3382.2016年8月16日(火) 野武士軍団の元西鉄・豊田泰光さん逝く。

 「ポケモンGO」の降って湧いたような人気で世界中のゲーム愛好家が市街地でルールも弁えず、交通事故を起こしたり、他人の私有地に入り込んで問題を起こしたり、使用上の問題を呈したり、巡り巡って一時のブームは去ったかのような下降人気である。新商品を開発した任天堂も株価が暴騰したり、急落したりして対応も思うように行かず振り回されているようだ。あれだけ売れた人気商品を開発しても、長期的に見ると必ずしも会社の発展に寄与するかどうかわからないところはゲーム感覚と変わらない。経営者の苦労も並大抵のものではないようだ。

 2009年ごろのイギリスの「インディペンデンス」紙にこんなことが書かれていた。凡そ下らない暇つぶしの最たるものは「カラオケ」で、次いで「24時間スポーツチャンネル」、「ゲーム機」、「携帯電話」の順だという。つまりいま流行りのスマホや「ポケモンGO」は、大分前からいずれ姿を現す下らないものだとすでに見透かされていたようなものである。

 さて、いま過熱しているオリンピック報道の影に隠れているようだが、例年通り夏の高校野球も熱戦を繰り返している。その熱戦の隅でひとりの元高校球児がこの世を去った。元球児というより、プロ野球でも西鉄ライオンズ黄金時代のスラッガーとして知られた豊田泰光さんである。巨人が痛めつけられた相手チームの中心選手だっただけに、現役時代は憎たらしい存在だった。だが、近年日経新聞に中々味のある評論を書いていたので、豪放磊落な強打者の隠れた一面を垣間見たように思い期待していた。

 その豊田さんには、私がまだ千葉の中学2年生だった昭和27年、夏の甲子園で、豊田さんの水戸商は南関東代表校・成田高校に完封負けしたが、その時水戸商の3番打者として成田高の穴沢投手からただひとり3打席3安打を放って孤軍奮闘活躍したのが、豊田選手だった。その後豊田さんの活躍を注目していたが、プロでも大活躍したのは周知の通りである。

 後年茨城県の海外教員視察団を度々お世話する機会があり、その都度県の先生方とは豊田さんの話題に触れると先生方にも興味を持っていただいた。茨城県では、豊田さんは同じ茨城県出身の石井藤吉郎さんや石井連蔵さんと並び野球界のヒーローだったのである。

 豊田さんはプロ野球ではチームメートの大下弘選手や、中西太選手らとともに野武士軍団と言われた西鉄を日本一のチームへ押し上げた大功労者でもあった。あの元気印の豊田さんが81歳になったとは言え、突然冥界へ行ってしまうとは、テレビのない時代の豊田さんの活躍を知っているだけに、一抹の寂しさを拭えない。

2016年8月16日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com