昨日の多摩大生とのやりとりについて久恒啓一教授にメールでお知らせした。早速丁重に大学事務局とも相談されるとのご返事を頂戴した。私の一喝ぶりも見てみたかったと軽いジョークも添えてあった。
木下順二作「オットーと呼ばれる日本人」を新国立劇場で鑑賞した。なかなかの力作に会場も盛況で、先日の日経、朝日夕刊紙上にも好意的な演劇批評が載っていた。初めて上演されたのが、1962年だから「60年安保闘争」直後である。新国立劇場の中劇場というのは、初めて入ったが入口へのアプローチといい、劇場内の作りといい、さすがに国立劇場だけに立派で、中々格式もあり雰囲気も洒落ている。
主役を吉田栄作と紺野美沙子が演じているが、いままでのイメージから考えると吉田はカッコいい青年という一面だけが強かったが、想像していた以上に演技派で案外やるものだ。
宇野重吉、瀧澤修、清水将夫らによる初演以来半世紀近くの間に、幾度が上演され、「夕鶴」と並んで今や木下順二の代表作となった「オットーと呼ばれる日本人」だが、やはり一言で言って「重い」という印象は拭えない。戦前の暗い時代におけるスパイ事件の裏面史を辿っているので、ある程度それもしようがないか。九分どおり埋まった観客は、あらすじを理解したうえで劇場に来ていると思うが、上演時間の長さ(3時間40分)もあり、居眠りと中途退室を見て少々残念な気がした。周囲の男女学生は例によって幕間はおしゃべりに興じていたが、つにに最後まで我慢していられずに席を立った。
ゾルゲ事件と言えば、友人、山崎洋さんの父上(ブランコ・ド・ヴケリッチ氏)の名がしばしば挙がることもあり、私自身大いに関心を持っている。そのゾルゲ事件をモチーフにしており、登場人物や時代背景、ストーリー性等は充分理解しているので、どういう展開になるのかを楽しみにしていたが、珍しい舞台操作と使用機材がユニークで中々面白かった。結末にジョンソン(ゾルゲ)の逮捕や、絞首刑に言及することもなく、日本人としての矜持を持ち続ける、吉田扮するオットー(尾崎秀美)が、「ぼくは、オットーという外国の名前を持った。しかし、正真正銘の日本人だったということだ。そして、そのようなものとして行動してきたぼくが、決して間違っていなかったということ、そのことなんだ」と叫ぶ台詞に木下順二の気持ちと、この芝居の訴えるポイントが凝縮されていると感じた。