先日海外の知人、友人にクリスマス・カードを送ったばかりだが、ここ数日は年賀状の宛名書きに追われている。漸く今日までに500枚余りの宛名を書いてほっとしたところだ。まだ50枚ばかり書かなければいけない。年を経るにつれいただく喪中の葉書も年々増えている。今年はすでに30枚を超えた。そんな中でも高校ラグビー部の蓮池くんが2月に亡くなった訃報が一番堪えた。すでに3月に奥様から亡くなられたとのご連絡をいただいたので、悲しみと寂しさは薄らいでいるが、それにしても3年間ともに練習で汗を流し、試合で悔し涙を流したことが忘れられない。
蓮池くんは第1希望の東京商船大学航海科へ進学し、卒業後日本郵船へ入社して、若い時の願い通りNY定期航路の船長を務めていた。定年後は最近まで名古屋港で水先案内人として勤務していた。卒業後は近くにいることが少なく、あまり会う機会がなかった。今にして思えば、もっと会って酒でも酌み交わしながら、外国の話や人生論でも語り合いたかったというのが本音である。
高校では私はフォワードだったが、彼は司令塔であるスタンド・オフとしてプレイし、プレース・キッカーとしても活躍した。同期生8人のラグビー部仲間のうち、鬼籍に入ったのは彼が4人目で実に寂しい。蓮池くんのご冥福を心よりお祈りしたい。
年賀状については、大分前に亡くなられた小学校の恩師から心がまえを教わった。その中でもボールペンは絶対使用してはいけないと言われたことが妙に頭にこびりついている。そのころはどうしてだかよく分らなかった。当時はボールペンの品質が劣っていたこともあり、綺麗な字が書けなかったことがボールペンを敬遠した理由ではないかと思っている。それでもその時いただいた恩師のアドバイスを今でも忠実に守り、手紙や文書ではほとんどボールペンを使わない習慣が身に着いた。今でもメモ書き以外は万年筆か、筆ペンを使用している。小学生の時から大学まで版画を彫って年賀状を作成していたのも恩師の影響である。
今ではPCでいとも簡単に年賀状を作成し印刷することができる。まさに隔世の感がする。遠くにいる友人に想いを馳せながら、万年筆で宛名を書いていると、彼は今頃どうしているだろうと1年に1度は思い出す。中学生時代の友人は、恩師ともども京都に居住して普段ほとんど会うことはなく、年賀状だけが細い友情の交流パイプである。そんなことをぼんやり考えるようになったのは、年齢のせいだろうか。
こうして間もなく新しい年を迎えることになる。来年のお正月には友人からどんな年賀状をもらえるだろうか。