俗に「西山事件」とも言われる、外務省外交機密文書漏えい事件に関しては、日本への核の持ち込みや、沖縄返還、沖縄米軍の駐留費用負担など闇に伏せられた案件がいくつもあるが、最近になってもうひとつ日本が核開発に前向きだった事実が、外務省保管の西ドイツとの外交文書で明らかになった。これを公表したのは、元外務事務次官だった村田良平氏であるが、村田氏は今年2月これをNHKのインタビューで公に話した後、翌3月に80歳で亡くなられた。「永久にごまかしをやって闇の中に放っておくより、真剣な議論をすべきだ」と述べ、在職中関係者の間では秘密裏に核開発について積極的に話されていたことを明かした。ガンで余命幾ばくもないことを悟ったうえで、このまま真実を明かさないで現世を去るのを潔しとしなかったのである。
今年は私自身学生時代に参加した「60年安保闘争」50周年という節目の年でもあり、これに関連した大きな催しが各地で開催されているが、NHKでは安保以外にも中々硬派で、事実を解明したような意欲的な番組を放送してくれるので、随分勉強になる。
昨日放映されたのはスクープドキュメント、「‘核’を求めた日本~被爆国の知られざる真実~」という番組は特に印象的である。
実は1964年の中国の原爆実験により、日本は中国の脅威に晒されるとの懸念から、超大国を目指す以上核開発、核保有を目指したいと考えていた。敗戦、経済復興と日本と同じ道を辿った西ドイツは米ソの谷間で押しつぶされないよう願っていたが、秘かに日本側から核開発の話を持ちかけられた時には、西ドイツ外交筋も仰天したようだ。
即ち1968年佐藤栄作首相当時、村田良平・外務省調査課長は、西ドイツ外交の先端にいたエゴン・バール氏(後の首相府副長官)ら3氏と日本から村田氏ほか外務省部長、課長2名が箱根で秘かに会って、日本が核の製造能力があり、その製造自体は難しいことではなく、西ドイツに米ソ2大国に対抗して核共同開発の提案をした。しかし、西ドイツは東西分離の国家情勢から日本との立場の違いを主張したので、結局この話は立ち消えとなった。
一方、アメリカは核保有国の立場からその時点における核保有国をこれ以上増やさないと、日本に対して核拡散防止条約(NPT)への加盟を迫り、結局日本はアメリカの傘の下に入ることになった。
それにしても、国はこれほどの重要事項の決定をまったく国民に知らせずに処理していたのである。その渦中にあって内閣調査室主幹だった志垣民郎氏が語った「外交には裏がある。国民はそのくらいは知るべきで、知らないのは国民がアホだからだ」との発言には、国家官僚の思い上がりも極まれりだ。国は真実を隠蔽して、国民は自ら勉強して知るべきだとの言い分は、あまりにも国民を愚弄している。
1974年佐藤元首相のノーベル平和賞授与式におけるスピーチ原稿から、核絶滅への高邁な表現「日本は非核3原則を宣言し、世界中が核廃絶を念願し、世界が日本の非核3原則に従ってくれるよう希望する」との文言が突然削除された。その数日前佐藤首相が来日したキッシンジャー国務長官から、それとなくアメリカはその文言を歓迎しないと聞かされたからである。肝心なその言葉を世界への核廃絶のメッセージとして発信することに賛成していた学者の中に、高坂正尭・京大教授、京極純一・東大教授、そしてわれらが梅棹忠夫先生が含まれていたのである。梅棹先生の思いもノーベル平和賞受賞式では佐藤元首相には、まるで通じなかったようだ。
国連軍縮会議では、日本はアメリカに遠慮して棄権したり、反対票を投じたり、核廃絶に向けたアピールは年々弱くなった。日本国内ではあまり知られていないが、当時のメキシコ国連軍縮大使の如きは、核絶滅の動きに対して日本の姿勢に一番がっかりさせられたと述べた。結局密約の空気が軍縮の動きを日本国内で今ひとつ拡大させない理由ではないか。一方で、ドイツの核廃絶運動は大きな広がりを見せている。
その意味でも少数派の西山太吉氏、吉野文六氏、村田良平氏らは国の将来を憂いていた勇気ある人たちだと言うべきであろう。