6830.2026年1月24日(土) 小中陽太郎さんを偲ぶ集まり

 一昨年12月に亡くなられた小中陽太郎さんを偲ぶ、懐かしい会食の集まりを自由が丘の中華料理店「麦府」で行った。普段からとても好かれていた方だったので、著名な方を合わせて親しい人たちばかり29名が集まった。皆それぞれに小中さんの想い出を語られたが、改めて人間的な魅力を知らされることになった。奥様と2人の娘さん、それにご長女のご主人までがそれぞれ秘めた想い出を語った。小中さんは、近くの都立大付属高バレー部に所属していた関係から、バレー部の後輩をはじめ、同校のOBが6人も来られた。元べ平連の関係者が4人も来られたのは、いかに小中さんがベトナム戦争反対を貫いたべ平連に深く関わり活動されていたかの証でもあるだろう。

 べ平連は、正式名を「ベトナムに平和を!市民連合」と言い、その名はほとんどの人が知っていたと思うが、作家小田実や哲学者鶴見俊輔らとともに、小中さんもその中心人物のひとりとして活動し、ベトナム反戦運動の他に、米軍脱走兵支援活動なども行った。特に世間の大きな話題となったのは、1965年にニューヨーク・タイムズ紙一面にベトナム反戦広告、そして67年にはワシントン・ポスト紙に岡本太郎が「殺すな」と大書した人目を惹くデザインの広告を掲載した時である。そして、行動面では、67年のアメリカ軍の横須賀海軍基地に停泊中の空母「イントレピッド」から4人の海軍兵が脱走し、その彼らをべ平連が匿い、その内の1人は小中さんの自宅に滞在し、その後、スウェーデンへ逃走する手助けをしてやったことである。その兵士がスウェーデンに無事着いて、その写真も新聞に掲載された。ところが、本人から小中さんへその無事スウェーデンに着いた事実や、何のお礼の連絡もなかったと聞いた。その点でその兵士の行動は礼儀知らずですねと小中さんに聞いたところ、彼が無事に米艦から逃げ出せただけで充分だと言われ、米兵が失礼である点については何も仰らなかった。この辺りの小中さんの考え方は、とても並みの人間には真似できない。小中さんを強くリスペクトするところである。

 今日は、与えられた2分間の短い時間の中で小中さんとの関係や、小中さんの想い出を語る段になって、私は小中さんとそもそも親しくなった経緯と想い出を話した。学生時代に60年安保闘争に熱中した時に、その中心となってリードしていた高校ラグビー部の1年先輩で、一緒にスクラムを組んでいた全学連書記長・清水丈夫さんから人づてに大学キャンパス内にオルグを作れと難しい指令が来たことがあったが、その清水さんを小中さんも知っているということから妙に打ち解けるようになった。その後ベトナム戦争中にベトナムへ出かけ厳しい経験をしたことをお話したところ、その行動は勇気あるもので大変結構だと激励された。そんなことがあって以来、小中さんとは妙に馬が合い、自宅も近所だったことから飲んだ帰りはいつも一緒に帰宅することがあって、親しくお付き合いさせていただいた。今日もべ兵連の方や、都立大高の参加者の声を伺っていると、小中さんの類まれな人間的な魅力を懐かしく想い出す。

 ベトナム反戦運動は、1975年に戦争が集結した時点で終わった。2015年にベトナム戦争終戦40周年記念として都内芝公園で小中さんを中心に気勢を上げた。それがジャパン・タイムズに写真入りで掲載され、私も小中さんとともに中心で気勢を上げている場面が載っている。

 今日集まった人たちにとっては、小中さんは忘れられない人で、また来年集まって小中さんを偲ぼうとの声が高まった。また、小中さんを想い出し、偲ぶことができそうだ。小中さんのご冥福を改めてお祈りし、夢の再会を期したいと願う。

2026年1月24日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com