今朝元ホテルマンの佐藤紘さんから訃報を受けた。今月に入って3人目の訃報である。みんな同年代でいずれも私より若い。今度は西野正さんである。私より5歳ぐらい年少だったと思う。しばらく連絡がないなと気にかかっていたが、昨日弟さんが西野さんの自宅ですでに亡くなっていた彼を見つけられたという。生涯独身だったので、連絡がつかないことを不審に思った弟さんが自宅を訪れ、西野さんの遺体を発見したようだ。従っていつ亡くなったのか今のところ分らないらしい。
思い返せば、西野さんとの付き合いはもう30年以上になる。キャセイ航空バンコック駐在員だった頃に、初めてバンコックで会った。大学が同じということと、彼の幼少期の住まいが現在の私の自宅の近くだったということから親しい付き合いが始まった。私を先輩として立ててくれて、航空座席の手配などでも随分配慮してもらった。根っからの酒好きで結婚もせず、晩年は酒びたりの生活でやや不摂生だったことが寿命を縮める原因になったのではないかと思う。
しかし、性格的には曲がったことが嫌いで正義感が強く、妙に気があった。時には呼び出されては自由が丘駅周辺の居酒屋で飲んだものだった。話が面白く、人を逸らさない話しぶりと呑み方で楽しい飲み助だった。人間的にも信頼出来る人物だった。
先日しばらく連絡がないので、こちらから電話してみようかと思っていたが、彼はすでに自宅の固定電話を解約していた。携帯番号を私が記録していなかったためにそのまま今日を迎えてしまったことが残念である。最近では彼から電話があると午前中でもしどろもどろの口調で、もう一本空けましたとご機嫌だった。きっと寂しかったのではないかと思うと、もっと気を配って声をかけてやれば良かったと悔やまれる。われわれも健康に暮らしていても段々置いていかれるようになるのだろうか。ついセンチメンタルな気持に捉われてしまう。
あれは20年以上も前に佐藤紘さんの結婚式で私たち夫婦が媒酌人を務め、西野さんが司会進行役を務めた時のことである。佐藤夫人が全日空の今でいうキャビン・アテンダントだった関係で当時のスチューワデス仲間が大勢披露宴に出席してくれた。航空会社の内情を知る西野さんが司会者席からその仲間らと丁々発止と鞘当てをしていた光景が懐かしく思い出される。
さて、東日本巨大地震は、相変わらず地震それ自体より津波と原発の影響が爪跡として色濃く残っている。太平洋沿岸の町では、町役場がそっくり流され職員も資料も流失して町の機能がストップしてしまったところもある。
昨日公表された東京23区内の水道水に含まれる放射線が基準値100ベクレルを超え、210ベクレルを記録した。それが、1日で基準値以下の79ベクレルに下がって、取りあえず安全な数値に戻った。それにしても水道局の当事者が慌てふためいている様子が目に浮かぶ。しかも地域的に東京23区の水道水と発表されたが、今朝の新聞によると23区の東部に限られ、世田谷区や目黒区は含まれないと書かれたり、基準値が安全な数値にまで下がったのに、乳児を抱える家庭に無料でミネラルウォーターを提供するとか、どうも一貫性がない。
それでもわが家は一日で要注意地域から解放された。ほっとしたが、いつまた同じ事態がやってくるか分らない。まだ当分の間いらいら、ひやひやさせられることになりそうだ。