再び駅前に戻った。駅前の天麩羅店で皆で食べたランチも美味しかった。

 先生には、生前随分お世話になったが、とりわけ若気の至りで上司に辞表を提出した1968年、「プラハの春」の勃発によりプラハのカルレ大学留学の可能性が消え中途半端な精神状態の時、この鎌ケ谷のご自宅を訪ねてどうすべきかご相談したことを思い出す。結局先生のアドバイスを受け入れて、その翌日恥ずかしながら上司に辞表の取り下げをお願いした。

 在学中には、卒業論文の研究テーマとして、偶々社会思想家の河上肇博士の「貧乏物語」を始め幾冊かの博士の著書を読み込んでいたことから、河上肇を研究してみてはどうかとアドバイスいただいた。それが進歩的な思想にかぶれるようになった原因のひとつでもある。しかし、60年安保闘争直後の61~62年にゼミ活動をしていたころは、学生の間では学生運動や、社会運動に関心を抱き、分野的にはリベラルな専門科目を履修したり、研究する者が多かった。飯田先生のご指導のお陰で、学問の何たるかを教えていただいたと思っている。

 今日墓参に参加してくれたあるゼミナリストが、嬉しいことを言ってくれた。それは、先生が亡くなった翌2012年に、追悼文集を発行したが、その文集の出来映え、内容などを非常に高く評価してくれたことである。下手な論文集よりよほどレベルが高いとまで言ってくれた。100頁を超える冊子「飯田鼎先生追悼文集」のことであるが、今ではやゝ年老いたが、かつての秀才?たちが精一杯頭脳を傾け書いてくれた佳作集である。私自身僭越ながら編集委員長を務めて他の編集委員ともども発行に全力を傾け、何とかゼミ会員の期待に沿えることが出来た。それが評価されたことはこの上なく嬉しいことである。

 さて、振り返ってみると、このブログを書き始めて今日でちょうど満10年になる。明日から11年目に突入する。それこそ河上肇博士が、人生の来し方を振り返って「~越えては越えて来つるものかな」と呟かれた心境に少しは近づいたのかなと思っている。

 とにかく、10年の間自分なりに毎日1日も欠かさずよくぞ書き続けて来られたと思う。これも飯田先生が文章を毎日書く癖をつけるよう口酸っぱくして言っておられたお陰ではないかと思っている。

 今も恩師への感謝の気持ちは消えることはない。それでも今日7回忌のお参りを済ませて恩師にゼミでご指導いただいたことに対して、ささやかなお返しとしてどうやら一区切りがつき、役割を終えたような気がしている。

 ところで、今日は母の日であり、同時に仏滅である。吉より凶が優ったのか、しばらく鳴りを潜めていた北朝鮮が、早朝突然弾道ミサイルを発射した。今度のミサイルは今までより格段に性能が良いようで、高度2000㎞まで達し、グアム、ハワイなどアメリカ領土内を射程距離に捕えるようだ。

 アメリカと中国の圧力を受けて危機感も瀬戸際に追い込まれ、しばらく北朝鮮はおとなしくしていた。そこへ文在寅・新韓国大統領が北朝鮮との融和策を打ち出したことにより当分緊張状態から解放されるだろうと幾分楽観していた矢先に、突然ならず者国家がこのような狂乱的な行動に出た。しかも、中国が今年最大の國際イベントと位置付ける「シルクロード経済圏構想(一帯一路)」初の國際会議が、130ヶ国以上の参加を得て開催された初日だった。メンツを潰された中国はどういう対応をするだろうか。

 それにしても金正恩支配国家体制は、どうにも救いようがない。

2017年5月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com