新宿の「ハイアット・リージェンシー東京」で野球解説者である佐々木信也さんと待ち合わせて昼食をともにした。トラック島の酋長だった故相澤進さんに関するエピソードを出来るだけ伺いたいと、相澤さんにとって高校の後輩?であり、プロ野球・高橋ユニオンズのチームメートだった関係から佐々木さんにお話いただく機会をお願いしたところ、快くお引き受けいただいたわけである。佐々木さんは私にとっても高校と大学の先輩であり、先輩・後輩の関係だと他人のような気がしないと仰っていただき、食事をしながら温かい雰囲気の中で2時間に亘って相澤さんに関するお話をお聞きした。
予め若干資料も準備していたのだが、佐々木さんと私が直接、間接に得た相澤さんに関する情報は必ずしも一致しない。最大の疑問は、高橋ユニオンズ入団の経緯である。佐々木さんを相澤さんが自分の所属球団へ誘ったのは、高校の後輩だから口説いたと私は相澤さんの口から直接聞いたが、佐々木さんは相澤さんから誘われた覚えはないと言われる。第1に佐々木さんは相澤さんが高校の先輩であったことをまったく知らずに、お2人が現役を引退し島へ戻り相澤さんが亡くなるほんの数年前になって知ったと仰る。もしもっと早く先輩・後輩であることを知っていれば、付き合い方が変わっていた筈だと仰った。その他にも相澤さんは私に、佐々木さんがトラック島に何遍も来られたと仰ったが、佐々木さんの仰るにはトラックに来いと誘われはしたが、1度も訪れたことがないということだった。どうも話が大分食い違っている。今や相澤さんは黄泉の国へ旅立ち、その経緯を確認しようもないが、何となく釈然としない気持ちがした。
佐々木さんは、プロ野球界で活躍出来るような相澤さんのような人が、折角湘南高へ入学したのならどうして出来たばかりの野球部に入らなかったのだろうかと率直な疑問を述べられていた。出来立てほやほやの野球部は、世評を裏切りあれよあれよという間に昭和24年夏の全国高校野球大会で優勝してしまった。佐々木さんは1年生ながら大会で大活躍して母校優勝に大きく貢献した。
だが、母校の卒業生名簿には、相澤さんの名前は記録されていない。終戦直後の混乱期で、しかも学制が変わり旧制中学から新制高校に変わった端境期ということを割り引いても、どうしてだろうかと不思議な思いで佐々木さんと首を傾げた。ことによると相澤さんは中途退学したのかも知れない。いずれにせよ言動にはこう言っては失礼かも知れないが、謎が多い。いま書きかけている相澤さんを主人公にしたドキュメントは、当初予想したのとは別の方向へ走り出しそうである。全体の構図と主人公の立場を変えなければいけないのではないかと考えている。相澤さんを主人公に考えていたが、場合によっては相澤さんと佐々木さんのお付き合いをメインテーマにすることも考えられる。どういう組み立てにするか、思案のしどころである。
それにしてもお2人はチームメートとしては格別深い付き合いはなかったようである。しかし、野球を辞めてから相澤さんがトラックへ戻り、その後日本を訪れるたびに必ず佐々木さんへ第1報を入れ、いつも会っては食事をしていたというから、佐々木さんのお人柄と配慮にチームにあまり馴染まなかった島の酋長も少しずつ惹き入れられて行ったのではないかと考えられる。
それは次の出来事からも推し量ることが出来る。相澤さんが亡くなられた2006年5月の僅か1ヶ月前に行われた千葉ロッテ・マリーンズ対福岡ソフトバンク・ホークス戦開始に先立つ始球式で、相澤元投手は1球を投じたが、このアレンジメントはすべて佐々木さんがロッテ球団に掛け合って実現させたものである。何かにつけ、相澤さんは佐々木さんを頼りにされ、佐々木さんは先輩のためにその気持ちに応えておられたのだ。まだまだ埋もれた話はいろいろあるようだが、今日の佐々木さんとの話からドキュメント全体の構成が中々難しくなったような気がしている。
ともかく佐々木さんに直接お話を伺えて良かった。佐々木さんから相澤さんについて兵頭冽・ユニオンズ元一塁手ほかの選手にも聞いてみてあげると仰っていただいた。