確定申告を行うようになってから毎年この時期になると悪戦苦闘する。分かりきってはいるが、今年も追い込まれないと中々エンジンが作動しない。1月中ごろから書類作りに取りかかっているが、何せすべて書類を手書きで事細かに書き込むので手間がかかる。今日漸く玉川青色申告会へ下書きした書類を持参した。私の下書きの書類をチェックしてもらったところ、1箇所単純な計算間違いをしていた程度で、専門家の手を煩わさないでここまで一人で書類を作成できる人はあまりいないと妙なおだてられ方をされたほどである。早速正式な書類を作り、明日税務署へ提出する目鼻だけはついた。やれやれである。
さて、一時期社会党の爆弾男として名を馳せた元衆議院議員の楢崎弥之助氏が自宅で亡くなっているのをお孫さんが見つけた。学生時代から個性的で存在感のある代議士として、気にかかり興味を持って楢崎氏の一挙手一投足を遠くから見守っていた。ちょうどわれわれが60年安保闘争に参加していたころ衆議院議員に初当選した。その意味でもわれわれ世代は、楢崎氏に期待感と興味を抱いて見つめていたものだ。国会でも安保や防衛問題で政府を厳しく追及していた。何と言っても一番の話題は、88年リクルート事件でリクルート社幹部からの贈賄工作の現場を日本テレビに隠し撮りさせて、それが竹下登首相の命取りになったことである。その隠し撮りに関わっていたのが、元同テレビ政治部長だった菱山郁郎氏である。駒沢大学公開講座で、菱山講師からその話題のビデオを見せてもらったが、どうも生々し過ぎる。菱山講師も危ない橋を渡ったものだが、他の代議士ではなく楢崎代議士だったからこそ頼んだのだろう。早速菱山講師に楢崎氏の死についてメールを送ったところである。
あの頃は、社会党も選挙の度に成長に次ぐ成長で、議員数の拡大は日の出の勢いだった。土井たか子委員長の時代には、100名近い代議士が当選した。ところがその後社会党の党勢は衰える一方で、今では議員数は僅か1桁にまで落ち込んだ。時代が社会党のビジョンを受け入れなくなったということもあるが、社会党から名称変更した社民党自体にも当初の立党精神を噛み締め、社会的民主主義を追求する志や理念が感じられない。結局離合集散を繰り返し、その都度議員数は減少するというマイナス・スパイラルに陥ってしまった。その点で、楢崎氏らが活動していた時代には社会党はもちろん、社会にも活気があったと思う。良きにつけ悪しきにつけ、ああいうタイプの政治家は今後現れないのではないだろうか。