1392.2011年3月6日(日) 快男子・巽秀樹くんを偲ぶ。

 湘南高校ラグビー部OB会長を務めていた7年の間、副会長として陰で支えてくれた鎌倉の入野耕二くんから、彼の同期生の巽秀樹くんが先月28日に亡くなったと電話をもらった。

 今夕桐ヶ谷斎場のお通夜に出かけ最後のお別れをした。会社を辞めてから大分時間が経つのに、葬儀場には多くの参列者が巽くんと最後の別れに来ていた。やはり巽くんの優しく誠実な人柄が多くの人に最後の別れを伝えるために足を運ばせたのだろう。

 ラグビー部関係では同期生が多く、お清めを済ませてから久しぶりに一杯やろうということになり、東急目黒線・不動前駅の近くで店主に誘われるまま小さな店に入り込んだ。巽くんの鎌倉御成中時代からのチームメート6人に、中学時代の友人を交えて、彼の冥福を祈りつつ献杯をして思い出話に花を咲かせた。

 6人の中に元鎌倉市長の竹内謙くんもいた。実は昨年からペンクラブの会合で早大探検部で竹内くんの仲間だった西木正明さんに会うたびに、竹内くんは祖父がゾルゲ事件の尾崎秀実の顧問弁護士だったので、ゾルゲ事件と尾崎について秘蔵の資料を源にドキュメントを書くには最も相応しい人間なので、前からそう勧めているが、一向に書く気がないとこぼしていた。ならば、私も事件に連座したブランコ・ブケリッチの子息で、ベオグラード在住の山崎洋さんをよく知っているので、山崎さんを竹内くんに紹介して事件と2人の関係について重層的に書いたらどうかと勧めてみると西木さんに約束した。よりによって葬儀場で竹内くんにその話をしたところ、事実はその逆のようで、竹内くんが西木さんに資料を提供するから西木さんが書いたら良いと頼んでいた話とのことで、どうもあまり乗り気には見えない。よく分らないが、この次に西木さんに会ったらよく話して確かめてみようと思う。

 巽くんは近年になって確認出来たのだが、彼の父上が家内の父や、岡本太郎さん、藤山一郎さんらと同じく慶応幼稚舎で同級生だった。いつか岡本さん、藤山さん、作家・野口富士男さんと義父ら4人の竹馬の友としての交流について書いたエッセイを送ってあげたら喜んでくれた。また、慶応幼稚舎の卒業アルバムを見たら確かに父上の姿が写っていた。巽くんはその写真を持っていないということだったので、2年前にコピーして送ってあげた時に電話でしばし話したのが最後になってしまった。

 高校で主将だった私は、巽、入野、竹内くんら多くの素質ある新入生がどっと入部してくれ、ラグビー部も何とか形がつき安心して卒業出来ると同期の仲間と喜びあったことが思い出される。実際巽くんたちが3年生になってラグビー部はめきめき力をつけ、神奈川県内でも実力校にのし上がった。初めて関東大会に出場したのは彼らの2年後輩たちだが、彼らの活躍が刺激になったことは間違いない。実際彼らの3年次に成績からすれば、当然関東大会に推薦されてしかるべきだったが、出場校として推薦されなかった。理不尽な選考基準だとして新聞の神奈川版に大きく取り上げられ、私も当時浪人の身でありながら心配になって母校へ駆けつけたことがある。巽くんはウィングでプレーしてチームの中心選手だった。

 巽くんは現役で慶応に進学したが、私は2年間も無駄飯を食ったために大学で同学年生ということになった。彼は法律、私は経済と学部こそ異なったが、日吉キャンパスではしばしば顔を合わせることがあった。その当時全学連書記長として学生運動のリーダーだった、ラグビー部1年先輩の東大生・清水丈夫さんに私はネジを巻かれ、60年安保反対闘争の道へ、彼は即座にラグビー部(慶応独自の呼び方として「蹴球部」という)に入部してラグビー漬けの学生生活を送っていた。巽くんがその俊足を生かして秩父宮ラグビー場を力強く走る姿を想像していたが、残念ながらその夢と期待は叶わなかった。レギュラーとしての素質は充分あったと思うが、人柄を見込まれて中等部のコーチを務めたことが選手としてはマイナスだったかも知れない。卒業後は全日空に入社して定年まで勤めあげた。いつもニコニコした円満な人柄で周囲にソフトで温かい雰囲気を作ってくれた。

 聞けば良家の娘さんと結婚されたが、昨年その奥さんにも先立たれた。周囲にはそろそろ亡くなる友人も増えてきたが、それにしても彼は私より2歳若く、まだまだ人生を楽しめる年齢だったと思う。狭い飲食店の2次会でも、巽くんを惜しむ声が多かった。人生は無情である。こういうことなら生きているうちに、せめてもう1度じっくり話をしてみたかった。巽くんのご冥福を心よりお祈りしたい。                        合掌

2011年3月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com