466.2008年8月22日(金) 良かった!「開高健記念館」見学会

 茅ヶ崎にある「開高健記念館」を酒のペンクラブとして訪ねることになった。かねがね「ベトナム戦記」でその行動力に敬意を払っていた作家であり、「第1回開高健ノンフィクション賞」に応募したいきさつもあり、一度訪れてみたいと思っていたところだ。

 3時前にJR茅ヶ崎駅で待ち合わせて、タクシーに分乗して記念館へ向かった。菱沼海岸にほど近いところにあり、入口から海の方を見通すと、僅かに烏帽子岩の頭が覗ける、静かな住宅地の中にある。入口では、お世話役の吉沢一成・日本ペンクラブ事務局長が出迎えてくれた。2003年に開館して、週3日のオープンで年間6千人の入館者だという。個人の記念館の運営が難しくなっている時に、ここはまあ安定しているらしい。吉沢さんは、開高健に憧れてサントリーに入社したほどの開高崇拝者で、家族とも親しいご交誼を続けられた。作品についても隅から隅までよくご存知で、加えて生前住居だったころに、出入りして総合的に建物、書籍、遺品、家財道具等についてよく心得ており、開高さんが亡くなった後、夫人の牧羊子さんと、また娘さんが亡くなった後、杉並の土地・建物とこの土地・建物を含む財産管理を任され、この記念館を作るに当って、茅ヶ崎市との交渉役も務められた。室内には山のように書籍が積まれていて、片付けるのが大変だったと苦労話をされた。牧羊子夫人も整理が苦手なのか、そのままにしておくことが開高の面影を残すと思われたのか、主人のいなくなった書斎・居間が夫人の亡くなるまでそのままだったという。

 どうしても作品を通して一面的にしか見ないものだが、直筆原稿を見て見かけに依らず開高が几帳面な性格であったことが想像できる。1枚の原稿用紙に1文字ずつきちんと万年筆で書き込んで、加筆や訂正があまりない点で読みやすい原稿であることが分る。性格、生活態度、くせ、羊子夫人との関係、等かなりの部分も知ることができた。朝日新聞社刊「ずばり東京」が、大当たりしてご褒美に何を上げようかと聞かれたとき、即座に朝日の取材記者としてベトナムへ派遣して欲しいとねだった。それが、ベトナムと関わるきっかけとなり、ベ平連を結成してベトナム反戦運動にのめりこむ結果になった。ご夫妻で参加された小中陽太郎さんが、NHK時代に撮った「米空母『イントレピッド』から脱走した4人の水兵」の記者会見のフィルムを、小中さんが持参され、解説付きで拝見することになり、なお一層開高健の一面が映し出された。開高健のベトナムにおける戦場体験は、所属した米陸軍歩兵大隊がベトコンの襲撃を受け、開高は秋元カメラマンと命からがら脱出するという厳しい臨場体験を味わった。

 その後、ある時期を境にベトナム反戦から次第にフィッシングに足場を移していった。これについて共産党辺りは挫折したとか、背を向けたとか言っていたようだが、小中さんのご意見は、元々開高は作家なんだと結論づけていた。屋内は少しずつ増築されて、開高の趣味の世界が居つくようになり、中々興味深い。

 通り一遍の解説ではなく、開高本人を熟知した文学者が生活習慣を交え、説明してくれたことにより、普通とは違う感覚で記念館を見学することができた。とても良い見学会だった。

 終わって駅近くの小料理屋で、全員で愉しい会食をした。13名の参加者が異口同音に言っていたことは、酒のペンクラブも時にはこういうイベントがあってもいいのではないかということだった。

 帰りに茅ヶ崎駅でJRに乗ろうと思ったところ、東横線が人身事故で運転停止ということなので、珍しく湘南ライナーで恵比寿駅へ向かい、東横線は中目黒から逆方向で帰ってきた。

2008年8月22日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com