先日完成した「飯田鼎先生追悼文集」30部を持参して一条彰編集委員ともども奥様をお訪ねし、お世話になった先生の霊前へ追悼文集完成のご報告をした。
先生のご自宅は東武野田線鎌ヶ谷駅から歩いて10分程度のところにあるが、近年の市街地整備、特に駅周辺の開発、住宅建設、鉄道の高架化などにより、昔に比べて随分雰囲気も変わり市街地は都市化されたように見える。かつては農村のイメージが強く田畑ばかりで家屋もあまりなく、先生のお宅もだだっ広い雑木林の中に埋もれるようにあった。現在の開けた駅周辺の環境を考えると昔日の感がある。
そう言えば、東京方面からJR船橋駅へ向かう総武線沿線も大きな変貌を遂げている。都心から比較的近いこともあり、沿線人口が増えて交通の便も良くなり、ベッドタウンとして急速に発展したようだ。
昭和26~27年、私が中学生だった一時期通学していた頃は、下総中山駅周辺の田んぼでは上品な白鷺の集団が飛来して餌を啄ばんでいたのを車窓からしばしば見たものだが、今では田んぼはひとつも見られなかった。これも首都圏周辺の都市化現象の典型なのかと一面で寂しい思いがした。
奥様にはこの追悼文集を大変喜んでいただき、ご苦労さまでしたとねぎらいのお言葉をいただいた。先生ご夫妻には結婚55周年を迎えられた昨年5月、突然のように先生が亡くなられて、奥様はやはり寂しいと言っておられた。先生の愛妻家ぶりはつとに有名だった。特に処女出版書「イギリス労働運動の生成」の「はしがき」を、「原稿の浄書や整理に進んで協力してくれた妻静子の労を多とするものである」と結んだ表現は、我々学生の間でも長い間話題になっていたほどである。それだけに奥様のお気持ちは察するにあまりある。
その奥様が私の卒業論文のテーマ「河上肇論」を良くご存知で、私がゼミ入門面接で先生からその頃どんな本を読んでいるかと問われ、河上肇の「自叙伝」「貧乏物語」を読んでいるとお話ししてそれがゼミで河上肇について学ぶきっかけになったことを、奥様が先生からお聞きになったと伺い、嬉しい気持ちになった。帰りの道すがら一条さんと、いつかまたここを訪れる機会があるだろうかとしみじみ語り合った。27日に三田キャンパス内で開催される飯田会が最後の例会かと思うと何とも言えず寂しい限りであるが、先生が亡くなられた今、残念だがそれも時の流れとして受け入れざるを得ない。それにしても大学で飯田鼎先生という素晴らしい恩師に巡りあえたのは、幸運であり、わが人生最大の幸せのひとつだと思っている。
さて、昨日作家・丸谷才一氏が亡くなられた。享年87歳であるから、早過ぎるということではないが、それにしても名文筆家の死は少々ショックである。今日の日経朝刊の評伝に「もし丸谷才一氏がいなかったら、1970年代以降の日本文学は、もっと殺風景で平板なものになっていたに違いない」と書かれていたくらいである。私自身僭越ではあるが、石川淳、丸谷才一、大岡信を現代の3大名文家と見ていただけに、実に惜しく残念である。ご冥福をお祈りしたい。