以前にインターネットのウェブサイト上に「古井戸さん」と名乗る方の硬派のブログが掲載されていて、そこに私が意見を書き込んだ。偶々今日そのブログを見つけたので、その時のことを漠然と思い出した。私の後に続く投稿者は元赤軍派幹部の「植垣康博」である。あさま山荘事件で全国に指名手配され、最近静岡方面でバーを経営していると仄聞した。
ブログのテーマは一昨年12月に亡くなった加藤周一先生についてである。先生が亡くなって1ヶ月後の昨年1月30日付で、私は次のように書き込んでいる。
「60年安保闘争に参加して、ベトナム反戦に関わりました。ベトナムにも中東にも行き、遂にヨルダン軍に身柄を拘束されました。前途に光が見出せず、チェコのカルレ大学留学を志しました。これが何と『プラハの春』で挫折となりました。挫折だらけの半生でしたが、漸く古希を卒業して、学生時代に月刊『世界』で夢中になって読んだ加藤周一先生の卓見にうなずいております。惜しい方が亡くなられたと残念でなりません。随分動いたが、私も結局権力に飲まれてしまったのではないかと反省しきりです。安保闘争ではわれわれ学生に理があった。しかし、結果は権力につけ入れられ、安保反対の正論は蓋をされ無視されています。若者に言いたい。権力にひるまず前進せよ!」とある。
古希を過ぎて随分尖ったことを言っているが、それはその直後にNHK・ETV特集「加藤周一 1968年を語る‘言葉と戦車’ふたたび」を観て、ちょうど1968年‘プラハの春’事件直後に自ら車を運転してチェコに入り、取材した加藤先生の並外れた行動力に感心し、喝采を送ったからである。
私が‘プラハの春’で留学を断念したのは、その時すでに会社へ辞表を出し、9月に日本を発つ予定で準備を進めていたところ、8月20日未明に突然ソ連軍戦車がチェコの首都・プラハへ侵入して市内を蹂躙し、プラハが一夜にしてソ連の植民地となってしまい、留学どころではなくなり、泣く泣く諦めたからである。 あの後加藤先生の足跡を辿る映画も観た。今年は60年安保50周年記念の年でもあり、何かにつけ思い出すことが多い。
昨日も「知的生産の技術研究会」八木哲郎会長から書中見舞いのメールをいただいたが、最近酒を飲み交わしながら60年安保時代の問題を話し合える人が少なくなったとあった。特にそういう65歳以上の人と会う機会が減ったと嘆いておられた。よく分るなぁ。