今日は祝日の一日、憲法記念日である。昭和21年11月3日に公布され、翌22年5月3日に施行された。この時も幣原喜重郎内閣周辺にもガヤガヤと異論、反論があったと聞く。11月3日の方が主旨から考えて良いとの意見もあったが、明治天皇の誕生日、明治節に新憲法を公布することに懸念が表明され、連合国総司令部(GHQ)にも了解を得たうえで、現在の憲法記念日が制定されたようだ。11月3日なら私の誕生日でもあり、私自身誇らしい気もするが、それが文化的な「文化の日」となったことで反って良かったとも思う。仮に11月3日が憲法記念日となれば、誕生日に改憲だ、護憲だと対立する意見がぶつかって静かな誕生日にならない。
終戦の翌年、小学2年生の授業中に、担任の先生から日本で今一番偉い人は誰かと質問された時、同級生は皆天皇陛下と答えたが、私ひとりだけが総理大臣と答えてその通りと褒められたことがあった。それはタイミング良く7歳の誕生日に父から新しい憲法というものについて聞かされ、その時総理大臣について聞かされていたからである。こうして初めて憲法を身近に感じたのが、疎開先と言っても好い房州の田舎町だった。
今日の施行70年目に当たる憲法記念日に際し、日本各地で改憲について賛成、反対の集会が開かれている。この熱気も年々ヒートアップするばかりであるが、このところ安倍政権が一強多弱を背景に改憲派の声は益々強まっている。世論調査でも改憲派が護憲派を上回り始めた。それには、中国の尖閣諸島進出、緊迫する北朝鮮情勢、地震頻発に伴う救助・救援活動、などで自衛隊への強い信頼感と依存度から、現在の私生児的扱いから国家が正式に認める存在にするべきだとの声に背を押されていることが大きいと思う。
その点で憲法改正に際して、最大の課題は自衛隊の存在をどう取り扱うかではないだろうか。憲法第9条第1項は、「戦争の放棄」を次のようにはっきり打ち出している。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。第2項では「戦力の不保持」を以下の条文に挙げている。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。実際1973年9月、札幌地裁は「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」と判断した。だが、札幌高裁で覆り、最高裁はこの違憲云々については判断を示さなかった。従って自衛隊が違憲であるか否かについては、法的にはペンディング状態にある。現状は装備などを見れば、自衛隊が軍隊であることは明白であり、是非は別にして事実として自衛隊の存在は明らかに憲法第9条第2項の「戦力の不保持」に反している。
このように、過去において警察予備隊、保安隊、自衛隊と名称を変えながら国民の目を騙しつつ既成事実化して今日の自衛隊に至らしめた国のやり方は、姑息で卑怯であると言わざるを得ない。このことが、大木の枝葉の一部改訂を根っこからの大改訂にやりかねないと国民に不信感を与えているのである。
自衛隊が存在するから中国など周辺国の脅威からある程度守られていることは、分からないことはない。だが、どう考えても現在25万人もの隊員を抱える自衛隊戦力が憲法に違反していることは明らかである。
今日安倍晋三首相は日本会議の改憲集会で、「2020年に新しい憲法が施行される年にしたい」とビデオ・メッセージではっきり述べた。国土防衛のために軍隊を配備すべきなのか、或いは、災害救助活動に献身的に貢献している自衛隊の位置づけをこのままにしておくのかという点が頭の痛いところである。
改正するなら、はっきり改正条文を開陳すべきである。そのうえで議論を深めて結論を導き出すべきではないか。改正賛成派の中には、全面改正ではなく部分改正を望む意見が多いと聞く。だが、一旦門戸を開けば家中ひっくり返されるのではないかとの自衛隊誕生の苦い思いだけは、もう味わいたくないものである。
他に、改正賛成論者にはGHQから押し付けられたから日本人が草案する日本独自の憲法を作るべきという人もいるようだが、この意見には賛同出来ない。それは、アメリカから100%強制されたというのは間違いで、原案は確かにGHQの意向によるものである。しかし、その後GHQに伺いを立てながら日本人憲法学者が責任を持って決定したものであるし、かつてNHKがその内幕を啓発するようにドキュメンタリーとして制作したことがある。更に言えば、アメリカが押し付けたからダメというのは、差別的な発言で、良いものは良いし、それがそこに根付けば敢えて反対を唱えるのは、むしろおかしいのではないだろうか。
とにかく安倍首相の憲法改正についての本音を知りたいものである。