まもなく太平洋戦争開戦70周年が巡ってくる。その当時私はまだ3歳になったばかりで当然記憶はない。それでも終戦の年に小学校(当時は国民学校)に入学し、空襲警報発令で防空壕に逃げ込んだり、校外で突然襲ってきた米戦闘機に担任の青木正子先生が「伏せなさい!」と叫んだ大きな声が今もって忘れられない。また、自宅の2階から現在の内房線列車が米戦闘機の機銃掃射を受けたシーンを目撃した記憶は、私自身の戦争実体験の想い出としてはっきり覚えている。その後旅行を生業とするようになってから、戦友会の戦跡巡拝団や、厚生省中部太平洋戦没者遺骨収集事業に関わるようになり、戦争体験者と会って話を伺う機会が多くなり、おかげで徐々に戦争について学び多くの知識を得るようになった。
開戦記念日というエポックメークな時を前に、NHKテレビでもいくつか特集番組を放映している。3日、4日の2回に分けてNHKスペシャル「太平洋戦争70年―証言記録・日本人の戦争―」というドキュメンタリー番組が放映された。第1回「アジア―民衆に包囲された戦場」と第2回「太平洋―絶望の戦場」だった。4年間に亘り800人の証言をベースに番組は構成されたようだ。日中戦争以来8年に亘る戦争の間に元兵士が語った悲惨な戦場証言である。戦争の意味について、中々考えさせられる番組だった。
「戦争は絶対やってはいけない」という言葉が繰り返されたが、この番組には将官、士官、下士官、一兵卒を問わず、戦争の残酷さや辛さ、戦地で生きて祖国へ帰りたいとの純粋な気持ちが吐露されている。
1人の兵士とある将校の告白を紹介してみたい。ひとりは秋田県出身の86歳の1兵士である。フィリピン・ルソン島へ派遣されたが、敵は米軍だけではなく地元住民、中には抗日ゲリラも数多くいたという。ゲリラのいた地区では全員虐殺の命が出され、これは断りようがなかった。拒否すれば軍法会議で銃殺が待っていた。皆殺し作戦だった。当時は命令から逃げることは絶対できないと考えていた。だが、今になって兵士はなぜこれを避けることができなかったのかと悩み、フィリピン住民に申し訳ないと心から詫びている。
もうひとりの87歳の元将校は、同じルソン島で突撃隊長として部下を死地に向わせ、200人の部下の内、生きて帰還した者はたった4人で、自ら下した命令で多くの部下を殺した後ろめたさと後悔から、戦後自宅から人前に姿を現すことはなく、楽しい旅行や温泉などにも行かず、そんなことをしたら殺した部下に申し訳ないとひたすら自宅で謹慎生活を送っておられる。この方はインタビューの後3ヶ月後に亡くなられた。
折りも折り今朝の日経新聞に「遺骨収集実態ずさん―フィリピンで戦死の日本兵―」の記事が載っていた。内容的には3月に朝日がスクープしたものと同じだが、かつて細かく精査し確定したうえに遺骨収集事業を進めていたが、この記事で暴露されたようにフィリピンの戦没者遺骨収集事業の安易な好い加減さが気になる。この先の遺骨収集事業がどうなるのか心配である。
ほかにも北上市の元教師は教え子が戦地へ向う度に励まし、戦地の教え子に「真友」という新聞を印刷して故郷の情報を戦地へ送り、士気を鼓舞していた。教え子も受け取るのを楽しみにしていた。しかし、これが戦後この教師の心に深い傷を残し、私費で鎮魂の鐘を造り戦死した教え子の名を彫ってお堂を建立し、鐘撞きをしながら昭和42年に亡くなるまで毎日戦没した教え子を供養していたという話が紹介されていた。胸にズシリとくる辛い話である。
いずれにせよ、先の太平洋戦争は未曾有の犠牲を強いて、戦没者と遺族のみならず多くの国民の間にも深い傷跡を残した。この番組の冒頭で「戦争体験者が誰もいなくなることを憂いたことが生の声を取り上げるきっかけになった」というナレーションが流された。一方で、時代がどんどん変わっていく間に、戦争の傷跡も風化していくのではないかと心配する、戦地で苦労された元兵士の言葉が引っ掛かった。