貧しい人々を救済する活動に尽くしたとしてノーベル平和賞を受賞した修道女マザー・テレサが、ローマ・カソリック教会で「聖人」に認定され、昨日バチカンのサンピエトロ広場で行われた列聖式には多くの信者が集まった。
10日の淑徳大学講座で保岡孝顕講師の講義を聞くことになっているが、保岡さんはバチカンともツーカーの間柄でもあるので、様子を尋ねてみたいと思っている。
実はマザー・テレサ女史が亡くなられた1997年9月5日、偶々私はカナダに滞在していてケベック・シティからトロントへ移動した時その死を知った。しかし、6日前にドラマチックにもイギリスのダイアナ妃が不慮の事故死をされた。ダイアナ妃はパリ・セーヌ河沿いで8月31日早朝に突然の死を遂げたが、当時私が滞在中のバンクーバーでは時差の関係から西海岸ではその日は8月30日夜半だった。私は図らずも遅れた時差のせいでダイアナ妃の死を公式に8月31日とされている事故当日より1日早い8月30日に知るという珍しい体験をすることになった。
そして1週間後に引き続き世に知られた著名人のひとり、マザー・テレサ女史の死を知ることになったのである。それ以来偉大な修道女・マザー・テレサ女史について関心を抱くようになった。テレサ女史はインドのコルカタ(カルカッタ)地方で貧しい人々を開放するために献身的な活動を続けておられたが、元々はマケドニアの首都スコピエの出身だった。
世の中には他人のために自らの利得や自由を投げ捨ててまでしても奉仕活動する奇特な人がおられるが、そこまで自らを捨てて他人のために尽くす真心はどこから生まれるのだろうかと思うことが時にある。マザー・テレサ女史を知るにつけ、彼女の行為は普通の人間にはとても真似できるものではないと思う。世知辛い世においてそうまでする人々がいる反面、彼らとは正反対の言動を行う人たちがいることは周知のことである。利己主義、とりわけ自分の利益・利得のためにしか行動しようとしない人々(国家)である。その点では、訪れたばかりのキューバのフィデル・カストロやチェ・ゲバラらの行動は国民のために行ったものであることを実感した。
さて、今日北朝鮮がミサイル3発を発射し、日本海のわが国の排他的経済水域へ打ち込んだ。昨日、今日の2日間に亘って中国・杭州で開催されたG20サミットの開催に抗議するかのような駄々っ子ぶりである。今年に入ってから13度目、21発のミサイル発射である。世間から相手にされなくなった腹いせを外国へ迷惑をかけることによって憂さ晴らしをする心中は、普通の常識ではとても考えられない。
今日の会議で安倍首相は北朝鮮のこの暴挙について強く非難したが、思考能力が極端に劣化した北朝鮮のお坊ちゃま・金正雲総書記には理解できないようで、今後も同じような行為が繰り返される恐れがある。
いつまでこんな状態が許されるのか。現状では不満とイライラが高じるばかりである。現地のメディアからの報道では、安倍首相の非難に対して各国の反応が充分伝えられていないような気がする。この辺りも最近の日本のメディアらしく、的外れの報道が多いことを表しているのだろう。これも別の意味で問題である。