小田実さんが亡くなって1年2ヶ月余りが過ぎた。今日神田小川町で「小田実没後1年記念講演会」が催された。ざっと3~4百人が来られていた。そのほとんどが40歳代以上の方々で、あれだけ情熱を注ぎ込んで利他的な平和運動に関わった人だが、今の若い人たちの間では煙たいのか、知らないのか、ほとんど若者の姿が見られなかった。
スピーカーは3人で、コロンビア大学名誉教授・ドナルド・キーン氏が「『玉砕』を翻訳して」と題して30分、葬儀委員長も務めたベ平連仲間で哲学者の鶴見俊輔氏が「文学者としての小田実」を30分、最後に小田を尊敬していたという作家の澤地久枝氏が「『河』を読んで」のテーマで1時間たっぷり話された。
キーンさんは1958年にハーバード大学で小田と会ってから40年経って、突然小田から「玉砕」の原稿が送られ翻訳する羽目になった。太平洋戦争中米軍の通訳として、玉砕の島、アッツ、キスカで軍役に就いていたギーンさんは、日本軍守備隊が10倍の数の米軍に突っ込んだ玉砕を目の当たりにしたという。
翻訳に当たっては、日本軍の習慣と米軍のそれとの違いにしばしば困惑した。日米で異なる軍律、上官への言葉使い、部下に対するビンタ、アメリカ軍について悪く書かれていること等で悩んだが、英訳版がコロンビア大学から出版されてもアメリカ人読者から抗議や、非難はないそうである。
鶴見先生は、韓国人義父アボジとの会話や、コミュニケーションについて話された。小田は平和運動に忙しく関わっていたが、作家としてのタレントも抜きん出ていた。2008年の日本人にはないものが、小田の姿勢の中にはあった。1961年、29歳の時発表した「何でも見てやろう」以来、小田は個別にものごとを受け入れるのではなく、まとめて受け入れ、自分の手記の中に押し込んだ。鶴見先生が戦時中ジャワ島の酒保で入手した呉茂一訳のギリシャ文学が、「玉砕」にエコーを送っている。故呉茂一先生は高校時代の友人・呉忠志君の父上である。
「終らない旅」が、小田が鶴見先生へ贈った最後の本になった。その時2人で本を書こうと約束したが、ダメになった。最後に小田を評して、「思想史の中の小田実」「文学者としての小田実」の他に、「組織者としての小田実」を加えたいと結ばれた。
澤地さんは、「河」ばかりでなく、小田の最新書についてご自分なりの感想と解説をされた。「終らない旅」については、ベトナム戦争を背景に愛とか、ラブシーンを上手に描いているという。それは、小田が現場に拘ったからで、ベトナム戦争にも随分関わった。この本の中で孫文の言を巧みに引用している。「日本よ、西洋の覇道を歩むな。王道を歩め」。「玉砕」だって、実際は文中では玉砕していないが、場所は玉砕の島・ペリリュー島であり、小田はわざわざペリリューにまで行っている。僭越だが、私もペリリューとアンガウルには行っている。
小田は行動の中で文学の技を磨いていった。多忙な中で書いたボリュームは並ではない。「河」は未完のままだったが、8年間で6,000枚は毎日100枚書かなければできない。寸暇を惜しんで書き続けたことが推察できる。自分が仕えた五味川純平は、ヒット作「人間の条件」に10年間を費やし、原稿は3,000枚だった。