2人の偉大な人物が相次いで亡くなった。一人は昨日亡くなったフィリピンの元大統領コラソン・アキノ氏である。この人の周辺には2つの強烈な印象がある。ひとつは亡命中の夫、ベニグノ・アキノ氏がアメリカから帰国した時、マニラ国際空港で機外へ出た途端に射殺された生々しい光景である。もうひとつは、コラソン・アキノ氏が大統領選に立候補して、不正にからむトラブルで現職のマルコス大統領が国外脱出した時に、フィリピン国民挙って黄色いシャツを着て行進したピープルパワーの迫力である。
アキノ氏の評価は分かれる。マルコス氏の不正を暴いて民主化を進めたという功の反面、それ以外にこれという目だった成果がなく政局を混乱に導き経済も失速させたという罪の部分である。しかし、マルコス独裁政権を追放し、民主国家への道を切り開いた功績は大きい。アキノ氏の実績を批判する人に対して「私らアキノ家が民主化をしなかったら、フィリピンはずっと遅れていた」と自らの行動と実績に人一倍強いプライドを持っていた。夫は殺害され、娘は不倫事件で非難され、孫は障害児で家庭的にはあまり恵まれなかったようである。それにしても、個性的な人だった。享年76歳だった。
もう1人は、今日世界水泳選手権のためローマに滞在中に亡くなった「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進氏である。享年80歳だった。1500m自由形の世界記録18分19秒0は、長い間当時の世界記録として燦然と輝いていた。昭和24年小学校5年生の時、ロスアンゼルスで行われた全米水上選手権で次々と世界記録を破り、それを社宅の隣のおばさんから教えてもらい、嬉しかったことを覚えている。憧れの選手だった。当時は近所のおばさんまで古橋選手の活躍を喜んでいた。終戦間もないあのどん底の時代は、全国民がもろ手を挙げて日本選手の活躍を願い応援していたような気がする。だから古橋選手の引退まで見守って温かい気持ちで応援していた。
1952年ヘルシンキ・オリンピックですでに盛りを過ぎていた古橋は400m決勝で最下位に落ちた。優勝したフランスのボアトウ選手の父親が喜びのあまりコートを着たままプールへ飛び込み、水中で息子と抱き合っていた感激的なシーンの一方で、プールから上がり俯きながらプールを去っていく寂しそうな古橋選手の姿が脳裏から消え去らなかった。しかし、それまでに日本人を力づけてくれた功績を知っている日本のファンは、誰も古橋を責めるようなことはしなかった。そういう意味では遠い存在ではあったが、選手と一般のファンの間に心の通い合いがあったように思う。その古橋選手は水泳界に残り、後進の育成にも力を貸し、日本水泳連盟会長職を務め、日本オリンピック委員会会長まで務め、昨年はスポーツ選手としては初めて文化勲章を受章している。
ローマで亡くなったというのもドラマチックである。古橋選手が惨敗したヘルシンキ大会の帰路、NHKアナウンサーだった和田信賢氏がロンドンで客死したこともその当時話題になった。一世を風靡した人というのは人生の散り際も華々しい。
お2人のご冥福をお祈りしたい。