44年前の今日妻と高輪プリンスホテルでお見合いした。その当時「9月15日」は「敬老の日」と決まっていた。敬老の日にお見合いする奴もあまりいなかったかもしれない。私にしては最初にして最後のお見合いだ。私はその頃ややスランプ気味で若気の至りもあり、会社を辞めるとか辞めないとか、或いはひとりで戦時下の国々へ海外武者修行へ出かけて、親にしてみれば少し腰を落ち着けさせた方が良いと考えたのだろうか、この当時しきりにお見合い話が持ち込まれた。
まったく取り合わないでいたが、この時ばかりはお仲人さんの奥様が母と女学校の同級生で、お仲人さん夫妻と両親が親しく、昔から家族同士のお付き合いがあったせいもあり、加えて妻の父とお仲人さんが同じ会社の役員同志で家庭環境を良く知っていたこともあって、ともかく一度会ってみることになった。私も子どもの頃からよく知っているお仲人さんの奥様、妻の母、私の母が立会人?となって妻と会ったが、お見合いを終えて鵠沼の自宅に帰ってきたら、いきなり父がこの話に決めろと一方的に言い、結局それほどお互いに会うこともないうちに、翌年5月10日ホテル・ニューオータニ「芙蓉の間」で挙式し、翌日羽田から細かいスケジュールも決めないまま東南アジアへ新婚旅行に旅立った。
この新婚旅行もマレーシアで戒厳令が発令され、突然ペナン空港が封鎖されるトラブルに見舞われペナンへも行けなくなってしまった。やって来たバンコック空港で急遽行先をチェンマイに変更したようなドタバタだった。
お仲人さんが妻の父に私のことを「中々元気の良い青年」と触れ込んでいたうえに、私自身海外武者修行を繰り返して、当時としては傍目に少々型破りの人間に見えたようで、妻の両親も新婚旅行当初からトラブルに遭って少々あっけに取られたり、心配になったのではなかっただろうか。この男に娘を連れ去られるのではないかと思ったのか、11日間の旅行を終えて帰国は予定通り香港から羽田に帰り着いたが、妻の父が空港へ車で出迎えに来て、その日はそのまま我々新婚夫婦揃って妻の実家へ連れて行かれたほどだった。
早いもので、思えばあれから44年が経過して、お世話になったお仲人さん夫妻、妻の両親に私の両親もすでに他界した。今は2人の息子と4人の孫に恵まれ、大したトラブルもなくまずまず平穏な生活を送っている。河上肇の言葉ではないが「幾山河越えては越えて来つるものかな」の心境である。
今日長男の子どもたち3人が連休がらみで奈良から新幹線でやってきた。明日は長男が孫たちをディズニー・シーへ連れて行って、暫くわが家に居候している長男が子どもたちにサービスして久方ぶりのスキンシップを取り戻すようだ。