先日1冊の時代小説を著者・佐々木征夫氏から送っていただいた。「おも代の舞」(遊人工房刊)と題する、江戸中期にある武家で起きた前代未聞の醜聞と悲恋を扱った物語である。
一読して妙に心に残り心象面で忘れがたい印象を植え付けられた反面、およそ封建社会の倫理性に欠ける信じ難い事実に首を傾げ、衝撃を受けたというのが本当のところである。何故一廉の藩主でもある武士の家庭でこのような理不尽で、厳しく言うなら破廉恥な秘め事が生まれたのだろうか。
武家の秘め事とは言え、あまりにも浮世離れしたストーリーと、考え及ばない男女3人のダブル心中事件というスキャンダラスな史実を俄かには信じ難い。
秘め事をヒロイン「おも代」の伯父・仏僧浄禅と、偶々祇園の茶屋で浄禅と知り合い、その真相に心を打たれた、歴史家・神沢杜口が、ともにどうにかして後世にその事件の陰に隠された3人の純粋な愛の絡み合いと3人のお互いの信頼感を伝えようと試みた。その隠されたストーリーは、結果的に神沢の探究心と執着心が闇に埋もれた筈のドキュメントに光を照らすことによって今日文書に伝え残されることになった。そのほぼ忘れられかけた事件を、当事者3人の内のひとり、正室正子の末裔に取材することによってスキャンダル面を幾分抑え、悲恋物語として世に甦らせた著者の真摯な努力に敬意を表したい。
ストーリー構成は、土浦藩江戸下屋敷内に起きた藩主・土屋能登守泰直と正室正子、そして正子の待女おも代の三人三様の愛のかたち、夫婦間の愛情あふれる睦まじさ、そして武家社会の身分制を絡ませた類稀な三角関係の微妙な題材から編み出された。本来ならことは箝口たるべき不祥事の罪としてお家断絶の沙汰により、家の子郎党を四散せしめかねない閨房の秘め事であり、その大立ち回りを演じた泰直は、藩主としての道を大きく踏み外した許しがたい罪を犯したのである。幸い藩主は、老中松平定信に平素よりその能力を評価されていたがため、お家お取り潰しを逃れ醜聞は藩内極秘のうちに処理され、事件として表に出ることはなかった。
そもそも藩主泰直が奥方正子の待女おも代に想いを寄せ、無理やり側室にしたことがこのスキャンダルの発端であり、結果的に3人の儚くも悲しい末路となった。正子を慕っていたおも代の気持ちは複雑で心は千千に乱れ、ついには泰直の元を去る決意をしたことから事態は急展開する。おも代にぞっこんの泰直がおも代の変心に猛り狂い秘伝の短刀でおも代を一刺し、止めの直前になっておも代も泰直のひたむきな愛情に初めて心を開きその愛を受け入れた。泰直はおも代を手討ちにした直後自害して果てる。そして、その1ヶ月後正子も2人の後を追うようにして自害する。
近松物なら大向うを唸らせる舞台となり、情緒的には多くの人々から同情を買うであろうが、藩主泰直は武家社会のエリートとしては自らの君主としての立場を考えず、あまりにも直情的で独断的な行動を取った。
この悲劇の中で救いは当事者の3人が、それぞれお互いや周囲の人々への思いやりがあり、多くの人から慕われ、心情的に受け入れられていたことである。むしろそのことこそが、生前おも代の精神的な支えとなっていた伯父の僧侶・浄禅におも代不憫の感情を募らせることになり、浄禅は何とかしておも代の純粋な気持ちに応えてあげたいとの気持ちが頭から離れなかった。それがこの時偶然巡り合った神沢に一連の物語を内密と言いながらも話す糸口となったのである。その歴史家・神沢にとっても衝撃的で目を開かせられる事実は、おも代の生き方と同時に、藩主泰直と正室正子の愛でオブラートされた絆も強い興味と関心を抱かせることになり、古文書「翁草」に書き残され密かに今日に伝えられることになった。
多くの読者は、今日では考えられない3人の純愛と信頼に心をときめかせ、3人それぞれに気持ちを寄せることであろう。特に女性読者にとっては、封建時代に身分上差別のある2人の女性の想像もできない愛情と信頼、そこへ良くも悪くも立ちはだかる藩主の存在にたじろぐ思いを感じることだろう。
しかし、普段は冷静な藩主でも、現実にはふとした折に突然無分別な行動に突っ走った武士もいたし、階級社会の息苦しい中でもお互いに信頼し合った高位の女性とその侍女もいたのだということを改めて教えてくれた。その点でも本書は江戸時代の武家社会の厳しい身分制としきたりをベースに、思い切って特殊でほろ苦い男女関係を何の衒いもなくメロドラマ風に仕立て上げた力量から生まれた佳作である。女性読者のみならず、広く江湖に一読を薦めたい。