902.2009年11月1日(日) 新しいヨーロッパ東西の壁

 相変わらずバタバタしている間に、早くも晩秋の11月に入った。今月9日には、早いものでベルリンの壁の崩壊から20年になる。あのニュースはあまりにも衝撃的だった。戦後長きに亘って世界を東西2つに分けていた壁がついに壊され、そのウェーブはあっという間に社会主義国家全域へ波及していった。ベルリンの壁の近くにある検問所「チャーリー・チェックポイント」には、沢山の思い出がある。西ベルリン滞在中に日帰り観光で入国したこともあり、カール・マルクス・シュタットへ向かった時もここを通過して東ドイツへ入って行った。その際のバス車体検査に大きな鏡をシャシーの下に潜らせるような原始的な密出入国チェックをしていた。このやり方を見ていて驚きもし、呆れもしたが、これもある意味では懐かしい。東ドイツのビザ取得の手配をした代議士一行の通過もここでもめて、東ドイツへ入国せず、その後衆議院事務局から事情を聞かれたことがあった。代議士が入国しなかったのは、時間がかかった入国手続きにしびれを切らして勝手に引き返してしまったという我侭なもので、周囲が翻弄されたこともあった。とにかく私にとってもいわくつきの検問所だった。それがあっという間にベルリンの壁の崩壊はチェコやポーランドへ波及して、挙句のはてにソ連学校の優等生と見られていたブルガリアやルーマニアに至るまで、彼らの社会主義体制は大きく揺れた。

 社会主義体制が崩れて、民主主義体制になった筈であるが、それが一向に国家の発展とまではいかない。ドイツは同じ民族なので東西統合はスムーズに進展すると見られていたが、中々一筋縄ではいかなかった。東西ドイツの間にあった拭いきれない溝が表面化した。しばらく東側には失業者が溢れる有様だった。2年後本家であるソ連の国家体制も崩壊した。いずれも多くの複雑な国内問題を抱えたまま体制だけは、社会主義から民主主義に変ったのである。

 それが今ヨーロッパに新たな壁が出来つつあるという。その後西ヨーロッパに欧州連合(EU)が結成された。そこへ旧東欧諸国の中から新たなEU加盟国が加わってきた。昔の東西の対立線(国境)が、やや東側へ移動したような対立構造になったのである。現実に元ソ連のロシアシンパであり続ける、ウクライナ、グルジア、アルメニアなどと、旧東欧でロシアのクビキから脱却したポーランド、ブルガリア、ルーマニアとの間に南北に新たな壁ができてしまった。

 しかも、両陣営にはその背後で、ロシアとアメリカの対立が昔とは異なった形で影響力を与えている。その接点となったウクライナやポーランド国民の間には、抜き差しがたい米ロ両国への不信感が生まれつつある。東西対立は形こそ変ったが、姿を変えてまた新しい国境線を構築している。NATOラインと呼んだら良いだろうか。

 日本としては、面倒な外交関係に深入りしたくないため、政治的にまったく接触している様子が見えないし、その詳しいニュースは国内ではほとんど報道されない。だが、その間に世界は刻一刻とチェンジしている。

 さて、9日に予定されていたアフガニスタン大統領選挙の決選投票にカルザイ候補の対立候補として挙げられていた、アブドラ元外相が今日になって立候補を取り止めると発表した。何のことはない。カルザイ側の露骨な選挙妨害が予想され、投票の公正さや透明性が期待出来ず、これでは勝負は決まっていると降りてしまったのだ。仮にカルザイ大統領が再選されても、これではカルザイ2期目の政権の正統性が問われかねないとアメリカ政府も苦りきっている。相変わらずの泥仕合でアフガンの民主化、並びに治安の安定はまた遠のいてしまった。

 これからアフガンはどうなるのだろうか。

2009年11月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com