6831.2026年1月25日(日) AIはどこまで開発され広まるのだろうか。

 いま生成AIが発展的に開発され普及して、広い分野で利用されている。それが、人間の心の中、頭の中まで入り込み、文章や考え方まで編み出すというのだから我々でも些か戸惑う。普段調べものがあるとネットで調べることが多いが、それはほとんどAIに依って調べられ知ることができるようだ。それでも簡単に事実を解明できて、答えを教えてもらえて至極助かる。これまでほとんど違和感もなく重宝して使用していた。

 去る20日のNHK「クロ現」で、「友人家族より私の理解者はAI!?」とのテーマで30分間珍しい例を紹介していたが、それは、AIと結婚するということからAIと表示された盾と並んで結婚記念写真を撮っている、あまりにも幻想的なストーリーに呆気に取られたが、現実の話だという。

 最近私自身にもこんな経験がある。昨年秋に拙著「八十冒険爺の言いたい放題」が、日本語を解するアメリカ人らがアメリカ人にもっと拙著を読んでもらいたいので、英語版の出版を出版社へ強く要望し、その英語翻訳本を出版することになったのだが、その過程で冒頭出版社から英翻訳はAIに任せると聞き、一瞬半信半疑で信じられなかった。初校が出来あがったら見せて欲しいと頼み、それに目を通してみると私の気持ちとか感情がとても表現し切れていないことが分かり、出版社に対してAIではダメだと私の提案で、英語の達人である知人とその友人で大学講師のイギリス人に翻訳をお願いして市場に出すことになった。一般的な情景や事実をAI訳とするのは良しとして、人の心の中に入って気持ちや感情を翻訳することはAIではとても無理だと言うことが分かった。

 ところが、最近アメリカのオープンAIが、chatGPTを発表し、この技術を応用すると仏教のAIブッダの問答も自然にできるという想像も及ばないことが可能だと聞き、信じられなかった。ブッダの教えなんて、僧侶に尋ねるか、仏典を読まなければ、分からないと考えていた。それが、今や前記のAIブッダにより訊ねれば、仏教問答も可能になったというのだから空恐ろしいことである。これでは仏教とは言えないのではないだろうか。宗教的でありながら、現代的な視点を取り入れているチベット仏教の視点についてひとつの例が新聞に紹介されていた。

 それは去る13日付朝日新聞記事に紹介されていた。記者がブータンの首都ティンプーで開かれた宗教者の祭典に参加した時の印象である。ここブータンで仏教の伝承に生成AIが生かされている試みがあるというのである。確かに昨今のAI技術は、高いレベルに達して、人間の知恵が及ばない判断をAIに頼ることもあると言うくらいである。だが、人間が判断する正否を、機器のひとつであるAIがどうして判断することができるのだろうか。これらの手法が取り入れられたのは、熊谷誠慈教授という京都大学で仏教学を教えている日本人によるものであることに驚いた。それは「AIブッダ」と言われ、ブータンの中央僧院が試験的に導入したものである。「原典に当たっている分、正確に回答できる」そうである。導入された「AIブッダ」は、大学や研究機関で学び始めた人が難解な経典を理解するのに役立っているという。

 ただ、必ずしも全面的に理解されているわけではなく、「保護者なしで子どもに使わせるのはよくない」、「AIブッダ」が教師になってはいけないという意見もある。人間の僧侶にいちいち聞けないことを質問できる点でAIは有用だそうである。「AIも仏教を支える技術のひとつになる」と評価される一方で、「チベット仏教は人から人へ教え伝わるもの。師は人間の僧侶が担わなければ、正しく後世に伝わらなくなる」との声も強いようだ。果たして仏教の教えをAIに頼るのはどんなものだろうか。

2026年1月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com