最近の学生があまり新聞を読まず、勉強もしないということは耳にする。論争でも外国人学生に中々勝てないともいう。ディベートなどを通して起承転結の論理構成力を早くから鍛えられる外国人学生に比べて、日本人学生はロジカルにじっくり物事を考える習慣が身についていないせいだろう。
そこへ外国人留学生が日本の大学に入りにくいとか、また日本人の外国の大学への留学が減少傾向にあるというハードルを越えるために、大学の秋季入学が今東大を始め各大学で真剣に検討されている。こればかりではない。実は、もうひとつのささやかな大学改革が実行されようとしている。
寡聞にして知らなかったが、東大ではこれまで9つの学部の授業開始時間がそれぞれバラバラだったという。どうしてこんな非効率で不都合なことがあったのだろうか。それが今春漸く改革された。どうも歴史的な背景があるようだ。外から見ると簡単そうな改革に見えるが、元々東京法学校、農学校、工部学校などの組織が集まって発足した東大には、各学部の独立性が強かった。他の国立大学でも同じような傾向があるらしい。それでも昭和にまで遡るこの改革の機運が具体化したのは、官僚的な国立大学としては一歩前進だろう。今後は各学部の人的な交流、流動化を進めて横断的な連携を取る必要があるのではないかと思う。
取り敢えず、こうして外国の大学と同じようにシステムとしてすっきりしたなら、これからは教育の中身と学生の意識の改革が勝負である。とりわけもう少しどうにかならないかと思うのは、大学生たちの社会への関わり方である。一部にはボランティア活動を通して社会との接触を深めようとする学生たちがいる一方で、周囲の社会にまったく接触しようとしない学生も数多い。社会に存在する無法、理不尽、不公平などを打ち破る力として時代の若者、特に大学生たちのエネルギーは大きな力となる。彼等には社会の制度やしきたりを変えるだけのパワーがある。我々が経験した60年安保闘争は、最終的には国家権力の前に挫折させられたが、社会へ大きな「改革」の風を吹き込んだと自負している。
然るに今日社会で大学生が社会人として社会の不合理や不平等に対して、異を唱えることはほとんど目につくことがない。学生は表面に出ることなく、自分たちだけの仲間内の社会に入り込み、自分たちだけの生活を送っているだけである。専門性が強すぎて「たこつぼ」化した大学で、たこつぼに潜んだ学生がマイペースで生活を営んでいる構図が見えてくる。はっきり言って、社会から恩恵を受けながら唯々諾々として甘んじて自由を享受しているのだ。もう少し学生は目を見開き、社会の一員として現実の社会と関わったらどうかと言いたい。そうでなければ、思考停止しながら「金正恩第一書記、万歳!」と繰り返すだけで、存在感のまったくない北朝鮮の大学生と何ら変わらない。