一昨日4月3日は、韓国では軍や警察による住民虐殺があった「済州4・3事件」発生から満60年に当る記念日だったそうだ。式典には1万人が集まった。この事件のことは寡聞にして知らなかった。今朝の朝日新聞によれば、犠牲者数が2万5千~3万人と推計される大虐殺事件である。ひとつの都市が地上から消された暗黒事件だ。難を逃れて日本へ脱出した人々も多く、約3千人が日本へ逃れ生活した。戦後間もない昭和23年当時のことで、日本も韓国も終戦直後の混乱状態の中で事件を注視する余裕はなかっただろう。自分自身まだ南房総の小学4年生へ進級したばかりのころで、両親の苦労も知らずに近所の同級生と山野を駆け巡っていたころである。
米ソの対立が徐々に激しくなり、韓国内でも共産ゲリラによる宣撫工作が左右両勢力のしのぎを削るスパイ活動へ発展させ、2年後の朝鮮戦争勃発へと突き進んで行く。日本でも共産党の息がかかった労働組合の強大化により、右翼勢力や警察が共産勢力や労働組合幹部らを追い回していた時代だった。ちょうどその頃相次いで社会的事件が発生した。昭和24年に連続的に起きた、下山事件、松川事件、三鷹事件等一応の決着を迎えたと言われているが、現在でもその裁判に問題ありと言われ、最終的な決着はついていないように思う。子ども心にもそれらの大事件は強く印象に残った。
それが、韓国ではこの「済州4・3事件」は風化していない。ことの始まりは、左翼勢力、南朝鮮労働党党員らが、アメリカ軍政が進める南朝鮮だけの総選挙に反対して深夜武装蜂起し、警察などを襲撃した。鎮圧のため朝鮮本土から警察や右翼団体が増派され、対立が激化して無関係の住民らが軍や警察に捕らえられ、激しい拷問を受けたり、処刑されたりした。
金大中大統領、ノ・ム・ヒョン大統領の時代になって、やっと韓国政府は調査を始め、犠牲者遺族に公式謝罪した。長い間に亘ってベールに包まれていたのは、韓国では軍事政権が長期に亘って続いていたからである。歴史の汚点が解明されるのは、これからだろう。それにしても多くの犠牲者を生んだ、このような残虐な事件が戦後の混乱期の日本にはなかっただけでも救われる思いがする。