565.2008年11月29日(土) ブケリッチ家(武家利一家)のお墓参り

 セルビアの友人、山崎洋さんと富士霊園へ彼のご母堂の墓参に行った。今日は偶々明治大学でもゾルゲ事件のセミナーが開かれることになっている。山崎さんはそちらからも講演依頼をいただいたようだが、当初の予定通り母上のお墓参りに行くことになった。私とは自由が丘駅前で待ち合わせて車で出かけ、富士霊園までちょうど2時間だった。

 行く道すがら車内でいろいろ話をしたが、やはり昨日の麻生・小沢党首会談について内容的に情けないという点で意見の一致をみた。また、彼が母上の強い希望で学んだ玉川学園小学校時代の自由な校風について語ってくれた。玉川学園と言えば、玉川学園駅が社会人としての最初の仕事場だったところで、その後業務上も玉川学園と関係を持つことが出来た奇しき因縁がある。何でも母上は山崎さんが苛められないような教育環境の良い学校を選んだそうで、その意味では確かに玉川学園は贅沢なくらい、自由で立地も自然に恵まれ初等教育の教育環境としては理想的だったかも知れない。ただ、あまりにも自由な教育に、母上が今度は進級・進学について心配され、中学は玉川学園には進学しなかった。終戦直後の貧しい生活の中で母上のしっかりした教育観には敬服せざるを得ない。

 富士霊園は季節的に紅葉もまだ残っておりシーニックビューという点では申し分のない環境だが、近くの富士スピードウェイから時折聞こえてくるレーシングカーの轟音が、折角晩秋の季節感を匂わせてくれる雰囲気をぶち壊しているのが惜しい気がする。

 墓地は山崎家と親戚のお墓がサイド・バイ・サイドで3つ並んでいる。2つのお墓はご親戚のものである。山崎家の墓石には、「武家利一家の墓」と刻字してある。父上ブランコ・ド・ブケリッチ氏が存命中から使用していた日本名だそうだ。名前の下に床しそうな紋章がある。聞いてみると父上の親戚が得たオーストリア貴族の称号だそうだ。あの恐れ多いハプスブルグ家の紋章である。一昨年五月にご母堂が亡くなられ納骨する際、かつて夫であったブケリッチ氏から多量のラブレターをもらい、それを大切に保管し、一緒に埋めて欲しいとの遺言があったので墓石の下に母上の遺骨と一緒に埋めてあるそうである。生前母上は私にもそんな話をされておられた。ともに生活した期間は短かかったが、お2人は深い愛情によって結ばれていたのだろう。それが死後の世界でも一緒にいたいという気持ちにさせるのだろう。心打たれる愛情物語である。私も母上の墓前に額づき心からお参りさせていただいた。

 その後少々早かったが昼食をしようと近くの富士小山ゴルフクラブのレストランへ立ち寄ったところが、ゴルフクラブのメンバーでないからと断られてしまった。仕方がないので、御殿場へ向かった田舎風のレストランへ立ち寄ったが、ここで「麦とろ」をいただき、久しぶりに珍しい昼食にありついた。権威主義のゴルフ場のレストランから拒絶されて反って日本的なものを、山崎さんにご馳走することが出来てむしろ良かった。

 オバマ次期大統領、グルジアとロシアの関係、コソボ問題、北オセチアと南オセチアの帰属権、等々について山崎さんの考えを聞かせてもらった。やはりグルジアや、オセチア問題については私がとても知ることが出来ないくらい情勢を深く把握しており、こういう民族問題はやはり近くにいないと真実を知ることは難しいということを実感した。彼は相変わらずよく勉強している。

 先日山崎さんがセルビアから書いてくれた手紙に、「古事記」のセルビア語訳が完成直前に、約束の資金を外務省外郭団体が支出してくれないことになったことを嘆いていたが、そのセルビア語訳版が完成して、その実物を見せてもらった。ベオグラード大学セルビア人大学院生3人の協力を得て、山崎さんが責任監修された。ハードカバーの中々立派なものである。表紙の絵は、わざわざ伊勢神宮所蔵の大きな屏風絵を撮影した。天照大神が背後に金鵄を従えた、よく知る絵である。外務省があまり乗り気でない日本文化の紹介をバルカン半島のセルビアでしようという、一種の草の根運動が挫折しないよう願うばかりである。

 それにしても外務省というのは、本業でも充分国民の期待に応えていないが、こういう地道な文化事業にもあまり熱心でない。それに対して地道に活動している友人を誇りに思う。山崎さんは奥さんのお里である静岡へ向かうので、御殿場駅へ送ってからいろいろ考えながら東名道を帰宅した。深く考えさせられた思い出深い一日だった。

2008年11月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com