1365.2011年2月7日(月) 元連合赤軍幹部・永田洋子獄中に死す。

 昨日元連合赤軍・最高幹部のひとり、永田洋子が亡くなった。晩年は体調を崩し、死刑囚でありながら刑務所内で手術を受けたり、寝たきり状態で「手厚い看護」を受けていたが、多臓器不全により65歳のドラマチックで薄幸とも思える人生の幕を下した。

 「あさま山荘」事件の直前、赤城山を拠点に転々とアジトを移動しながら集団リンチで多数の仲間を次々に謀殺して、もうひとりの最高幹部・森恒夫とともに逮捕された、希代の鬼女である。あの忌まわしい事件からほぼ40年の月日が経つ。

 「日本赤軍」が海外でダッカ日航機ハイジャック事件や、オランダ・ハーグ事件、テルアビブ空港乱射事件、等派手なテロにより世界的な注目を集めたが、過激で無意味なテロが当時のアラブ左翼グループから一歩距離を置かれることになった。その一方で国内では学生運動の急進派は各セクトを大同団結して、「連合赤軍」として組織を再構築し、次第にテロリスト的な活動で国内の過激的な学生の間に徐々にその存在感を強めていった。その一部の幹部の正気の沙汰とも思えない突出した行動が、社会的に大きなショックを与える過激な運動へと突っ走っていった。

 忘れもしない凶暴な連合赤軍の運動の中で、しばしば名前が挙がった永田、森、奥平純三、和光晴生、重信房子、坂口弘、坂東国男、岡本公三らに反省の言葉はなく、自殺死、獄中生活、そして今も海外へ逃亡している者も数多くいる。全学連は当初高校ラグビー部の先輩、清水丈夫書記長らが主導した純粋な学生運動から出発し、60年安保闘争を経て、ベトナム反戦へ発展させた運動の過程で離合集散を繰り返すうちに、どこでどう間違えたのか、組織を人殺し集団へ変貌させてしまった。永田が亡くなった今になっても、「あさま山荘」事件で逮捕されて13年間服役した加藤兄弟の弟、加藤倫教氏も永田らの突出した真意が理解出来ず、「ベトナム戦争に反対したことは今でも間違っていたとは思わない」が、リンチや人質を捕ったりしたことがどうしても納得出来なかったようだ。

 私自身60年代から70年代の初めにかけて、ベトナム反戦運動に関わったが、1日も早く戦争を停めさせてベトナム人民を悲惨な生活と貧困から解放しようとの素朴な思いだけだった。とても、連合赤軍のように同じ目的を抱く同志に暴力を加えるなんて考えられもしなかった。永田や森からすれば、自分たちに逆らう者はみな逃亡兵に見えたのかも知れないが、彼らの言動には心のゆとりや、良心、思いやり、話し合い、説得、情愛がなく、直ちに同志を「総括」してしまうほど、憎しみの感情が燃え上がり一直線に暴力に走り、その行動は一気に跳ね上がっていった。今もって彼ら70年安保世代の跳ね上がった一部とわれわれ60年安保世代とは、多くの点で考えが相容れないと感じている。

 それにしても、大きな時代の流れと感慨を感じさせる永田洋子の非業の死である。

2011年2月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com