このところアメリカの市民社会が、異常なほどのアメリカ国内の棘というべきか、憎しみ合いでざわついている。今更始まったことではないが、長年大国が抱えてきた2つの深刻な病がぶり返したのである。ひとつは、アメリカ建国以来の人種差別であり、もうひとつは西部開拓時代を思わせる野放しの銃社会である。いつになったらアメリカ社会はこれらの問題を解決することができるのだろうか。
事件の発端は、5日にルイジアナ州バトンルージュで2人の白人警官が1人の黒人を押さえつけたうえに銃で殺害した画像がネットで流れたことに始まった。そして翌6日には、ミネソタ州で車を運転していた黒人が警官に停止を求められその場で射殺された。助手席にいた黒人女性が撮影した動画をネットに投稿した。それを観た黒人を主とする人々が警察に対する抗議行動を起こしたことである。これら黒人に対する警官の理不尽な行動に怒った7日のデモの最中に、今度は黒人青年が狙撃して5人の警官を殺した。
殺された黒人被害者も銃を持っていたとの声もあるようだが、警察と住民側のいずれにも、銃を持っているのではないかとの相互の疑心暗鬼が直情的な行動へ走らせた原因である。銃所有が禁止されていれば、こんな過剰反応はなかったことははっきり言える。アメリカ人の私利私欲と権利欲が法規制を縛っていることははっきりしている。この種の残虐な事件は、アメリカ人に自己規制力がないことを表している。この事態に海外にいるオバマ大統領は急遽日程を短縮して帰国するという。
黒人に対する白人の差別は、アメリカ社会が移民によって成り立った歴史から考えても、両者間のある程度のトラブルはやむを得ない点もある。だが、キング牧師暗殺前後の市民権運動などで少しは白人と黒人の溝は狭まった。人間が賢くなり社会が進歩していく過程でより良い社会を作っていくためには、壁を乗り越えねばならないことは当然である。それが人間の知恵であり、ヒューマニズムであると思う。それでもアメリカ社会の問題は、近年アメリカ人の気持ちに寛容の気持ちが徐々に薄れて来たことにある。これまで幾多の犠牲を払いながら発展を遂げたアメリカ社会ではあるが、キリスト教社会でありながらどうしても克服出来ないのが、寛容と忍耐である。
これまでの時代背景の中で部分的にはトラブルが減少した時もあったが、根本的にはこれら2つの難問は解決出来ていない。それが、過激な言動で平穏な池に投石して波紋を広げるような言動をする、次期大統領候補者ドナルド・トランプ氏のような人物が移民を排除しようとする国家の立場が危うくなる排他的なことになる。しかもそれをサポートする人間が悪乗りする。アメリカ社会は異常であると言わざるを得ない。国家国民が問題を直視して本質的に解決しようとの気持ちがないように思える。
人種差別と銃規制の問題に関して、世界最大の後進国・アメリカ合衆国はこれをどう解決しようというのだろうか。