今朝の朝日新聞別紙‘GLOBE’に「英語化の行方」と題し、副題に‘Is English taking over the world?’と付して全3頁に亘る英語圏以外の国の英語への取り組みを取り上げている。
国連は国連憲章と総会議決により公用語を英語、フランス語、ロシア語、アラビア語、スペイン語と定めている。また、国連関係の国際機関の公用語としては、ほとんど英語、フランス語、スペイン語が使用されている。だが、公用語の平等性を尊重するあまり、すべての言語の翻訳を行うために非効率であることが問題になり、実際の交渉で直に話し合う場合はほとんど英語になるらしい。
そして、最近では英語が突出して使用されることが増え、フランス語やスペイン語の使用頻度は極端に減少しているという。特に外交用語として君臨していたフランス語の威光が陰り、欧州委員会ですら2001年の外交文書は英語55%、フランス語30%の割合だった。それが英語優先が更に進み、10年には英語が78%と圧倒してフランス語は僅か7%にまで低下した。
特に英語をマスターすることによるメリットが明確になるにつれ、外国語を学ぶなら英語を選ぶケースが増えてきた。こうして自国語以外の言葉として英語を学ぶ人が増えた。それも個人的に学ぶ場合のほかに、国がかりで英語を奨励するケースが目立ってきた。
シンガポールやマレーシアのように国内に多言語が使われている国では、独特の訛りのシングリッシュではなく、英語母国語への指導、つまり英米人のように流暢な英語を話すことが望まれるようになった。
韓国では貿易上の要請から、国がかりの英語教育の充実を目指している。しかし、実際には海外で使うというより国内競争で勝ち抜くための道具としての性格が強いという。従って、英語にコンプレックスを感じる人も多いようだ。日本より以上に受験競争が熾烈で、英語習得が国家戦略になっている韓国での取り組みに比べて、わが国の現状は、初等英語教育に関して目標や明確なメリットも不透明で、はっきりした理念や哲学もない。小学校から英語教育を取り入れることになったが、それを支えるバックアップ体制が不十分で、教師の養成は積み残されたままである。
私自身受験勉強のせいで相当貴重な時間をロスしたと思っているが、幸い外国人と仕事をする機会が多く必要な英語は‘Dale Carnegie Course’で学んだように、いくらかは自己啓発により補い、さほど専門的でなく簡単な通訳業務などでは何とか責任を果たすことはできたと思っている。しかし、もっと若ければ留学を含めて本格的に英語を勉強してみたいとの願いは強くあった。そんな想いから私の「自己紹介図」の「夢」欄には「来世はアメリカで教育を受けたい」と書いてある。
ただ、これからの世代の人たちは、外国人と英語でディベートできるだけの英語力、構想力と説得力を身につけることが自らの道を切り開くことにつながると思うし、そうなればより張り合いのある仕事にめぐり逢えるチャンスが増えると思う。しかし、幼少時に英語を勉強し始めても、「人のふり見て我がふり直せ」と言われるように、国語である日本語の基礎を学ぶ機会を失っては何もならないだろう。日本語のような文法の複雑な言語は基礎が大切だと思うからだ。すべて国際的な世の中になっても、それを仲立ちするコミュニケーション・ツールが効果をもたらさないようでは、宝の持ち腐れのようなものだろう。
さて、1週間後東日本大震災から1周年を迎える。今夜NHKスペシャル「映像全記録3.11」で、貴重な画像を流していた。初めて観る映像も随分あったが、その中で繰り返し映された陸前高田市の悲惨な映像に心が痛んだ。市役所と市民会館の荒廃した姿が痛ましい。4年前の8月に気仙広域連合から「図解」の講師を頼まれ、陸前高田市役所の担当者に宿泊していた大船渡プラザホテルから市民会館まで2日間に亘って車で送ってもらった。映像を観る限り講義会場だった市民会館は外壁だけ残され、近くの市役所も無残な姿を晒していた。そのときお世話になった市の担当者も亡くなられた。何とも言いようがない。