1403.2011年3月17日(木) 鉄道作家・野村正樹さんを偲ぶ。

 今朝の新聞で野村正樹さんの訃報を知る。肺がんにより亡くなられたことに胸を突かれるようなショックを受けた。少々健康を損ねたと漏らしておられたが、私より6歳も若かった、あの野村さんがあっという間に黄泉の国へ旅立ってしまった。サントリー社員時代にミステリー作品でデビューしてサラリーマン作家として名を売ったが、一方で鉄道作家の顔も持っていた。私には鉄道作家としての野村正樹さんにより親しみを感じる。ペンクラブに入会してから野村さんが鉄道オタクで、大学の先輩・後輩という間柄でもあり親しくお付き合いをしていた。私の2度の出版記念会にも出席していただいた。最近では健康が勝れなかったためだろうか、ペンクラブの例会にもほとんど姿を見せられず、気になっていた。

 しかし、何といっても野村さんとの交流で一番印象に残っているのは、一昨年暮「知的生産の技術研究会」編著の「知の現場」(東洋経済新報社刊行)を上梓する過程で野村さんをインタビューしてまとめた取材記である。

 同書の中で取材した論壇人は21名だったが、唯一野外で取材したのが野村さんだった。敢えて取材場所として野村さんが提案されたのは、デビュー直後の小田急の新型ロマンスカー展望車の先端・展望席だった。いかにも鉄道ファン野村さんらしいアイディアで、今にして思うと新鮮にして強烈な思い出である。

 提案をいただいた後早速指定のロマンスカーの展望車座席の先端半分を特別にリザーブした。小田急に関しても、元小田急マンだった私より遥かに専門的な鉄道知識を身につけておられ、薀蓄を傾けた知識をベースに沿線風景や離合する別のロマンスカーの予定時間などを適切に解説してくれた。走るロマンスカーの中でジェスチャーを交えて、並々ならぬ鉄道への愛情を示してくれた。野村さんは「鉄道と二宮尊徳が『知』の原点」と言って憚らなかった。

 野村さんと相対してインタビューする取材は、主に新宿駅から小田原までの車中で行われたが、野村さんは二宮尊徳を深く尊敬しておられ、小田原で下車してから取材班一行は二宮尊徳を祀る報徳神社へ連れ立って訪れた。その時宮司の講話などの手配も自ら事前になされた。温かいお人柄で、誰からも好かれ、話していて心の和む素晴らしいお人柄だった。野村さんは「知の現場」の仕上がりを喜んでくれ、昨年の年賀状には「『知の現場』ではありがとうございます。いい本になりましたネ!!」と書き添えてくれた。中々良い装丁に仕上がり、野村さんの話はロマンスカーの宣伝効果もあり、小田急電鉄・大須賀頼彦社長にも気に入ってもらえたので、今日も野村さんをよくご存知の大須賀社長に野村さんの訃報を伝えた。

 小中陽太郎さんと、ロマンスカー取材にも同行された「知的生産の技術研究会」の八木哲郎会長にもお知らせした。お2人とも大変驚き、野村さんのご逝去を惜しんでおられた。

 わが書棚には購入したもの、いただいたものを含めて野村さんの著書が10冊ばかり置いてある。その中でも出色は大分前にいただいた自費出版の処女作品2冊である。サントリーへ入社した新入社員時代に出された限定版「ウルトラ70*逸楽のルンバ」と「5時から5時のブルース」である。ぱらぱらっと頁を捲っていると、人懐こい野村さんが今にも後から覗き込んでくるような気がしてくる。

 今年いただいた年賀状には昨年夏に撮った、JR品川駅の名物ポスト「0kmポスト」の脇に立つ元気な姿の写真があり、今年は新境地の大作2冊に挑戦するとポジティブなメッセージが書かれていたので、楽しみにしていた。残念でならない。

 あの優しい野村さんの笑顔をもう見ることが出来ないのかと思うと寂しい。心より野村正樹さんのご冥福をお祈りしたい。          合掌

2011年3月17日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com