390.2008年6月7日(土) ゾルゲ事件関連シンポジウム

 昨日の「オットーと呼ばれる日本人」に続いて、今日は駿河台・明治大学リバティータワーで開かれた「尾崎秀実と中共諜報団事件」と題するゾルゲ事件関連のシンポジウムに出席した。いずれもゼミの友人・池田博充くんに案内をもらったものだが、読売新聞に告知されただけあって参加者が殺到して、今日になって大学内の会場を変更したほどである。

 中共諜報団事件というタイトルも穏やかでないし、いままで聞いたことがない事件だ。参加者は研究者や運動家等、専門的な学習者が多いようで、ほとんどが高年齢層である。若い人はほとんどおらず、70歳以上の人が多かったように見受けられた。

 この諜報団事件というのは、中心になって活動していたのが中西功、西里タツオだった。いずれも上海・東亜同文書院卒業者であるが、中西氏の娘さんの準子さんとは高校の同級生で一年生の時は同じクラスだった。高校生のころは、父上は共産党の参議院議員だった。準子さんも頭脳明晰で横浜国大工学部、大学院で学び、東京工大と横浜国大で教授を務め、いまも公益の財団法人で活躍しているはずである。

 講師の渡部富哉氏(社会運動資料センター代表)は、まもなく80歳になろうというのに大きな声で信念を持ってメリハリの効いた話をされた。朝鮮戦争当時は日本共産党の幹部として華々しく活躍していたようで、官憲による弾圧にも負けず、初志を貫徹されたことから自分の信念と行動に自信を持ち、転向者とか、裏切り行為に対しては厳しい立場をとっていた。

 特に、川合貞吉に対してはその言動に対して、とりわけ厳しく絶対許すまじとの姿勢で、徹底的にその行動を糾弾していた。木下順二の「オットーと呼ばれる日本人」も、川合貞吉の「ある革命家の回想」を下敷きにしているために嘘が多いという。特に、芝居の中の名台詞、名場面はことさら嘘が多いと手厳しい。単にそう言うだけではなく、それらには整合性が伴わないという。スメドレー女史を交えた会合でも、その時期にスメドレー女史が実際に上海に滞在していなかったことは証明されているとも言っていた。

 川合が尾崎に世話になっていながら、特高に供述したことは、尾崎の逮捕、それと引き換えに自分自身の減刑につながり、とても許せないと声高に話していた。川合貞吉と彼の著書についてあまり知らなかったことは恥ずかしい限りであるが、ゾルゲ事件に対してまた新たな暗闇に入り込んでしまったようだ。

 映画監督だった篠田正浩氏も映画「スパイ・ゾルゲ」を撮った体験を話された。そもそもゾルゲに対する関心を持った経緯、波乱の昭和という時代と岐阜という故郷についてご自分とのつながりを話された。

 篠田氏の話の中で印象的だったのは、戦前は売国奴とまで呼ばれた尾崎が戦後は一転して殉教者のように崇められたことだという。更に、昭和7年から23年までの足掛け17年間で、7人の総理大臣が非業の死を遂げた昭和という時代は異常であり、それだけ昭和が激しい時代だったということを納得させられたと述べたことであった。

 個人的には、紙に書いて質問した。山崎洋くんから聞いたが、彼の母上が初めて能楽堂でブケリッチ氏に会った時は洋装だったが、映画では和服を着ていた。これについて、かつて小中陽太郎さんへ事実を話した。小中さんから折り返し篠田氏の答えが返ってきた。篠田氏もそう思ったが、衣装担当の森英恵さんが和服に拘ったのでそうなったと。今日改めて聞いてみた。森英恵さんのことは話されなかったが、山崎さん母子からそう言われた時、自分も洋装だと思ったと言い、笑いながら良い思い出だったと話された。

 この2日間は、偶々ゾルゲ関連の事象に触れてしまったが、奥の深い事件だったように思う。

2008年6月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com