父の七回忌を菩提寺・宝仙寺の太子堂で行った。改めて月日の経つのは早いものだと実感する。存命なら6月の誕生日で満百歳になるところである。昨日から二男が新潟から来ていて、長男は家族5人で大挙やってきた。晴れてはいるが外は格別に寒い。東京地方は最高気温が5.6℃で今年最低だそうである。
施主の兄・紀男夫婦以下子ども夫婦、孫、ひ孫合わせて19人が参列した。当初は親戚にもお声をかけようとの気持ちがあったが、この寒い中をわざわざご年配の方々に遠路お越しいただくのが憚られたので、結局直系の親族だけで内々に済ませることにした。
聞くところによれば、近年は家族だけでささやかに法事を行うことが多いという。亡くなった父も、いまは処分してしまった鵠沼の広い実家でひとり晩年を過ごした。母が割合早く他界したので、母が亡くなった直後は少々ショックを受け、取り乱したりしていたが、そのうちに立ち直って良い自然環境の中で、地域社会とも円満にお付き合いしながら静かで自由な生活を送っていた。近くに住む弟や妹がよく面倒を見てくれたお陰で、私には介護や世話の面で煩わしいと感じるようなことはなかった。生前の父は割合わがままだったが、明治生まれの男は昔気質の人が多く、それだけに生きていくうえで、戦争等により人知れず辛酸を嘗めたこともあったと思う。軍隊で北朝鮮の平城にも行ったし、会社では転勤も多く、母も大変だったと思う。
私自身は性格的に父とあまり合う方ではなかったと思うが、何かにつけ困った時には、やはり一番頼りになる身近な人間として、相談することも多かった。
一番印象に残っているのは、2年間も浪人して大学入試を前に、ダメだったらあと1年浪人したいと言った時、これ以上社会に出るのが遅れると取り返すのが大変だから、浪人は2年まででどこかに決めろと言われたことと、父の紹介で入社試験を受けていながら、面接試験で面接官が戸惑うような発言をした挙句に失敗して、自業自得のことをやったのだからもう面倒はみない。自分で就職先を探せと言われたことである。
いずれも当然と言えば当然のことで、その後自分が何かを決断する時に、ふっと思い出すことがある。父も戦前戦後を通じて会社勤めも忙しかった中で5人の子どもを育てたので、現在と違って一人ひとりに過保護な育て方は出来なかったが、この年になってみると、やはり厳しさと愛情を持って接してくれたなあと感謝の気持ちが湧いてくる。心より父の冥福を祈っている。 合掌