今日は建国記念日である。昔風に言えば「紀元節」に当たり、紀元2676年である。我が国の肇については諸説あるが、それでも戦前の紀元節から戦後は建国記念日という国民の祝日を設けたことは、それなりの謂われや歴史的な言い伝えがあったからだと思う。超右翼的保守政権として、ことあるごとに日本古来の伝統や風習を尊ぶべしとアピールしている安倍政権が、今日の建国記念日について何もコメントしないのは、日頃の言動から推して奇異な感じを受けるくらいである。民間団体の記念日賛成、或いは戦争反対集会は開かれても、政府が公式コメントを発表することもなく、メディアもほとんど報道しない。思想的なことは別にしても、この程度の関心度では建国記念日を制定する意味があるのかさえ疑問に思える。果たして学校教育では建国記念日をどのように教えているのだろうか。
さて、今月3日と10日の朝日朝刊「文化・文芸」欄に、作家の池澤夏樹氏が「セルビアで考えたこと」と題して1990年代旧ユーゴスラビア紛争時に発生した民族対立問題について雑感を寄稿している。セルビアは偏った国際的世論によりいつも悪者扱いされていることは、友人の山崎洋さんから度々聞いている。そんな中で池澤氏のセルビア再訪は、山崎夫人佳代子さんから招かれたからだそうだ。
確かにセルビアに関する報道は、概して好意的なものは少なく、山崎さんも会う度に慨嘆していたし、彼の母上と生前電話でお話しした時も、セルビアを擁護しつつ、むしろNATOの無差別空爆を厳しく非難していた。それくらいセルビアのシンパサイザーにとって、アンチ・セルビアは耐えられないものなのだ。最近セビリアにはシリア難民も押し寄せていたが、セルビアはビシッと門戸を閉ざして受け入れようとしない。池澤氏は「難民という言葉は、実は民族という言葉と繋がっているのではないか」と考えている。畢竟それは民族問題がこじれて国内対立と民族抗争を繰り返すセルビアが難民を受け入れようとしない現実的な動きとなって表れた。この難民排斥は、セルビア民族が国際社会から受ける非難や嫌がらせに対するせめてもの抵抗の証となって、噴出したと云えるのではないだろうか。