半世紀前の1960年の今日、ホワイトハウスで岸信介首相とアイゼンハウワー大統領が現在の日米安保条約に署名調印した。そして6月15日新安保条約は国会で承認され発効された。私はこの時大学2年生で慶応日吉キャンパスに乱立するタテカンとチラシに取り囲まれ、スピーカーから流れるアジに当初は日1日と安保反対の機運が高まっていくのを不安気に感じていた程度だった。その内に福島出身の同級生・渡辺勉くんが高校ラグビー部の1年先輩だった清水丈夫さんのメッセージを伝えてくれた。東大生で当時全学連書記長として全国の学生運動の頂点にいた清水さんから慶応日吉キャンパスにオルグを作れという指令のようなことを伝えてくれたのだった。
これがわが人生のひとつの節目となったかも知れない。2年間の浪人生活からやっと解放されて、のんびりと遊びたい時だった。かといってノンポリでは学生の権利と責任を主張し行使することにはならないとも考え、とりあえず安保反対闘争とは付かず離れず関心を持ち続けるというスタンスをとることにした。
その後の自分自身の半生を振り返ってみると、特別な組織に参加することはなかったが、やはり60年安保闘争は自分の生き方に大きな影響を与えた。ベトナム反戦運動に手を染めたり、沖縄返還闘争に加わったのも、原点はこの安保反対闘争参加に遡ると言えると思う。
あれから半世紀が経ったと思うとそぞろ感慨が湧いてくる。その間戦時下のベトナムや第3次中東戦争直後のアラブ諸国へひとりで出かけたのも、つまるところ安保闘争の残り火である。そして、それが結果的に終生旅行業に関わることになった。その意味では、60年安保闘争は間接的にわが人生を大きく左右するターニング・ポイントになったと言ってもいい。
1960年6月には、国会における立法を巡り激しい論戦が展開され、国会周辺はデモ隊と警察との対立で危険な状態となった。15日には東大生・樺美智子さんが亡くなった。全国民が関心を抱き、熱くなった。私自身幾たびとなくデモにも参加した。
大学内では連日デモが繰り出され、教室内でも安保条約は是か非かの熱いディベートが繰り返された。ライシャワー駐日大使、藤山愛一郎外務大臣、浅沼稲次郎社会党委員長、伊井弥四郎・共産党幹部らも次々とキャンパスを訪れ、安保改定に関して学生に自分たちの立場から、それぞれの考えを主張された。
今にして思えば、あのような歴史に名を残した著名人の印象的なスピーチを目の前で直接耳にすることが出来たこと、そして国民的一大運動に身体を張って参加することが出来たことは、学生生活における素晴らしい宝になったと考えている。
それにしても、今日まで日本の安全保障が維持されたのは、あの時安保条約が改定されて安全が担保されたからだと一方的に言われているが、それ以上に東西の対立崩壊が大きく影響していると見ている。当時われわれ学生が訴えた沖縄の米軍基地恒久化の懸念は、恐れていた通り今や現実となって沖縄県民を苦しめている。今日問題となっている普天間基地移設問題も別の意味で、今日50周年の節目を迎えた日米安保条約が日米間に横たわる大きな障害となっていることを忘れてはならない。
これから新しい時代に入る日米安保条約が、今後も両国間に摩擦と障害を生まないことを、かつて60年安保反対闘争に参加したひとりとして心より願っている。