昨日発売の「週刊新潮」がお詫びと称して、朝日新聞神戸支局襲撃実行犯に関する連載記事が虚報だったとの言い訳がましい自説、「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」を恥ずかしげもなく10頁に亘って延々と書いている。今朝の朝日新聞社説はこの新潮社の対応に対してまったく納得していない。「週刊新潮」は、朝日の指摘に対して1度は反駁したにも拘らず、この期に及んで非を認めて降伏した。詳しく理由を説明していないことからも、すんなりとは謝りたくないのだろう。
確かにこの「週刊新潮」早川清編集長の説明は、実行犯を名乗った男・島村征憲の刑務所内での取材から、島村の言い分を信じるまでに至った経緯、それが虚報であると判った経過を頁の大半を使ってくどくどと説明しているに過ぎない。どうして島村の言い分を事実だと認識するに至ったかの肝心な分析や証拠を見出した説明がない。その挙句虚報であると認めるに至った発表の内容が充分読者を納得させる説明になっていない。こんな程度の取材で「われ殺人事件の真犯人を取材せり」式の台詞で4回にも亘って関連記事を連載し、世間を偽り騒がせ、警察の鼻を明かしたつもりの有頂天な報道の仕方はいかにもガサツで軽薄以外の何者でもない。加えて、被害者である朝日新聞社や殺害された記者の遺族に対する配慮や説明が不十分であることが、説明文の随所に顕われている。
新潮社では、今後はこの種の捏造記事がないよう注意すると言っているが、今回のお粗末な事態の責任をどのような形でとるのかまでは明言していない。次々号から編集長が交代するが、そのことは本件とは関係ないらしい。結局「大山鳴動してネズミ一匹出ず」のガセネタ特集記事になって、読者を騙し、マス・メディア全体の信用を失わせ、被害者である朝日と遺族に大変な迷惑をかけ、深い憤りをもたらしただけだったのである。
マス・メディアの報道なんて所詮その程度の軽いものだと思わせただけである。新潮社のような週刊誌の知的レベルだって精々こんなものなのだろう。それに、マス・メディアというのは自分の思うところ、信ずることは居丈高になって報道の権利とか、自由であると言いたてるが、一旦自らに非があったり、間違いがあるとそれを認めることに素直ではない。自分の犯した重大な罪を何とか逃れようとの気持が強いことがこの事件を通して透けて見えてきた。
皮肉なことにマス・メディアの正義感、誠実さ、責任感、常識、知的レベルなどがよく分かった。